Side Kaji:叶うなら時間を止めて

 ふと目を覚ますと、知らないベッドの上だった。


 すぐ隣に自分とは違う体温を感じ、そこでようやく、昨夜のことを思い出す。

 たまらない多幸感に、柔らかく小さな身体を抱き寄せて額に口づける。彼女は、身じろぎひとつしないほど、深い眠りに落ちていた。


 カーテンの隙間から、かすかな群青がのぞいていた。

 まだ夜の端を引きずったままの空は、高いところで風がうなっている。

 夜明けまであと一時間ほどだろうか。

 壁際の時計を見ると、まだ六時前だった。

 静かに布団から抜け出し、彼女を起こさないように足音を殺す。


 脱衣所には、いつの間に置かれたのか、「ご自由にどうぞ」という小さなメモとともに、バスタオルや、未使用の歯ブラシ、コップなどが置いてあった。


 ぬるめのシャワーを浴びながら、頭の中を整理する。

 幸福の余韻に浸っていい時間は、それほど長くはない。

 彼女に嘘をつかないと約束した以上、するべきことが山ほどあった。


 まずは、モノリスを東京へ移動させるための現実的なプランの構築。

 昨日の感じでは、上層部は遅かれ早かれ、再稼働を命じるだろう。

 それまでに、その歪みをどこまで正すことができるだろうか。


「……まあ、やるしかないやろなあ」


 一度手に入れてしまったら、もう失いたくない。

 何より、あの笑顔を曇らせたくはなかった。

 決して悲観的な人間ではないが、脳は勝手に最悪の事態を想定し、対策を始める。

 平穏を手に入れるためには、すべてに備える必要があった。


 やかんで湯を沸かすあいだ、スマホと端末をダイニングテーブルの上に並べる。

 冷蔵庫のモーターが低く唸って、部屋の静けさを少しだけ揺らした。

 人の暮らす音が、こんなにも心地よく感じるのが不思議だった。

 彼女といると、ノイズがただの生活音に変わる。それも、温度を伴って。


 気を抜くと思考を引きずられそうになり、そんな自分に少し笑ってしまう。

 端末を開き、ECHOとモノリスの監視ログを呼び出す。

 すべての値は安定。例外もない。

 その一行を確かめるたびに、ようやく心が落ち着いた。


「心配してたことは、特に起きてへん、か」


 京都を離れるのは、実に二年ぶりだった。

 自分の不在を狙って、何らかのアタックを受けることも危惧していたが、杞憂に終わったらしい。

 もちろん、最低限の対策はしてあるが、結果を見るまで落ち着かないのは性分だった。


 ノイズキャンセリングのイヤホンを装着すると、世界がすっと静まった。

 わずかに残るのは、自分の呼吸と心拍だけ。

 そのリズムを頼りに、現実へと再同期する。

 本音を言えば、ずっと聞いていたい彼女の寝息を、必死に意識の外に追い出した。


 どれくらい時間が経ったのか、ふっと、脳が酔いを感じ、意識が戻る。

 過集中状態に入ると、たまに起こる症状だった。

 時計は十時少し前。周囲を見ても、彼女が起きた気配はない。

 スマホを確認すると、海堂から午後に出社するようメールが届いていた。


「うわ、だるぅ。年末くらい休ませてくれや」


 文句を言いながら端末を片付け、マグカップを洗う。

 彼女のキッチンは丁寧に磨かれていて、その性格がうかがえた。

 冷蔵庫の側面には、いくつかのレシピのメモ書きがマグネットで貼られている。

 普段の彼女の生活をのぞき見しているようで、少しの申し訳なさを感じつつ、とても温かい気持ちになった。


 ……京都、帰りたないなあ。もうちょい、ここにおってもええやろか。


 それが可能かどうかの算段を脳内で開始し、なんとかいけるだろうと判断する。

 だが、実行に移すには、まず、家主に許可をもらわなくてはならない。


 ベッドへ向かうと、花はまだぐっすり寝ていた。

 頬にシーツのしわの痕がついていて、そんなところまでかわいい。

 思わず口づけると、まぶたがぴくりと動いた。


「花ちゃん、おはようさん」


 耳元で囁くと、「……じ……さん……?」という声とともに、彼女が身体を動かし始めた。

 彼女がいる世界に寄り添っていられる今に、胸が締め付けられるような痛みを感じる。

 叶うなら時間を止めて、ずっとこのままでいたいと思った。



 エレベーターを降りた瞬間、空気の密度が変わった。

 呼び出されたのはアペックスホールディングスの最上階、役員専用ラウンジ。

 一面のガラス越しに、冬の東京が遠くまで広がっている。

 眼下には、皇居の森、その向こうに丸の内の高層群。

 ビルの谷間を抜ける午後の日差しが、道路と鉄の屋根を白く照らしていた。

