なのに、夢じゃない

 頬に柔らかい何かが触れる感触に、重いまぶたを開けようとする。

 空気の中に、低くやさしい声が混じる。


「花ちゃん、おはようさん」


 男の人の声が耳元で囁き、はっと気づく。

 そうだ。昨日、わたし梶さんと──……。


 瞬きを繰り返し、まぶたを開けると、そこにはちゃんと、梶さんがいた。

 心配そうな顔をして、こちらをのぞき込んでいる。


「……いま、何……時?」


 カーテンの外の日差しが眩しい。太陽がかなり高くなっている。


「いまは十時やけど、喉痛い? 声が掠れてへん? 昨日、よお泣いてはったし、目も腫れてるやん。冷凍庫触ってもええかな? 冷やすもん持ってくるわ」

「ふぇえ?」

「ははっ。なんやその音。ふぇって」


 わたしは毛布を引っ張り上げ、自分の顔を隠した。


「……さ、さいあく……」


 毛布の中で、自分の声が情けなく響いた。

 寝癖もきっとひどいし、顔もむくんでるし、まぶたが腫れぼったい。

 おまけに昨日はお風呂も入らずに寝て、メイクさえ落としてないままだ。


「最悪? 花ちゃん、そんな具合悪い? 年末で病院開いてないよなあ。救急外来探そか?」

「……ち、違います。こんなひどい顔、見られたくなくて……」

「そしたら、シャワー浴びたらええんやない? 俺も朝、勝手に借りたけど、事後報告でごめんなあ」


 毛布から目だけ出して「それは、大丈夫ですけど……梶さんはもう帰っちゃうんですか……?」と恐る恐る尋ねた。


「いや、今日、会社の人に呼び出されたから午後から行ってくるわ。そのあともっかい、ここに帰ってきてもええかな? それとも二人で、どっかホテル泊まる?」

「ホテルに泊まる!?」


 思わず上ずった声が出た。プチ旅行みたいな響きに、胸が一瞬だけふわっと浮く。

 ……けど、すぐに冷静な自分が顔を出す。

 年末の宿泊料金、きっととんでもなく高い。

 それに、どうせ行くならちゃんと計画を立てたい。


「……うちに帰ってきて欲しいです……」

「ん。わかった。朝ご飯食べる? なんか買うてくるわ」

「……玄米が冷凍してあるし、簡単なもので良かったら出せますよ。わかめのスープとか、チーズオムレツならすぐ作れます」

「材料と鍋の場所教えてくれたら、俺が作ってもええけど」

「……梶さん、お料理されるんですか?」

「一人暮らし長いからなあ。そしたら、花ちゃんがシャワーしてる間に、適当になんか作るわ」


 すごい! スパダリがいる!


