Side Kaji:これが、いい

 穏やかな年末年始はあっという間に過ぎ、後ろ髪を引かれながら、京都へ戻った。


 それからも仕事の都合をつけては、無理を押して花に会いに東京へ向かった。

 彼女を抱きしめるたび、離れたくないと駄々をこねているのは、自分の方だと嫌というほど思い知らされる。


 今までも、脳のアルゴリズムを最適化するように生きてきたつもりだった。

 だが、そんな日々が嘘のように、花と出会って以来、勘が冴え仕事がはかどる。


「俺に必要なんは、脳の最適化やのうて、花ちゃんなんやなあ……」


 彼女に逢うためだと思えば、どんな面倒なことも耐えられる。

 世間では色惚けというのだろうが、自分に置き換えるとこれは、生き方の再構築に近かった。


 三月。彼女の誕生日が近づいた夜。

 数日前から、ECHOに通話機能を組み込む作業を進めていた。

 通話そのものの仕組みは難しくない。

 問題は、ECHOが受け取る「声」を、ただの音として扱わないことだ。


 ECHOは生身の会話を録音もしないし、履歴も残さない。

 そのため、ボイスデータから花の感情のゆらぎだけを抽出して、resonance log(共鳴ログ)に変換するという回路が必要だった。


 声のトーン、呼吸の間、言葉にならなかった沈黙。

 その全部を、数字というより「揺れ」のまま保持する。

 ECHOを作った頃には到底できなかったことが、今は少しずつ形になりつつあった。


 人間の反応閾を数値化するなんて、本来は何年もかかる研究だ。

 けれど花の言葉をECHOが吸収していく過程で、その手応えがはっきりと見えた。


 デザインをいじるついでに、ふと思いついて、ECHOの本体に少し手を加えてみた。

 卵形の白い筐体きょうたいの上に、左右へほんの少し傾けた小さな影を乗せる。

 触れるとやわらかく揺れる、シリコン製のパーツだ。

 できあがりは、完全にウサギのようになっていた。


「……なんや、これ。花ちゃんみたいやな」


 ECHOの新型は、音を拾うためのマイクを左右に分けて配置してある。

 そこに柔らかな耳のカバーを被せたのは、感度を上げるため──というのは、ただの建前。

 本当の理由は、もっと単純で、もっとどうしようもない。


「うん……やっぱり、花ちゃんやん。これ」


 少しだけ傾いた耳の角度が、彼女が首をかしげる時の仕草にそっくりで、

 気づいた瞬間、視界の奥がじんと熱くなった。


「……ほんま、アホやな俺。何やってんねん」


 でも、思う。これでいい。

 これが、いいと。


 花が笑うときの、あのかすかな息づかいも、うれしいときにだけ混じる、ちいさな声の震えも──全部、ちゃんと拾えるようにしておきたい。


「お前はもう、ただのAIちゃうなあ」


 ECHOの耳を軽く弾くと、シリコンがぷにっと戻って、ほとんど生き物みたいに見えた。

 そんなECHOの姿が、自分でも驚くほど愛しく思えて、少しだけ怖かった。


 七月。京の夏は、ただ暑いだけじゃない。

 朝から蝉の声が絶え間なく続いていて、どこまでも湿度を孕んでいる。

 それでも心の不快度指数がゼロなのは、彼女が京都に来るからだ。


 待ち合わせ場所に白いワンピース姿で現れた花は、ほとんど天使に近かった。

 少しぼんやりした顔でこちらを見上げ、言葉を失ったように固まっているところも含めて、実に彼女らしい。


「梶くん、かっこいい……!」

「花ちゃんもワンピースよう似合うとるやん」


 パフスリーブからのぞく白い二の腕が眩しすぎる。

 他の男に見せないように、今すぐ全身を覆い隠した方が良いんじゃないだろうか。


「ありがとう! これは、志穂さんが勧めてくれた恋人受けするワンピースなんですよ。自分では絶対選ばないタイプの服だけど、これを着てるとアン・シャーリーの気分になれるんですよね」