 ここから見下ろす街は、どこまでも静かで、まるで別の国のようだった。


 磨かれたような艶のあるマホガニーの扉を開けると、すでに海堂はテーブルに着いていた。


「おう、来たか」

「来たかやないですよ。年末くらい、ご家族と過ごしはった方がええんやないですか?」

「俺もできたらそうしたいよ」


 磨かれた黒檀のテーブルの上には、湯気の立つコーヒーがふたつ置かれている。

 背後の壁には、防音パネルの上からさらに吸音布が張られ、天井には盗聴防止用の共鳴スピーカー。

 ここは、音が消える部屋だ。

 人の声さえ、慎重に響きを選ばなければ届かない。


 真向かいではなく、ひとつずらした席をあえて選んで座る。

 花とのことは絶対にばれてはいないはずだが、最近の自分は明らかに浮かれすぎていた。

 いつも通りの態度に戻さなければ、不審に思われるだろう。


「……それで、ご用件はなんどすやろ」

「まずは、例のSmartTrace統合の進捗だ。本店側の仕様変更が来年一月にずれ込む。対応できるか?」


 海堂からは、モノリス以外にも、いくつか頼まれている仕事がある。その話だった。


「ええ。京都側のログ構造はもう差し替えてます。現場テストが終われば本番に移行できるはずです」


 いくつか進捗報告と現状確認が続き、「それと──」と、海堂が気まずそうな顔をした。


「……最後に、大事な話がある。昨日、お前は『成功率はアペックスが潰れるよりは高い』と言ったな」

「はあ、ジョークですけどね」

「……但馬専務は、そうとは取らなかった」


 思ってもみない言葉に、「はあ?」と素で言ってしまった。


「お前にも薄々、うちが今、どういう状況にいるかはわかっているだろう?」

「それは……まあ。新聞を読めば誰にでもわかる範囲なら」


 アペックスが目下抱える問題は、子会社の株式を外資に食い荒らされそうになっていることだ。

 狙いはもちろん、モノリスそのものにある。

 だが、それに気づけるのは、この構造体の存在を知っている者だけだ。

 つまり、世間から見たアペックスは、今も何の問題もない企業といえる。


「但馬専務は昨日のお前の不遜な態度に、ひとつの懸念を抱いている」

「そんな痛くもない腹を探られても、なんも出ませんけどね」

「……俺は昨夜、但馬専務から、お前が外資と繋がっているという疑いを晴らすよう、厳命された」


 探るというよりは、痛みを堪える眼差しを向けられた。


「……なんやそれ。外資と繋がって、俺に何のメリットがあんねん」

「ああ、わかっている。もちろん、反論もした。だが彼が求めているものは、もっと確実な保証なんだ」


 怒りというのは、面倒くさい感情だ。

 脳が防衛反応としてアラートを出し、身を守るために感情を高ぶらせる。

 だが、それは『己が真に守りたいものは何か』を相手に伝える行為とも言える。

 だからこそ、人前で感情を荒げるのは決して得策ではない。

 そうわかっていても尚、一瞬怒りで叫び出しそうになる。「ふざけるな」と。


 海堂はこちらの表情を読みながら、テーブルの上に置いてある紙の束を差し出した。

 手に取らず、目線を動かして表紙の内容を確かめる。


「はあ……また契約書どすか。アペックスに入ってから、いったい何枚書かされるんやろなあ」

「……お前の怒りはもっともだ。怒っていい。俺にも、但馬専務にも、会社にもだ。だが、俺たちが一番怖いのは、お前を失うことだということを、知識として頭に入れて欲しい。……理解してくれとは言わないから」


 こんな言葉を言いたくないと顔に書いてある。

 大企業の重役を担うには、あまりにもまっすぐすぎるのが、海堂の甘さであり、強さでもある。

 その人となりを理解していても、ため息をつくことを止められなかった。


「……持ち帰ってええですか。心配せんでも、弁護士に見せるわけやない。ただ、自分で全文読んで、状況を把握したいだけや」


 持ち帰ったところで、どうせサインをするしかないことはわかっている。

 だが、この場でそれをすることは、屈辱に近かった。

 いったい何のために、この二年、京都に潜って戦っていたのかと思う。


 海堂の返事を待たず、立ち上がって契約書を鞄にしまう。


「ほな、これで失礼します。……良いお年を。お互いに。」


 嫌みに近い言葉を残して、要塞のような役員ラウンジをあとにした。

 これ以上一緒にいると、恨み言をぶちまけそうになるからだ。

 海堂は何も言わず、苦痛に耐えるような表情のまま、最後まで顔を上げなかった。

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