第六話『夏の残響』②
◇
数日後。
アペックス本社の投資家リレーション室から、一枚の報告書が但馬のもとに届いた。
海外の複数ファンドが、関連子会社「Apex Intelligence Ltd.」の株式を少しずつ買い増しているという。
名義はすべて別会社。だが、報告書の片隅に並んだ住所は、どれも同じニューヨークのビルを指していた。
表向きはそれぞれ五パーセント未満の出資──報告義務の網をくぐり抜けた合法的な侵入だ。
金融庁の監視をすり抜けるよう計算された、見事な連携。
「……やられたな」
但馬は静かに書類を閉じた。
いままで気づかなかったのは、彼らが名義を分散させ、少額出資を偽装していたからだ。
誰も、点在する数字の裏に同じ意思が潜んでいるとは思わない。
その点がいつの間にか線になり、線が面を覆っていく。
気づいたときには、もう遅い。
ガラス越しの東京の空は、どこか濁った曇り色をしていた。
但馬は長く息を吐き、低く唸った。
「理念も理屈も、数字の前では、ただの飾りか……」
翌朝の大手町。本店ビルの最上階の役員専用会議室。
ガラス越しに見える街は、昨夜降った雨の湿気を残していた。
スーツ姿の幹部たちは、なぜ今日、招集がかかったかを知らされぬまま、緊張感を保ち、沈黙している。
壁際には秘書課、情報統制室の担当者が立ち、机上には水のグラスが等間隔に並んでいる。
開会の合図もなく、但馬専務が口を開いた。
「……国が動いている。
内閣情報局から正式な通達だ。アペックスは産業保全対象に指定される可能性が高い」
一瞬、会議室の空気が固まる。
経営企画の若手役員が、無意識にペンを握りしめた音が響く。
「どういうことです?」
海堂の声は低く落ち着いているが、その奥に火が見えた。
「簡単に言えば──我が社が開発しているAIの技術が、外資に狙われている。
もう向こうは、目を通したような口ぶりで話してるらしい」
「情報漏洩ですか?」
「まさか、どうやって?」
会議室がざわめく中、情報セキュリティ部の部長が慌てて立ち上がる。
「社内通信はすべて監査済みです! 外部との送信記録も問題ありません!」
隣の若い技術監査官が、ためらいがちに口を挟んだ。
「……部長、あの件は?」
「なんのことだ」
「暗号化データの痕跡です。昨日、技術監査チームから報告が上がってます。
でもその暗号化データが、通常のAES系とは違って……既知のどの規格にも一致しません。……意図的に痕跡を薄くしたような……」
「解析中だろうが! 正式な報告書は、まだ上がっていない!」
海堂の声が鋭く割り込む。
「つまり、誰かが持ち出したと?」
部長は唇を噛み、何も言わなかった。
代わりに、会議室の空気がぴたりと凍る。
その沈黙を、但馬が切った。
「もう遅い。これ以上進めれば、公安が入る。
モノリスの開発を続ける限り、会社ごと監視対象だ。
言わずともわかるだろうが、そんな愚は犯せん。株主に口を挟む権利を与えることになるからな」
「脅しですか?」
誰もが黙る中、海堂だけが声を荒げた。
「……国に都合が悪いものは、すべて封じるんですか?
でも俺らが作ってるのは、都合じゃなく、人を救うための仕組みやないですか。
それすらも守れんで、何を守るつもりですか?」
「論点をすり替えるな、海堂部長。これは、会社を守るための判断だ」
但馬の声は低く、しかし揺るぎがなかった。
「この会社が崩れたら、何万人もの社員や関連企業、その家族が路頭に迷うと思う? ……その現実を背負う覚悟が、お前にあるか」
海堂は言葉を失い、ただ視線だけがぶつかる。
焦げるような沈黙のあと、彼はかすかに息を吐いた。
「……理念を守るってのは、いつから沈黙することになったんですかね」
海堂は必死で言葉を紡ぐ。
この場でモノリスを守れるのは、自分だけだという現実が、彼の背を押し続けた。
「……コードを分割して保全する手があります。
コアの倫理モジュールだけ隔離して、開発ライン自体は凍結中として動かす。
それなら、公安が来ても、倫理実証研究の名目で逃げられる……」
そのとき、総一が椅子から立ち上がった。
疲労の濃い顔に薄い照明が落ち、声は静かだった。
「……モノリスは凍結する」
誰もが息を止め、彼を見た。
それが簡単に下せる判断ではないと、ここにいる誰もが知っている。
だが、総一の言葉はどこまでも穏やかで、感情の色が見えなかった。
「倫理も理想も、今は必要ない。
モノリスを守って、会社を失うわけにはいかない。
手段と目的を違えるな、海堂部長」
海堂はゆっくりと立ち上がった。
机の上の水が、わずかに揺れる。
「そんなもの……守りとは、よう言えへんわ」
総一はその姿を一瞥すると、短く言葉を落とした。
「海堂部長。──もっと頭を使え。
守るというのは、声を荒げることじゃない」
その言葉に海堂は、はっとした顔をした。
二人の視線が絡み、数秒後、海堂は丁寧に頭を下げた。
「場を乱したことをお詫び申し上げます。
やるべきことを思い出したので、私はこれで失礼します」
海堂が立ち去り、ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
但馬は無言で資料を閉じ、総一は視線をずらして、窓の外の曇天を見ていた。
「若いな、海堂は……」
但馬の独り言に、総一は何も答えない。
「それが、羨ましくも、愚かしくもある」
遠くで雷が鳴った。
夏の空は、容赦なく嵐を呼ぼうとしていた。
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