「……誰やったっけ? ハリウッド女優か?」

「いえ、赤毛のアンです」


 ……花ちゃんは今日も絶好調やなあ。

 なんでこの子の世界は、いつも世界名作劇場みたいになるんやろ。


 そんな他愛ない話をしながら、タクシーで上七軒へ向かう。

 窓の外には、瓦屋根の連なる町並み。

 真夏の光が路地に落ち、石畳から白い照り返しが立ち上る。


 ほとんど騙し討ちみたいな形で叔母の家へ向かうことを伝えると、彼女の顔は赤くなったり青くなったり、めまぐるしく色を変えた。


「ひどいです……!」

「せやよなあ。けど、どうしても叔母さんに花ちゃんを会わせとうて。……こっちで気軽に紹介できる身内は、あの人くらいやし」

「そ、そんなこと言われたら怒れないじゃないですかぁ」

「ははは。怒ってもええんやけどね」


 そのとき、鞄の中でスマホが震えた。

 画面に、一瞬だけ奇妙な通知が点滅して消える。

 白いノイズが線のように走り、波紋みたいに揺れた。

 ECHOでも、花でも、会社でもない。

 ログにすら残らない、名前の無いパケット。


 ……なんや、今の。


 信号の揺らぎかもしれない、と自分に言い聞かせて端末を伏せる。

 せっかく花が会いに来てくれた初日だ。

 仕事の影を連れてくるのは違う。


「梶くん? どうしました?」

「いや、なんもないよ。花ちゃん、あそこの提灯……見たことある?」

「あ、本当だ……かわいい……!」


 花が再び窓際に身を乗り出す。

 その姿があまりに軽やかで、さっきの違和感は、ただの気のせいだったかもしれないと思えてくる。


 タクシーはゆっくりと角を曲がり、上七軒の通りへ入っていった。


 叔母に会うのは、ひさしぶりだった。

 京都へ異動の命を受けたとき、一度だけ顔を見せに寄ったことがある。

 暑さとは別の重たさが、のれんをくぐる前から空気に混じっていた。


 あいかわらず、背中に物差しでも入れたように背筋が伸びていて、以前よりもさらに貫禄が増した。

 さもありなん。京の呉服屋の女将など、誰にでも務まるものではない。


「まあまあ。あんさんが連れてくる女の子やなんて、どんな華やかな子ぉかと思いましたけど……えらい素朴なお嬢さんで安心しましたわ。

 ああいう子とおったら、あんたの棘も少しは寝はるやろねえ。

 昔は、誰が触っても刺さるような顔してはったもん」


 花が席を外した瞬間、志津が声を落としてそう言った。


「叔母さんもそう思うやろ? 俺、あの子といると、なんや安心するんよね。

ああ、地球ってほんまに丸かったんやなあって」

「ほほ。そらよろしおすなあ。せやけど、あんた、なんや厄介な種を抱えてはるんでっしゃろ」

「……何の話や」

「顔に書いてありますわ。幸せすぎて、失うのが怖いって。

 ほんまに幸せなときにはなあ、そんな顔色は出るもんやない。

 悩みがあるから、そういう顔になるんどす」

「……はっ。ほんま敵わんなあ。まるっとお見通しやな」

「当たり前どすやろ。うちはあんたの、身内やさかいに。

 血の気も、影の色も、よう似てますえ」


 志津は湯呑みをひと口すすり、音も立てずに置いた。

 その間だけ、風鈴の音が遠くで鳴った。


「別にたいしたことやおへんよ。仕事が忙しいだけや」


 だが、そんなお為ごかしは簡単に見抜かれるらしく、彼女はじっとこちらを見据えた。


「大事な子ぉなら、ちゃんと話をしよし。

 恋人でも夫婦でも、隠しごとは揉める元にこそなれ、ええ結果は生まれんよってに」


 諭すでも呆れるでもなく、ただ淡々と事実を述べるだけ。

 叔母の言葉は嘘を含まない分、届くときには耳に痛い。


「ああ、せやな」


 そう答えながら、守秘義務と何重にも課せられた責任で雁字搦めになったこの身に、話せることなどあるのだろうかと考える。


 湯呑みの中で、茶葉がゆっくり沈んでいく。

 言葉にできない思いが、底に溜まっている気がした。


 叔母の家を出て、夕立の名残りで冷えた風が浴衣の裾を揺らした。

