第六話『夏の残響』①

 アペックスホールディングス専務取締役、但馬義正。

 彼は、創業者・後藤田黎一を知る最後の世代だった。

 会社が急成長を遂げる途中、黎一と社食で並んで座ったことも何度もある。


 若者たちは夢を語り、黎一は「人を支える構造」を口にした。

 その理念を信じてきたからこそ、彼は今もこの会社に残っている。


 アペックスの風土は常に「人を育てる」ことに価値を置き、育った側から転職していく者が多い。

 そのため、四十を過ぎて残る者は、ほとんどがグループ内部の柱になっている。

 だからこそ、若い世代の台頭と離職を自然な代謝だと捉えてきた。


 しかし、海堂が「離職率の高さが問題だ」と言うたびに、但馬は内心で「それも一理ある」と思っていた。

 少子化が進むにつれて、会社の新陳代謝の速さは、遅かれ早かれ問題になる。


 そして、この先の見えない時代を勝ち抜くには、革新的な技術と、世の中を動かす仕組みが要ることも、賛成はしないが理解はする。

 若い海堂や総一が、AI開発に夢を見る気持ちは、痛いほどわかるからだ。


 ……だが、それでも思う。

 理念は、守るためにあるのであって、変えるためにあるわけじゃない。

 完成していないAIなど、夢物語にすぎん。


 会社を未来に残すために必要なものが何か──それはまだ、誰にもわからない。



 その年の夏、霞ヶ関。

 蝉の声さえ、厚い窓ガラスに阻まれて届かない。

 経産省本館の会議室には、午後の陽が白く反射していた。


 産業安全保障に関する有識者会議に、但馬は企業代表の一人として招かれていた。

 会議は形式的なもので、議題が終わると名刺交換の輪ができた。

 その中で、一人の男が小声で彼に近づいた。


 経産省産業保全課の課長補佐。

 年の頃は四十前後、無駄のない所作と、情報屋特有の軽さをまとっている。


「但馬専務。……今、少しだけ、よろしいですか」


 秘書にこの場に控えるよう言付けてから廊下に出ると、照明の白さが目に刺さった。

 官庁の空調は容赦がなく、夏でも冷気が皮膚を撫でていく。

 嫌な予感を覚えながらも、それを顔に出すような若さは残っていない。


 男は立ち止まり、周囲を見回してから低い声で言った。


「単刀直入に言いますね。

 御社が開発中のAI、なんとかスコアについて、問題が発生しました」


 但馬は眉をわずかに動かす。


「……なんとかスコア……ですか? なんのお話か、よくわからんな」


 プロジェクト名はモノリスだが、なぜか開発中のスコアの名が漏れている。それが、いっそ不気味だった。

 男はこちらの言葉など意に介さない様子で、肩を竦めた。


「隠したがるお気持ちは理解します。だが残念ながら、外資の連中が、もう目を通したような口ぶりで話してるんですよ。

 どこから漏れたかは、こっちにも掴めてない。

 ただ、あいつら本気で買いにきます。金じゃなく、枠で」


 但馬はわずかに息を吸い込んだ。


「失礼。枠という名が意味するものは? リークするなら、はっきり教えて欲しい」


 その言葉が意味するところはわかる。だが、あえて目の前の男に尋ねた。

 それは、真意を確かめるためでもある。


「……国際共同研究。出資。提携。どの名目で来るかは存じませんが、狙いは中身じゃなく権限です」

「……それで、今後、君たちはどう動く?」


 君たちというのは、つまり、国を指す。この官僚が敵か、そうではないのかだけでも知りたかった。


「……あんまり言いたくはないが、このままだと、そう遠くないうち、国として、この案件を監視対象に入れることになります」


 ひゅっと喉が鳴りそうになるのを、寸前で堪えられたのは、プライドではなく経験の賜だ。

 だが、今となっては、その程度の誤魔化しは何の意味もなさないだろう。

 男は「伝えたいことはそれだけです」と手帳を閉じ、会釈して静かに去っていった。

 廊下に一人残された但馬は、照明の反射で白く光る床を見下ろしたまま、動けなかった。


 ──外資が、アペックスを狙いに来ている。


 これは、モノリスの問題ではない。

 アペックスという会社そのものが、外から測られ始めているということだ。


 その結論は、静かに胸の奥に沈殿していく。

 なぜ、今日この時点まで、そのことに誰も気がつかずにいられたのか。

 その問いが、遅れて自分自身に返ってくる。


「くそっ」


 滅多に感情的になることのない但馬が、思わず壁を叩くほどに、嫌な予感が足下に迫っている。

 この日の霞ヶ関の冷気は、夜になっても背後から消えなかった。

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