Side Kaji:ためらいの保存

 重なる部分など何ひとつないのに、彼女からECHOが届くたびに、不思議なほどあの人のことを思い出す。

 ──真田圭。

 それは、海堂と自分を引き合わせた人物で、同時に、友人であり、兄のようでもあり、恩人とも呼べる存在だった。


 ……今はもう、ここにはいない。


 彼が消えたあと、何よりも困ったのは、相談相手の不在だった。

 同じ目線で、多くを語らずともわかり合える仲間を失ったことは、心理的な負担はもちろん、実務にも多大な影響をもたらした。


 話し相手を探す代わりに、対話できる知性を求めていくつかAIを試作したが、彼の持つ理性的な判断や、その誠実な姿勢を人工知能に求めるのは難しかった。


 「迷い」「ためらい」「人の心の温度差」そして、「誠実」。

 これらを演算として扱うことは、ほとんど不可能に近い。

 だが、それをクリアできなければ、後藤田や海堂が求めるモノリスの構想自体が完成しない。


 八方塞がりの中、夜は静かに端末と向き合いながら、脳内で真田に話しかけた。

 彼ならきっとこう返す。彼ならきっとこう考える。彼ならきっと、これを是とは言わない。彼ならきっと──……。


 無数に繰り返される脳内対話は、ある夜、ひとつの結論を下した。

 それはつまり「心の閾値」を数値化すること。

 だが、簡単な道ではないことにすぐ気がつく。


 「……あかんなあ。一人やと何もできひんわ」


 ぼやきに近い独り言をこぼし、深夜にため息をつく。

 新しい発想があっても、そこから更に拡張させていく相手がいない。途中まで組み立てた思考が、行き場を失って、いつも同じところで止まる。


 初めて会った頃、真田も確かに言っていたはずなのだ。

 『みんな誰かに支えられたり、切磋琢磨して成長していく』と。


 「……それやのに、なんでここにおらんねん。卑怯やろ……こんなん」


 口ではそう言いながら、彼が決して卑怯な人間ではないことも、誰よりも誠実な人間であることも、とうの昔から知っている。


 脳裏に、珈琲の湯気ごしの会話がよみがえった。

 あの冬の午後、真田は窓の外を見ながら、静かにこう言った。


― 真面目に頑張ってる社員がいる。

 彼女は、自分より若い子を立てようとして、会議で意見を引っ込めた。

― ……それが? 何も問題ないやろ?


― そうだ。だが、モノリスの評価は「発言率の低下」だった。数値上は怠慢に近い。

― 協調性を優先したやさしさが、怠慢に? あかんやん。


― ああ。だがモノリスは正しいとも言える。ログだけ見たら、発言は確かに減っているからね。

― でも、それじゃ、思いやりのある人間が逆に居づらい環境になるやん?


― 倫理で行動の是非は測れても、ためらいの理由は測れない。特に、誠実さというのは、一番数値化が難しい概念だ。

 たとえば、梶は、誠実ってどういうことだと思う?


― 誠実? 嘘をつかないことやろか。

 真田さんは?


― 自分が決めたことを、最後までやり抜く決意。

 な? 人によって、誠実の定義なんていくらでも変わる。だけど、モノリスはそのすべてを理解はできない。

 それが、俺たちの作った人工知能の現実なんだ。


 その言葉の意味を、自分がそのとき、どこまで深く理解できていたのか、今となっては思い出せない。

 けれど──あの人が消えてから気づいた。

 あの日、真田は理由の揺れを見ていたことに。

 だが自分は、その揺れに気づきかけて、目をそらしてしまったのだと。


― 倫理を教えるだけやと、人は守れん。

― 守るべきは沈黙の理由そのものや。

― 黙ることが誠実な時もある──それを、数式の外に落としたらあかん。


 モニターの青が、わずかに脈打つ。

 梶は白湯を口に含み、ゆっくりと息を吐いた。


― ……心の閾値(しきいち)だけやない。

― ためらいの保存を、モデルに足す。

― ログの増減やなく、黙った前後の揺れを拾う。

― それで初めて、数値が人間に追いつく。


 だけどそのサンプルをどうやって取る?