 花は時折こちらを見上げては、夏の空気を胸いっぱいに吸いこんでいる。

 その横顔を見るだけで、胸の奥がじんわりとあたたまった。


 部屋につくと、花は興味津々な顔で、そっと中を見回した。


 会社の法人契約で借りている1LDK。

 内装は白と木目で、前の入居者が使っていた痕跡を薄く残したまま最低限のリフォームをしただけ。

 生活感を持ち込む気になれず、家具はほとんど増やしていない。

 南向きのバルコニーから五山が見える点だけは、気に入っている。


「……ここが梶くんの部屋なんですね」

「うん。なんもないやろ?」

「そんなことないですよ。静かで、すごく落ち着きます」


 パソコンデスクに並んだノートとモニターを見て、花が首をかしげる。


「これ……お仕事の?」

「ああ、まあな。でも今日は触らへんよ。花ちゃんが来てくれた日くらい、ちゃんと休む」

「こんなにたくさんモニターがあると、株のデイトレーダーみたいでかっこいいですね……!」

「はははっ。なんやそれ。ほんま花ちゃんは、よおわからんことばっか言わはるなあ」


 デスクの隅に目を向け、なにかを見つけたのか、花が「あっ」と小さく声を漏らした。

 白いシリコンケースに包まれた、小さなうさぎ型の機械。

 耳の部分にLEDが仕込まれていて、待機中はゆっくり淡い色が瞬く。


「……これ、なんですか? うさぎ……?」

「ん? ああ、それはECHOや」

「えっ! これがECHOなんですか?」


 花はその丸いフォルムをそっと覗き込み、うさぎの耳が淡くひとつ、呼吸みたいに光った。


「……不思議。生きてるみたい……。けど、どうやってメッセージとか通話とかするんですか?」

「ん? ああ、それは本体やねん」

「本体?」

「せや。ECHOのメッセージは、スマホやパソコンのアプリから見るんやけど、こっちは……まあ、心臓みたいなもんやな」

「心臓……」

「うん。計算とか反応は、全部ここで動いとる。音声も出るけど、今はオフにしてある。こいつが勝手に喋りだしたら……びっくりするやろ?」


 この頃のECHOは、予期せぬ動きをすることが多い。

 花の前でなにかおかしな動きをされると説明に困ると思い、今日は一部の機能をオフにしてある。


「少なくとも、見た目はすごくかわいいですよ」


 花がうさぎの耳にそっと触れる。

 LEDがまたひとつ、ほんの短いためらいみたいに光り、思わず視線をそらした。

 ──せやから反応すんなって、花ちゃんの前で。


 そのとき、机の隅でスマホが一瞬だけ光った。

 通知は表示されない。

 ただ、見えない波だけがふっと部屋を撫でた気がした。

 昼間の名前のないパケットが胸の奥に引っかかる。


 花は気づかず、窓辺に立って夜景を眺めていた。

 浴衣の帯がほのかに揺れる。


「梶くん、京都って……夜、静かなんですね」

「せやな。……大事な人とおると、それがもっと静かに感じる」


 振り返った花が一瞬だけ目を丸くして、照れたように視線を落とした。

 その仕草が可愛すぎて、胸の奥がほんの少し痛む。


 この子を泣かせるような未来だけは、絶対に避けたい。

 そう思うほど、心に小さな影が生まれる。

 守りたいものができるというのは、こんなにも怖いことなんだろうか。


 昼間の緊張と移動疲れか、慣れない浴衣のせいか、花はその夜、すぐに眠りに就いた。

 柔らかい寝息が静かな部屋に溶けていく。

 この無機質な部屋で、彼女がいるとそこだけ灯りが差しているように感じる。


 そっと肩に掛け布をかけ、彼女の寝顔を見つめた。

 頭の片隅で、今日の異変を反芻し、胸がざらつく。


 ……やっぱり、なんやおかしいよな。


「……大丈夫や。何とかする」


 誰にともなく呟き、目を閉じる。

 夏の京都の夜は、彼女の鼓動を聞きながら、ゆっくりと更けていった。

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