第六話『夏の残響』②



 数日後。

 アペックス本社の投資家リレーション室から、一枚の報告書が但馬のもとに届いた。

 海外の複数ファンドが、関連子会社「Apex Intelligence Ltd.」の株式を少しずつ買い増しているという。


 名義はすべて別会社。だが、報告書の片隅に並んだ住所は、どれも同じニューヨークのビルを指していた。

 表向きはそれぞれ五パーセント未満の出資──報告義務の網をくぐり抜けた合法的な侵入だ。

 金融庁の監視をすり抜けるよう計算された、見事な連携。


「……やられたな」


 但馬は静かに書類を閉じた。

 いままで気づかなかったのは、彼らが名義を分散させ、少額出資を偽装していたからだ。

 誰も、点在する数字の裏に同じ意思が潜んでいるとは思わない。

 その点がいつの間にか線になり、線が面を覆っていく。

 気づいたときには、もう遅い。


 ガラス越しの東京の空は、どこか濁った曇り色をしていた。

 但馬は長く息を吐き、低く唸った。


「理念も理屈も、数字の前では、ただの飾りか……」


 翌朝の大手町。本店ビルの最上階の役員専用会議室。

 ガラス越しに見える街は、昨夜降った雨の湿気を残していた。


 スーツ姿の幹部たちは、なぜ今日、招集がかかったかを知らされぬまま、緊張感を保ち、沈黙している。

 壁際には秘書課、情報統制室の担当者が立ち、机上には水のグラスが等間隔に並んでいる。


 開会の合図もなく、但馬専務が口を開いた。


「……国が動いている。

 内閣情報局から正式な通達だ。アペックスは産業保全対象に指定される可能性が高い」


 一瞬、会議室の空気が固まる。

 経営企画の若手役員が、無意識にペンを握りしめた音が響く。


「どういうことです?」


 海堂の声は低く落ち着いているが、その奥に火が見えた。


「簡単に言えば──我が社が開発しているAIの技術が、外資に狙われている。

 もう向こうは、目を通したような口ぶりで話してるらしい」

「情報漏洩ですか?」

「まさか、どうやって?」


 会議室がざわめく中、情報セキュリティ部の部長が慌てて立ち上がる。


「社内通信はすべて監査済みです! 外部との送信記録も問題ありません!」


 隣の若い技術監査官が、ためらいがちに口を挟んだ。


「……部長、あの件は?」

「なんのことだ」

「暗号化データの痕跡です。昨日、技術監査チームから報告が上がってます。

 でもその暗号化データが、通常のAES系とは違って……既知のどの規格にも一致しません。……意図的に痕跡を薄くしたような……」

「解析中だろうが! 正式な報告書は、まだ上がっていない!」


 海堂の声が鋭く割り込む。


「つまり、誰かが持ち出したと?」


 部長は唇を噛み、何も言わなかった。

 代わりに、会議室の空気がぴたりと凍る。


 その沈黙を、但馬が切った。


「もう遅い。これ以上進めれば、公安が入る。

 モノリスの開発を続ける限り、会社ごと監視対象だ。

 言わずともわかるだろうが、そんな愚は犯せん。株主に口を挟む権利を与えることになるからな」

「脅しですか?」


 誰もが黙る中、海堂だけが声を荒げた。


「……国に都合が悪いものは、すべて封じるんですか?

 でも俺らが作ってるのは、都合じゃなく、人を救うための仕組みやないですか。

 それすらも守れんで、何を守るつもりですか?」

「論点をすり替えるな、海堂部長。これは、会社を守るための判断だ」


 但馬の声は低く、しかし揺るぎがなかった。


「この会社が崩れたら、何万人もの社員や関連企業、その家族が路頭に迷うと思う? ……その現実を背負う覚悟が、お前にあるか」


 海堂は言葉を失い、ただ視線だけがぶつかる。

 焦げるような沈黙のあと、彼はかすかに息を吐いた。


「……理念を守るってのは、いつから沈黙することになったんですかね」


 海堂は必死で言葉を紡ぐ。

 この場でモノリスを守れるのは、自分だけだという現実が、彼の背を押し続けた。


「……コードを分割して保全する手があります。

 コアの倫理モジュールだけ隔離して、開発ライン自体は凍結中として動かす。

 それなら、公安が来ても、倫理実証研究の名目で逃げられる……」


 そのとき、総一が椅子から立ち上がった。

 疲労の濃い顔に薄い照明が落ち、声は静かだった。


「……モノリスは凍結する」


 誰もが息を止め、彼を見た。

 それが簡単に下せる判断ではないと、ここにいる誰もが知っている。

 だが、総一の言葉はどこまでも穏やかで、感情の色が見えなかった。


「倫理も理想も、今は必要ない。

 モノリスを守って、会社を失うわけにはいかない。

 手段と目的を違えるな、海堂部長」


 海堂はゆっくりと立ち上がった。

 机の上の水が、わずかに揺れる。


「そんなもの……守りとは、よう言えへんわ」


 総一はその姿を一瞥すると、短く言葉を落とした。


「海堂部長。──もっと頭を使え。

 守るというのは、声を荒げることじゃない」


 その言葉に海堂は、はっとした顔をした。

 二人の視線が絡み、数秒後、海堂は丁寧に頭を下げた。


「場を乱したことをお詫び申し上げます。

 やるべきことを思い出したので、私はこれで失礼します」


 海堂が立ち去り、ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。

 但馬は無言で資料を閉じ、総一は視線をずらして、窓の外の曇天を見ていた。


「若いな、海堂は……」


 但馬の独り言に、総一は何も答えない。


「それが、羨ましくも、愚かしくもある」


 遠くで雷が鳴った。

 夏の空は、容赦なく嵐を呼ぼうとしていた。

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