 お言葉に甘えて、調理器具をささっと出してから、バスルームへ飛び込んだ。

 鏡に映った自分を見て、思わずため息が漏れる。

 目の周りはうっすら腫れて、髪はあちこち跳ねている。

 泣いたせいなのか、眠りすぎたせいなのか、頬の感覚がまだぼんやりしていた。


 シャワーを浴びて髪を乾かすころには、ようやく頭が少しずつ現実を取り戻していく。

 だけど、タオルで顔を拭くたびに、昨夜のことがフラッシュバックして、胸の奥が熱くなる。

 あのとき彼が言った言葉も、触れた手の温度も、ぜんぶ夢みたいで、なのに、夢じゃない。


 キッチンのほうから、おいしい匂いが漂ってくる。

 ドアを少しだけ開けると、梶さんがシンクの前でコーヒーを淹れていた。

 白いシャツの袖をまくって、無造作に髪を撫で上げながら。

 光が肩口に落ちて、その輪郭だけやけに柔らかく見える。


「……夢みたい……」


 スマホを開いて、こっそり音声で吹き込む。


「梶さん……大好き」


 既読にはもちろんならないけど、ECHOの背景がなぜか青く輝いた。


 キッチンから、スープの湯気が静かに立ちのぼっている。

 出汁と味噌の香りが部屋いっぱいに広がり、さっきまで冷えていた空気が、ほんのりと温もりを取り戻している。


 梶さんが作ってくれたのは、玄米にチーズと半熟卵を入れたリゾット。

 味付けは鶏ガラスープと味噌を少しだけ。

 それから、冷凍してあった油揚げと、乾燥わかめを使った白だしのスープ。


「……おいしい!」


 スプーンを口に運ぶと、玄米の香ばしさとチーズのまろやかさが、やさしく舌の上でほどけた。

 味噌のほのかな塩気があとを引く。


「せやろ? 花ちゃんのキッチン使いやすくて助かったわ。普段から料理してはる人の台所って感じやった」

「わたしはものぐさだから、手の込んだものは作れなくて。時短レシピばっかり見てますけどね」

「ええやん。俺も効率と手際しか重視してないから、気持ちわかるよ」


 ……でも梶さんが喜んでくれるなら、うんと手を掛けたものを作るのもいいなあ、と思った。

 そうだ。夜ご飯は、何かとびきりおいしいものを作ってみたい。

 ところが、梶さんの食べたいものを聞くと、その答えは想定外だった。


「……え? おにぎりが好きなんですか?」

「せやな。手軽に食べられるし、思考も冴えるし、便利やん」


 違う、想定内だ。それでこそ梶さんだ。

 梶さんの言葉は、いつもちょっと理屈っぽいのに、不思議と体温がある。

 便利って言葉も彼が言うとどこか、やさしく聞こえる。


 けれど続く言葉に、わたしは言葉を失った。


「子供の頃な、母親はとっくに家を出て行ったし、父親は残業で帰ってけえへんかったけど、おにぎりなら一人で作れたから、飢えずに済んだんよね」

「それは……」


 台所に立ち、小さな手で湯気の立つおにぎりを丸める少年時代の梶さんが脳裏に浮かび、急に胸が痛くなる。

 わたしの顔色を読んだのか、梶さんは慌てるように「ちゃうちゃう」と顔の前で手を振った。


「そんな湿っぽい話やないって。

 親がいないのは、俺にとってはある意味、行幸やったんよ」

「行幸……?」

「せや。何時間遊んでも誰も文句を言わん世界で、一人でずっと考え事ができるし、明け方までパソコンをいじっても誰も止めにきぃへん。

 たぶん……あの時間が、今の俺を作ったんやと思う」


 彼は少し照れたように笑った。


「それは……」


 行幸なんだろうか?

 きっと彼がそう言うなら、そうなんだろう。

 だけど、うまく言葉が出なかった。


 だめだ、泣いちゃいけない。

 この感情は、彼の悲しみを勝手に想像しただけのものだ。


 梶さんの表情は、たしかに微塵も暗くはない。

 だから、慰めの言葉や歩み寄りを口にするのは違う気がした。

 それは、子供時代の彼に対して、とても失礼だと思うから。


 だけど──。


「梶さんに、おにぎり、たくさん握ります。わたしが」

「ほんま?」

「はい。これから梶さんが食べるおにぎりは、全部わたしが握ります。

 だから……そばに、いてもいいですか?」


 話しているうちに泣けてきて、慌てて下を向く。


「ちょお、なんで泣くん? 花ちゃんはすぐに変なスイッチ入るなあ」


 梶さんは笑いながら傍に寄り、左手でわたしの目尻にそっと触れる。


「ほな、おにぎりはこれから、花ちゃんにずっと握って貰おうかな。

 具はなんやろ、おかかと梅干しがええかなあ」


 そう言って、やさしい顔で彼は笑う。


 こんなにもあたたかい空気の中で、どうしていま、悲しいと感じるのか、うまく言語化はできない。


 窓の外では、冬の光がきらめていた。

 スープの鍋から立ちのぼる湯気が、まだ、小さく揺れている。



 二人でいろいろ話し合って、梶さんは、仕事始めの直前まで、うちで一緒に過ごしてくれると言った。

 わたしも明日からの帰省を取りやめて、彼と過ごすことを選んだ。

 母に「彼氏ができたから」と素直に伝えると、「うちに連れてくればいいのに」と文句を言われてしまった。

 お母さん、ごめん……さすがにそれは早すぎるよ。


 けれど、長旅を予定していなかった梶さんの鞄の中には、端末と一泊分の着替えしかないという。


「連泊するなら、服とかいろいろ買いに行きたいんやけど、付き合うてくれはる?」

「もちろんです! 嬉しい!」

「買い物に付き合うんが?」

「梶さんと一緒に買い物するのも、一緒にお出かけするのも、全部嬉しいです」

「そっかあ。そしたら、どっかで待ち合わせしよか。たぶん、三時前には終わると思うし」

「はい!」


 新宿は音が苦手という理由で、梶さんは買い物する場所に銀座を選んだ。

 並木通りのスタバ前が、待ち合わせ場所だ。

 会社に出かける梶さんを見送り、慌ててシーツやタオル類の洗濯物をコインランドリーへ持って行く。

 メイクを直して、志穂さんが選んでくれたものから、デート服を選び抜き、少し浮かれた気持ちで家を出る。


 午後三時半。

 気がつけばあっという間に約束の時刻になっていた。

 年末の銀座は、いつもより少しだけ浮き立って見える。

 冬の日差しはもう傾きはじめていて、ビルのガラスが淡い琥珀色を映していた。


 スタバの前では、紙カップを手にした人が何人も並んでいる。

 わたしは邪魔にならないように、街路樹のそばのボラードの影に立った。

 金属の表面が、冬の日差しをかすかに反射している。

 扉が開くたびに、ローストの香りがふわっと外へこぼれだす。


 人混みのざわめきの奥で、手にしているスマホがかすかに震えた。

 ほんの一度だけ、低い波のような振動。

 画面を見ると、ECHOのアイコンが淡く青く光っている。

 画面には、短いメッセージ。


「ごめん。五分だけ、遅れる」


 瞬く間に雪になって消えていくその文字を見て、なんだかまだ、実感がわいていないことに気がついた。


 ……わたし、ほんとに梶さんと付き合ってるんだ。


 冷たい空気の中、スマホの光だけが小さな青を宿している。

 光の色も、空の温度も、彼の声の記憶に似ていた。

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