第五話『歪んだハレルヤ』②

 テストケースの運用が始まり、その数ヶ月後。

 誰も予期しない形で、変化はいきなり訪れた。


 ◇


 CASE 67:総務部・西谷悠斗(33)

 悩み:部署異動による業務停滞と、評価の低迷。


 モノリスは過去の評価履歴と業務ログ、対人ストレス指数を照合し、「三年前に在籍していた部署への復帰」を最適解として提示した。評価は高かった。数字上の適性も、本人の業務品質も、すべてその部署が最も良い。


 ただ一つだけ、モノリスは読み落としていた。

──彼がその部署で、メンタル不調を発症し、半年休職していたということ。


 その事実を把握しながら、その心の機微を、判断の材料に入れられなかったのだ。


 異動辞令が出た日、彼は静かに頷き、周囲に気づかれないように帰った。翌朝、彼の机には何も置いていなかった。


 ◇


 海堂が報告書を閉じる。


「適性は……たしかに、数字では最適なんやけどな」


 真田は眉間を押さえた。


「正しさだけで配置を決めれば、人は……数字より先に、心が折れる」


 梶は、沈黙したままデータの注釈を見つめていた。モノリスは間違っていない。ただ、人間の痛みを知らなかっただけだ。そして、痛みを知らない AI が導く答えは、人間にとっての正解を出せない。


 翌週、モノリスは新たに七つの部署に最適解を提示した。ところが、それは正しすぎて、人間の側が追いつかなかった。提案は的確だった。数字も整合している。ただ、人間の感情や葛藤が、そこに置き去りにされていた。


「……これ、おかしくないか?」


 真田が示した案件は、管理部の評価フロー改善だった。モノリスは完璧に見える最適解を提示している。だが、対象となった社員の心情は真逆のもので、改善がむしろ本人を精神的に追い詰めていた。


 真田は眉を寄せ、画面に食い入る。


「データ上は正しい。でも……人の動き方が伴ってない」


 梶は椅子に寄りかかり、腕を組んだ。


「……データの例外やと思いますけど」

「例外?」


 真田の声がわずかに強くなる。


「三件じゃないぞ。西谷も含めたら四件連続だ。どこまでを例外と呼ぶ?」

「……人の側が、まだ心の段取りを作れてへんだけやろ」


 その言い方が、真田の胸に火をつけた。


「段取りができてない、って……それを正解の側から決めるのか? それとも、AI か?」


 梶は視線を落とし、ゆっくり息を吐く。


「……ちゃう。現場です。モノリスは結果を出しとるだけで……。受ける側の人間の事情は、扱いが難しい」


 言い終えた瞬間、部屋の空気が軋んだ。海堂は何も言わず、二人のやりとりを見守っている。


 真田は低く言った。


「梶、お前も気づいてるだろ? モノリスの観測の歪みを。これらを全部、例外って呼ぶのか?」


 梶は視線を外しながら、息をのんだ。本当は、最初の結果を見たときから違和感を抱えていた。だが黙っていた。それを認めれば、この構造そのものが揺らぐ気がして、怖かった。

 向き合えば向き合うほど、モノリスの歪みは大きく見えてしまう。それを改善するための手を、黙って必死に考え続けてきたが、答えが見えない段階では誰にも打ち明けられなかった。


 真田の声が途切れたあと、梶は黙ったまま、画面の別のログを指でスクロールした。その動きに、真田が眉をひそめる。


「……何を見てる?」

「これです。西谷さんの沈黙ログ」

「沈黙? 発言してない時間か?」

「はい。でも発言してない時間の中にも、いくつか違う種類が混ざってる気がするんです」


 梶は、西谷の過去三ヶ月分のデータにマーカーを引いた。


「ほら。この沈黙は、判断の迷い。こっちは、疲労。これは……誰かに気を遣うて、踏みとどまってる沈黙です」


 真田は息を止めた。梶は続ける。


「モノリスは人間の沈黙を全部同じ値で扱ってる。でも、人は同じようには黙らん。黙る理由が違えば、解決策も全部違うはずなんです」


 真田が完全に言葉を失った。その沈黙は、モノリスを見つめる梶に向けたものだった。梶は画面から目を離さず、ぽつりと言う。


「……もしモノリスが沈黙の種類を理解できたら、どれだけ正しい提案でも、人を追い詰めずに済む」


 海堂がわずかに目を細める。


「それは可能なことなのか?」

「……残念ながら、それをこれから考える必要がありますね」


 真田は、梶の横顔を見つめたまま、喉が動かない。倫理の専門家である自分でも見えていなかった層。その揺れの分類という発想は、あまりにも直感的で、あまりにも人間的だった。


「……梶。お前、それ……どこで思いついた?」


 梶は少しだけ考え、静かに答える。


「人って……嘘つく前、必ずちょっと黙るから」


 真田の頭の隅に、冷たいものが落ちた。自分の守備範囲では届かない領域に、後輩が手を伸ばし始めている──そんな感覚だった。


 梶は本来、行動反応モデル、つまり行動科学が専門だ。一方で、沈黙の揺れや心の閾値は、真田がずっと扱ってきた AI 倫理の中核領域だった。

 だが、その境界線をいま、梶が平然と跨いできた。しかも論理ではなく、観察と痛みの経験からまっすぐに辿り着いてしまった。


 気づいた瞬間、真田は思わず息を呑んだ。それは自分が何年もかけてようやく理解した領域であり、学生時代から専門にしてきた研究テーマだったからだ。


「……誰かに教わったのか?」


 問いは静かだが、声は微かに揺れていた。


 梶は肩をすくめただけだった。


「ちゃいます。ただ、そう見えただけです」


 その瞬間、真田は悟った。

 梶雪斗は、ただの技術者でも研究者でもない。

 痛みによって倫理の輪郭を、最初から掴める人間なのだ。


 ──怖い。


 そう、初めて思った。

 そして同時に、彼と同じ視点に立てていない己の未熟さに、猛烈に腹が立った。

 それは、梶に対する嫉妬ではなく、自分の限界が見え始めたことへの怒りと恐怖だった。


 技術者としての才能はいうまでもなく、梶の真っ直ぐな目は、はじめて出会った頃から何ひとつ濁っていない。だからこそ、自分がまだ辿り着けていない場所へ、この男が行く未来が、はっきりと予想できる。


 尊敬に近い感情なのか、それとも置き去りにされる気配への本能的な恐れなのか。

 その正体を言語化できないまま、真田は震えそうになる拳を握りしめた。

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