Side Kaji:天国も地獄も
エレベーターのドアが閉じる。
密室の静圧が、背中に貼りつくように重かった。
外気を吸い込みたくて、エレベーターを降り、当てもなく周辺を歩いた。
駅前の突き当たりに、小さな喫煙スペースがあるのが目に留まる。
透明な仕切りで囲われた一角に、ベンチがひとつ置かれているだけの場所。
人影はなく、換気ファンの低い音だけが響いていた。
鞄からミント味のVAPEを取り出し、深く吸い込む。
ニコチンも刺激もない。ただの水蒸気。
冬の冷気ごと肺の奥に入れて、ゆっくり吐いた。
頻用はしないが、意識が散りそうなときの必需品だった。
ほんの少し肺が冷える感覚だけで、頭のざわつきが整っていく。
透明な壁越しに、通りを歩く親子連れが見えた。
幼い子どもが真っ白な空を指差し、「雪、降ってくる?」とはしゃいでいる。
彼らの姿をぼんやり眺めていると、ふいに、過去の記憶が蘇る。
四歳の頃だった。
父が学生時代の友人とその家族を自宅に招き、食事会をした。ラグビー部の仲間だったというその友人は、精悍な顔つきの朗らかな人だった。
彼の息子は、自分よりもいくつか年上で、携帯ゲームから手を離さず夢中になっていた。
テーブルの上には、朝から母が一生懸命準備した色とりどりの料理。
よくは覚えていないが、なにか、大事な食事会だったのだと思う。
母が彼らに「はじめまして」と余所行きの顔で応対するのを見て、疑問をそのまま口にした。
「はじめまして、ちゃうよなあ」
「え……? 雪斗……?」
「このおじさん、よお、お母さんと一緒にいてはるやろ。幼稚園から帰ると、たまにこの人の車が家の前にあるやん」
「な、何言ってるの!? バカなこと言わないで!」
「なんで? あの銀色の車のロゴとナンバーは見間違えやないよ。なあ、あのワーゲン、おじさんの車やろ?」
その頃、自分の物覚えの良さは、たびたび家族の賞賛の的になっていた。
ひらがなや数字を読むのが早かったというより、世界の規則を一度に理解してしまう子どもだった。
見たものをそのまま覚えるのではなく、匂い、形、配置、声色──それらの関係ごと記憶してしまう。
一度見ればわかる。そういう脳だったとしか言い様がない。
だからこのときも、いつも通りに褒めてもらえると思った。
見たままに記憶していることを、母に伝えることで。
母親はそれから何ヶ月もしないうちに、名古屋の実家へ帰ることになった。
一緒に来るかと聞かれることもないまま、ただ見送った。
母との別離は、悲しいとか淋しいという感情以前に、自分が何かを間違えたのだという強烈な記憶となって、今も残っている。
VAPEを鞄の中にしまおうとして、指先が、封筒の角に触れた。
海堂に渡された契約書。
ほんの一瞬、視線を落としただけなのに、胸の奥が縮むような冷たさが身体を走る。
それは、痛くもない腹を探られることの不快感だった。
人は、自分が理解できないものを前にすると、崇拝するか嫌悪するかの二択を取ろうとする。これはその象徴だ。
自分という存在がトロイの木馬のように扱われることには、正直腹が立つ。
だが同時に、それを仕方のないことだと受け止める気持ちもあった。
「俺は他の子と、ちょっとちゃうもんなあ」
幼い頃に聞いた、祖父の言葉がフラッシュバックする。
『雪斗……お前はなぁ、他の子とちぃとばかしちゃうねん。
でもな、それを怖がったらあかん。否定もしたらあかんのや』
手にしている封筒の白が、昔の家の障子の白と重なる。
祖父の声は、いつもと同じで暖かいものだった。
母親が去り、父の不在が増える家の中で、彼だけがいつも自分のそばにいた。
『ええかぁ、雪斗。
お前が神さんから預かったその力はなぁ、正しく使うためのもんや。
世のため、人のためになることに使うたら、その力は、お前をずっと助けてくれる』
自分の頭を撫でる、祖父の深い皺のある手のひらの、暖かさを今も覚えている。
『けどな、人をだましたり、悪さに使うたらあかん。
それは、生きたまま地獄に落ちるようなもんや』
いつもふざけたことを言う祖父の、いつになく真面目な言葉だった。
『天国も地獄も、人の心の中にしかない。世界は全部、自分の心が作るもんや。
お前は選べるんやで。どんなふうに生きたいかを』
封筒を握る手に、わずかに力が入った。
『せやからな、雪斗。
できるだけ、自分が幸せになる方へ使え。
それが、お前の力のいちばんええ使い道や』
長いため息をついてから、顔を上げて空を見た。
「……はあ。はよ、花ちゃんを補給せなあかんわ」
花との待ち合わせ場所に向かうため、ベンチからゆっくりと立ち上がる。
彼女の隣にいるときは、難しい顔も、心の澱も、一切見せたくない。
真冬の冷気が頬を撫でる。そのひやりとした空気が、自分の現在地を思い出させた。
◇
銀座で買い物をして、駅前のスーパーで食材を選んだ。
水菜を選ぶ目つきの真剣さに笑いながら、「……かわええなぁ」と声に出しそうになるのを飲み込む。
かと思えば、道の段差ですぐに転びそうになるところまでが、花だった。
