沈黙さえもやさしい

 通りに面した大きなガラス越しに、マネキンが二体だけ並び、白い壁と木目の扉が温度を持って佇んでいた。

 ショーウィンドウに梶さんと並んで映るわたしは、いつもよりも背が低く見えて、少しがっかりしてしまう。

 ……152センチはそんなに低くないもん。梶さんが背が高いんだよ。


 ドアを押して入ると、冷たい外気が背中を抜けて、代わりにコーヒーのようなウールと木の匂いが広がる。

 音楽は流れていない。

 スピーカーの代わりに、ハンガーの揺れる音が空間を区切っていた。


 壁際には、色味を抑えたジャケットとニットが並ぶ。

 店員は一人だけで、静かな声で「ごゆっくりどうぞ」と言うと、あとは必要以上に話しかけてこない。


 梶さんは、何も言わずにタグをめくり、縫製のラインを指先で確かめていた。

 その横顔が、どうしようもなく真剣で、まるで実験中か何かのように見える。


「……自宅でお洗濯できるか確認してるんですか?」

「ん? ああ、ちゃうよ。素材の確認」

「素材……なるほど」


 それでこそ梶さんですよね! わたしはもう、そんなことで驚きません。


「タグ見るの、癖になってるんよね。綿100%とかウール混とか」

「肌が敏感なんですか?」

「んー。そうやなくて、仕事するとき、着てるものがノイズになるのが嫌なんよね」

「ノイズ……?」

「せやから、服を選ぶときは、温度とか摩擦とか、服の耐久パラメータをタグと手触りで読むことにしてる」

「タグを……読む……」


 ……どうしよう。梶さんがバーコードリーダーみたいになってる!

 ダメだ。笑いをこらえて身体がふるふるしてしまう。


「なんや、そんなおかしかった?」

「……梶さんがかわいくて、わたしの情緒が持たないだけです……」

「花ちゃんのがかわいいけどなあ。俺の情緒も持たへんから、今日も責任、とってくれはるん?」

「ふぁっ?」

「あははっ。ほな、いくつか試着してくるわ」


 さらっとわたしをからかいながら、梶さんは店員さんに声を掛けに行った。

 残されたわたしは、耳まで赤くなったまま、動けない。

 ……このひと、絶対モテる人だ!


 梶さんの選ぶ服は、どれもシンプルだった。

 色は、黒、白、紺かグレーで、ロゴがついたものや柄ものは全く手に取らない。

 志穂さんがいたら、なんて評価するんだろうかと鏡越しに彼を見つめる。


「……うう、かっこいい……」


 わたしが着ると地味だと評判のモノトーンコーデも、梶さんが着るとなぜか、めちゃくちゃおしゃれな配色に見える。

 なんでなの? 細身だから? 身長が高いから?

 神様って不公平じゃない?


「花ちゃん、これどう思う?」


 光沢を抑えた濃紺のジャケット姿に見惚れていると、梶さんがこちらを振り向いた。


「すごく似合ってますよ」

「そやのうて、これ。花ちゃんにどうやろ」


 そう言って、店員さんから渡されたマフラーをわたしの首に巻いた。

 淡いスモーキーブルーのマフラーは、カシミヤなのか肌触りが柔らかく、暖かい。


「うん。やっぱり花ちゃんは色白やから、こういうのがよう似合うなあ」


 そう微笑んで、マフラーの端を整える。

 指先がかすかに触れた場所から、鼓動の音が伝わってくるみたいだった。


 買い物を終えて外に出ると、空の色はすっかり深くなっていた。

 午後五時を少し過ぎた銀座の並木通りは、街路樹に巻かれたライトが一斉に灯りはじめている。

 細い枝の一本一本に、小さな粒の光が宿って、まるで星が降ってきたみたいだった。

 通りを渡る風が冷たくて、思わず首元のマフラーに顔をうずめる。

 布地が頬に触れるたび、梶さんの指先の感触が蘇る。


「きれいやな」


 隣で彼がつぶやく声が、街のざわめきに溶けていった。


「あの……わたしのものまで買って頂いてすみません……」

「なんで謝るん? 彼女にプレゼントくらいしてもええやろ」

「彼女!」


 わたし、梶さんの彼女認定されてる!