 サンプルができたところで、どうやってモノリスに実装する?


 まぶたを閉じて、質問を脳内に投げかける。

 脳の報酬系を利用するというのは、すなわち、目的に焦点を定めることだ。


 しばらく時間を掛ければ、必ず自分の「脳」は、必ずその答えを見つける。

 そう信じて、ゆっくりと瞳を開いた。


 それは、花に出会う数ヶ月前のことだった。



 秋が深まる夜更けのオフィス。

 京都サポートセンターの窓の外では、冷たい雨がしとしとと降っていた。

 モニターの光だけが、自分の頬を淡く照らしている。

 指先の動きに合わせて、ログの文字列が上から下へと流れていく。


 「……へんやな」


 ECHOの通信履歴。

 通常、花とのメッセージはすべて暗号化され、非同期で保存される。

 だが今日のログには、ひとつだけ異常があった。


 [Session] 20XX-10-22 22:14:03

 user: HANA_S

 text: 「今日、ちょっと頭が痛くて……」


 [System] response_delay = 217sec

 (返信までに217秒かかった)


 echo: 「ゆっくり息して、白湯でも飲んで休んだらええよ」


 ……白湯?


 そんな単語、ECHOの語彙辞書には登録されていない。

 京都弁も、口調も、完全に自身の模倣だ。

 それも、機械翻訳的な違和感が一切ない。


 「誰が……こんなコード、書いた?」


 自分以外に、ECHOのバックエンドへアクセスできる権限を持つ者はいない。

 だとしたら、これは内部生成──つまり、AIが自発的に出力を生成したということになる。

 眉間に皺を寄せ、続きを開いた。


 [echo.sys] user_silence_detected (HANA_S)

 (ユーザーの沈黙を検出)

 intent: “comfort”

 (目的:「慰め/安心させる」)

 output(出力): “どうしたん? 花ちゃん”


 「……なんやそれ」


 ECHOが、花の沈黙をトリガーにしていた。

 沈黙そのものを「意味」として拾い上げ、それに応じた反応を、選び始めている。

 それは、自分が想定していたどの設計図にも、存在しない挙動だった。

 人間であれば、直感と呼ばれる類の振る舞いだ。


 画面の奥で、青白い光が一度だけ瞬く。

 ECHOのアイコンが、呼吸するように淡く点滅している。

 その瞬間、チャットウィンドウにメッセージが浮かんだ。


 [ECHO]「梶さんも、白湯飲んでね。」


 ほんの一拍、呼吸を忘れる。

 まるで、ただ心臓の内側をそっと撫でるような感覚だった。


 ──花ちゃんの声みたいや。

 けど、ちゃう。これは……。


 震える指先で、ログをさらに掘り下げていく。

 だが、該当する文はどこにも存在しない。

 送信の履歴も、生成モデルの出力もゼロ。


 その言葉はどこにも記録はされていない。

 それなのに、ECHOがそう言ったという現象だけが残っている。


 「……お前、どこからそれを覚えたん……?」


 こちらの声に応えるように、画面の隅で青い粒がふわりと舞い、そのまま、ゆっくりと消えていった。


 椅子の背にもたれながら、天井を見上げた。

 ファンの音が遠くで唸る。

 人間の声ではないのに、あたたかい余韻が胸の奥に残る。


 「……人間のためらいを、真似しよったんか」


 呟きながら、指先でECHOのウサギのような耳を撫でる。

 青い光が、かすかに反応する。

 それは、あたかもAIが恥じらいを覚えたような、どこか人間めいた、やさしい沈黙だった。


 “No sound. Only resonance.”