それほど広くないキッチンで、二人で並んで水炊きを準備する。
この距離感さえも幸せを増幅する仕掛けのようで、浮かれながら包丁を握った。
「梶さんは、普段も自炊されてるんですか?」
「自炊ってほどのことはしてへんよ。味噌汁作ったり魚焼いたり、簡単な常備菜つくるくらいやなあ」
「十分自炊じゃないですか。わたしとほとんど変わらないですよ」
「料理はなあ。右脳と左脳をバランスよく使えるから、行き詰まったときの脳のリセットになるんよね」
「右脳と左脳……? すみません。わたし、脳の左右を意識して生きてないから、ちょっとイメージが難しくて……」
「せやろなあ。左脳はな、構造とか手順を考える脳。右脳は、香りとか、音とか、気持ちの動きに反応する脳や。
せやさかい、包丁の音を聞いて落ち着いたり、出汁の匂いで昔のこと思い出したりするのは右脳の仕事。
逆に、火加減とか味のバランスを測ってるときは左脳が動いてる。
両方がちょうどええ具合に働くとき、人は『考える』と『感じる』を同時にやれてるんよ」
「考えると感じる……同時に、ですか」
「せや。人間の脳って、どっちかに偏るとしんどいんよな。
仕事で左脳ばっか使ってると、世界が数字と結果だけになる。でも、右脳ばっかやと、流される。
せやから、料理みたいなもんがちょうどええんよね」
鍋の蓋を少しだけずらして、湯気を逃した。
ふわりと広がる柚子と昆布の香りが、部屋いっぱいに満ちる。
花はその匂いに目を細めて笑う。
「じゃあ、料理って、梶さんにとっての休符みたいなものですね」
「せやね。音楽で言うなら、間奏の部分やな」
湯気がまだゆっくりと立ちのぼるダイニングで、沈黙さえも音楽の一部のように感じた。
花といると、幸せというかたちが確かにこの世界にあると実感できる。
そんなもの、これまで想像したこともなかったのに。
食後のお茶を飲みながら、彼女が少し緊張した声で切り出した。
「あの、実は……梶さんに、プレゼントがあるんです」
「プレゼント?」
差し出された小さな包みを解くと、中から現れたのは、竹と和紙を重ねた軸の万年筆だった。
薄く漆がかけられ、光に傾けると、繊維の筋が静かに浮かび上がる。
木でも金属でもない。手に取ると、まるで呼吸しているようなぬくもりがあった。
だが、軸の根元に刻まれた小さな文字を見た瞬間、息が止まる。
──「綴 KYOTO」。
『ほれ、雪斗。お前の名前を、じいさんが書いてやる』
あの頃、祖父が自分の教科書に流れるような筆致で綴ってくれた文字。
彼に記されると、ただの名前が特別立派なものに変化したように感じた。
「……これ、たぶん……じいちゃんが昔、同じメーカーのを使ってた気ぃする」
「え?」
「俺のランドセルや教科書に、じいちゃんがここの万年筆で名前を書いてくれたん、よう覚えとるわ」
花は一瞬、息をのんで、それから安堵するように笑った。
「気に入ってもらえたなら……嬉しいです……」
「……ありがとう。めっちゃ嬉しい。花ちゃんは、やっぱり特別やな」
光の角度で淡く透ける和紙の繊維を見つめた。
それはまるで、過去と今が重なって透けて見えるようだった。
彼女がくれるなら、例えば消しゴム一個でも嬉しく感じる気がする。
だけど、これは嬉しいというよりも、感動に近かった。
彼女の身体を抱きしめる腕に、知らず、力が籠もる。
「……ありがとう。めっちゃ嬉しい。花ちゃんは、やっぱりちゃうなあ」
深夜、彼女が寝静まったあと、鞄から契約書を取り出した。
スマホのライトだけで内容を確認する。
条文をひとつずつ追っていくと、特に不審な点はない。
前回と比べ、守秘義務の範囲が広がり、罰則条項が追加されていた。
署名欄の位置が少し下にずれて、担当部署が、法務ではなく「経営戦略統括本部」に変わっていた。
キャップを外す。
軸に刻まれたメーカー名を見た瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
『お前は選べるんやで。どんなふうに生きたいかを』
あの声が、紙の白に滲むように蘇ってくる。
契約書の署名欄にペン先を落とした途端、不意に、手が震えた。
悲しいからじゃない。
弱いからでもない。
守りたい人ができた。
その事実が、胸の奥をどうしようもなく熱くした。
彼女を、ただ守りたい。
そのために、誇れる人間でありたい。
その未来を、汚させたくない。
震える手に力を入れ、ゆっくりと名前を書く。
祖父よりは下手だが、志津にしごかれ身につけた硬筆は、こういう場面で役に立つ。
──梶雪斗
最後の一画を書き終えたとき、目頭が勝手に熱くなっていた。
そんな感傷的な自分に、ほんの少し笑う。
「……ほんま、情緒どうなっとんのやろ、俺」
花の規則正しい寝息が、かすかに聞こえる。
契約書を鞄に戻し、ゆっくりと彼女の元へ向かう。
ただ、その柔らかい温もりを求めて。
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