 ……いや、もちろんわかってるんだけど。

 でも、改めて言葉にされると、それも、梶さんにそう言われると、心がきゃーっと騒ぎだし、口元が緩んでしまう。


「彼女って言葉ひとつで、そこまではしゃげる26歳は、花ちゃんだけやろなあ」

「……はしゃいでないですよ」

「顔に出てはるし」


 思わず頬を押さえると、梶さんが立ち止まり、そこに手を重ねた。


「ほら、かわいい」


 唇に軽くキスをしたあと、何も言わずにわたしの右手を引いて再び歩き出した。

 心臓が止まるかというくらい鼓動を早める。真っ赤な顔を隠すために、カシミヤのマフラーをそっと引き上げた。

 淡い青の布が頬を覆い、街の光がその端に反射して揺れる。


 どうか、誰にも緩んだ顔を見られていませんように。

 ──そう願った瞬間、風が音もなく、光の中をすり抜けていった。



 人混みと買い物で少しくたびれて、夕食は簡単に、水炊きをすることにした。

 生姜風味の鶏団子をゆず胡椒で。

 シンプルだけどおいしいは大切だと思う。

 キッチンの横にある小さなダイニングテーブルに、白い鍋と二組の箸を並べる。


「鍋なんて……いつぶりやろ。記憶にないかも」

「わたしも、鍋って一人だと素材が余るし、滅多にしないです」

「……こんなふうに誰かと食卓囲むの、久しぶりやなあ。せやから、いまめっちゃ楽しい」

「よかった。わたしもです」


 箸先から、ほっとする柚の香りが立ちのぼる。

 鶏団子と野菜が静かに煮えていく音だけが部屋に響いて、わたしたちは、しばらく何も話さなかった。

 梶さんとなら、沈黙さえもやさしい時間に変わるから不思議だ。


「いまさらやけど、実家に帰らんで大丈夫やったん?」

「あ、はい。うちはそんなに厳しい家庭でもないし」


 母から、彼氏ができたなら連れてこいと言われたことは黙っておこう。


「梶さんこそ、京都に戻らなくて平気なんですか?」

「ああ、俺はもう、実家ってないからなあ」

「……そう、なんですか?」

「子供の頃に住んでた伏見の家は、父親が再婚したときに建て替えたんやけど、俺は高校から私立の寮に入って、ほとんどその家に入ったことがないんよね。

 招かれても、他人の家って感じで落ち着かんし、子供も生まれて仲良うしてはるところに、生さぬ仲の異母兄とか、いらんやろ」


 梶さんをいらないなんて、そんなわけない。

 そう思うけど、どう伝えたら失礼にならないのかわからなかった。


「……梶さんみたいなお兄さんなら、わたしは嬉しいですけど」

「ははっ。おおきに。……別に父親やその奥さんと仲が悪いとかやないんよ。会えば普通に話すし、険悪になったこともない。妹もかわええし。せやけど、家族かって言われると、ちょっとちゃう。

 結局、俺がなんも悩まずに家族と思える人は、亡くなった祖父だけやったんよなあ」

「おじいさんと仲が良かったんですね」

「うん。変な人でなあ。日傘職人で、傘を削るときだけは真剣な顔をしてはって、それを見るのが好きやったんやけど、喋りだすとおかしいことばっか言いよるねん」

「おかしいことって?」

「なんや、あほらしいことを、格言っぽく言いはる人で。

『ええかあ、雪斗。世界は常に、自分の中にしかない。わしこそ世界や。よう覚えときぃなはれ』とか」

「ふふっ。わしこそ世界って、かっこいいですね」

「このじいさんは、いつも何言うてはるんやろ? って。子供心に謎やったけど、でもなんか、好きやったんよね。その時間が」


 頭の中に、見たこともないおじいさんと、小さい梶さんが並んで笑っている姿が勝手に思い浮かんで、それはとても暖かい光景に思えた。

 そしてふと、自分がまだ梶さんに渡せていなかったプレゼントがあることを思い出す。


「あの、実は……梶さんに、プレゼントがあるんです」

「プレゼント?」

「はい、誕生日プレゼント……。本当は昨日のうちに渡そうとしていたんですけど、タイミングを逃しちゃって」


 クローゼットの引き出しから、小さな包み箱を取り出した。

 銀座の大型文具店で購入した四角い箱は、青色のリボンが照明を小さく反射して、少しだけ手が震えた。


「ECHOのお返しにはとてもならないけど、これ……使ってもらえたら、嬉しいです」

「お返しなんてなんもいらんのに……けど、ありがとお」


 梶さんは柔らかく微笑んで、受け取ってくれた。「開けてええかな?」と言いながら、リボンをほどいていく。

 中から現れたのは、深い漆の光を帯びた万年筆。


 志穂さんから、『社会人ならちょっといい万年筆で良いんじゃない? 嵩張らないから邪魔にもならないし、実用的だし。受け取って迷惑にならない品を選ぶって案外大事よ』と薦められて助かった。

 自分ではまず、思い浮かばない。


「……これ……」

「万年筆です。梶さんはデジタルの世界の人だけど、こういうアナログのものも似合うんじゃないかなって……。あの、無理に使わなくても、いいんですけど。飾っておくだけでもきれいだと思うので」


 軸には、小さく「綴 KYOTO」と刻まれている。京都の老舗文具メーカーが作った、創業初期の復刻モデルだ。

 竹と和紙の積層軸に薄く漆を塗り、光にかざすと繊維が淡く透ける。

 品があるのに柔らかく、店頭で見かけたとき、一目でこれだと選んだものだった。


「……これ、たぶん……じいちゃんが昔、同じメーカーのを使ってた気ぃする」

「え?」


 思いがけない言葉に、息が止まる。


「俺のランドセルや教科書に、じいちゃんがここの万年筆で名前を書いてくれたん、よう覚えとるわ」


 わたしは驚いて、うまく言葉が出なかった。

 京都のメーカーを選んだのは偶然だし、深い意味はなかった。でも梶さんが喜んでくれている顔を見ると、少しほっとする。


「気に入ってもらえたなら、嬉しいです……」

「……ありがとう。めっちゃ嬉しい。花ちゃんは、やっぱりちゃうなあ」


 梶さんが笑って、わたしをそっと抱き寄せた。


「会うたこともないときから、俺が欲しそうなもんが何かわかるやなんて、ほんまにすごすぎひん?」


 胸の奥が、あたたかくて、痛い。

 なんでいつも、梶さんと一緒にいると、すごく嬉しくて幸せなのに、泣きたい気持ちになるんだろう。

 わたしが惹かれたのは、梶さんの強さでもやさしさでもなく、その奥で静かに、痛みを抱えたまま生きているところなのかもしれない。


 この人のためにできることが、何かひとつでも、わたしにあればいいのに。


 湯気の残る部屋に、静かな呼吸だけが満ちている。

 想いを伝える代わりに、彼の手を取って、ぎゅっと握った。


 カーテンの隙間から、街の灯りが細くこぼれている。

 その光がゆっくりと消えていくのを見ながら、わたしはなぜか、今日という日を、ずっと忘れない気がした。

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