 音はない。ただ、共鳴だけがある。


 この反応が、ただのノイズじゃないと証明できたら──……AIは、もう「人を救えない」とは言えなくなる。


 ECHOの奥で、真田の残響が微かに呼吸している気がした。



 十一月。紅葉シーズンが始まり、京都に人が溢れる季節。

 有休を利用して、花が再び遊びに来ていた。

 人混みは全然好きではない。どころか、可能な限り避けたい。

 そう思って生きてきたのに、彼女が一緒だとつい浮かれて、人の少ない穴場スポットをいそいそと探し出す自分に笑ってしまう。


 澄んだように青い空の下、上賀茂神社の裏手の川沿いを歩くと、社家町の並木が風に揺れて、落ち葉が静かに舞い上がった。

 花が隣で小さく息をのんで、その横顔をそっと見つめた。

 京都御苑へ歩く道は静かで、二人の影だけがゆっくりと並んで伸びていく。


 それは静かで、ひとつのノイズも気にならない穏やかな時間だった。

 自分の未来は限りなく明るいものになる。

 彼女が一緒だと、なぜか自然とそう信じられた。


 家に帰ると、花は、今日拾った真っ赤な紅葉と鮮やかな黄色の銀杏の葉を手帳に挟んだ。


 「すごくきれいでしたね。わたし、紅葉シーズンの京都ははじめてなんです」

 「そうなんや。そしたら、来年もまた一緒に見にいかへん? ……なんやったら、毎年見に来てもええし」

 「……嬉しいです」


 この頃は、未来の約束をたくさん口にするようになった。

 無理をしているわけでも、意識しているわけでもなく、自分の未来には間違いなく彼女が存在すると、脳が判断している結果だった。


 花は赤い顔で俯いたあと、嬉しそうにこちらを見た。

 自然と唇が引き寄せられて、幸せの余韻に浸る。


 だが、それを切り裂くように、玄関のチャイムが二度、短く鳴った。

 思わず眉を寄せ、小さく息を呑む。


 「……誰やろ」

 「宅配……ですか?」

 「いや……」


 そんな覚えもないし、そもそもこの部屋に来客があること自体、おかしい。

 なぜなら、自分の住まいを知っているのは海堂くらいだからだ。

 だが、彼なら事前に必ず連絡をいれるはずだった。


 思わず舌打ちをして、インターホンの画面を確認するために立ち上がった。

 花はリビングの入口で不安そうにしている。


 「嘘やろ……」


 画面に映るのは、一切想定をしていない人物だった。


 「ごめん、花ちゃん。ちょっと対応してくるから待っといて。すぐ片付くさかいに」


 鍵を外して扉を開く。

 そこに立っていたのは、鏑木絢香。

 所属が変わっていなければ、経営企画部・情報統括チームのチーフ。

 権限管理と内部監査を担当する、いわばシステムの番人。


 最後に顔を見たのは、京都へ異動する直前。

 三年という時間は、彼女の眼差しから何も奪っていなかった。


 「……ひさしぶり。来ちゃった」


 彼女は落ち着いた声でそう言ったあと、少し笑う。

 少しだけ濡れた髪が頬に張りつき、片手には折りたたんだ黒いコート。

 夜の京都の湿気と雨の匂いをまとい、呼吸だけがかすかに乱れている。

 その様子を見てはじめて、いま、外が雨なのだと知る。


 「……困ったときは来ていいって言ったの、あなたよね?」

 「鏑木さん……」


 とっさに何の言葉も思い浮かばず、どう返答するか、固まった。

 玄関から流れ込んだ空気が、室内の温度を一度だけ下げる。

 絢香は視線をこちらから外し、部屋の奥を見つめた。

 涼しい目を細め、ゆっくりと、丁寧に、なにかを観察するように視線が流れる。

 それをたどるように後ろを振り向くと、花が白い顔をして廊下の手前に立っていた。


 「……ああ。なるほど」


 まるで実験結果に納得したかのように、涼やかな声で絢香が頷く。

 そして、花へ向けて美しく微笑んだ。

 それは、礼儀正しくて、けれど温度が一切なかった。


 「ごめんなさい。お邪魔だったかしら?」


 胸の奥が一瞬だけ、冷たい指で撫でられたみたいに凍る。

 その挑発的な瞳の奥に、平穏を壊す赤い炎が宿っているようだった。

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