穏やかな時間
二人で過ごした七日間──映画を見て、年越しそばをすすって、初詣の人混みを避けて家のベランダから小さな花火を見た。
何も特別なことはしていないのに、その全部が、わたしにとっては人生でいちばん穏やかな時間だった。
梶さんは、一日に三時間ほどは仕事で外に出ていた。
それは大晦日も元旦も変わらなかった。
どんな仕事をしているのかはよくわからないけど、同じ会社に勤めていても、わたしとはまるで違う世界にいる人なんだと思わされた。
「……あーあ。案外あっという間やったなあ」
「ほんとですね……」
「これで終わりやないし、毎日連絡するから、そんな落ち込まんといて」
「……はい」
「花ちゃんはほんまに泣き虫やんなあ」
「……泣いてないです……」
そう答えつつ、ぎゅっと手を握っているだけで、すでに泣きそうだった。
もうすぐこの温もりが離れていってしまう。
改札の前で、行き交う人の流れが少し途切れる。
「少しだけ、見送りに行ってもいいですか」と言うと、梶さんは一瞬だけ驚いた顔をして、それから「ええよ」と笑った。
入場券を受け取り改札を抜けると、ホームに冬の風が吹き抜けた。
灰色の空はまだ低く、駅のスピーカーが遠くで次の発車を告げている。
年末年始の喧騒は少し落ち着いて、構内の人影もまばらだった。
梶さんのスーツケースには、昨夜まで部屋にあった温もりの残り香が、きっとたくさん詰まっている。
わたしたちは、発車を待つ車両の端に並んで立った。
会話はほとんどなかったけれど、穏やかな沈黙が、心の奥に小さな灯りを灯すようだった。
「次会うときは、名前で呼んでくれへん?」
「……名前はちょっとまだ恥ずかしいので、梶……くんでもいいですか?」
「ええよ。かわいらしいなあ。ほんまに。東京に残してくの、心配になるわ」
恥ずかしさで耳まで赤くなったわたしの頭を、梶さんがやさしく撫でる。
反対ホームの発着ベルが鳴る。……一緒にいられるのは、あと数分。
梶さんがちらりと駅の時計を見て、少しさみしげに笑った。
「ほな、また会いに来るから、それまで浮気せんといて」
「するわけないです……! か、梶くんも……」
「ん?」
「梶くんも、わたしのこと、忘れないでくださいね……っ」
抱き寄せられ、突然唇を奪われて、息が止まる。
まるでわたしを丸ごと食べるような勢いに、彼の胸を必死で叩く。
「……ひ、人前は……だめです……」
羞恥による涙声の抵抗は、けたたましいアナウンスにかき消される。
残されたのは、腕の中に残る彼の匂いだけだった。
あっという間に消えていく車体の残像を追いながら、わたしはその場で、しばらく泣いたまま動けなかった。
◇
梶くんは約束通り、一ヶ月に一度は東京に会いに来てくれるようになった。
遠距離恋愛というものを初めてするけれど、思ったより淋しさを感じないのは、梶くんがまめに連絡をくれるからだ。
仕事で長時間連絡がつかないときは事前に教えてくれるし、返信が遅くなったときも、電話で事情を伝えてくれる。
細やかな気遣いは、わたしに愛されているという実感を与えてくれて、それはとても心強いものだった。
三月の誕生日、梶くんはわたしに何か特別なプレゼントを贈りたいと主張していたけれど、新幹線代だってかかるし、ECHOの維持費も何回聞いても教えてもらえない。
そんな現状で、さらにお金を掛けてもらうのは気が引けると断った。
それに、すでに十分すぎるほどのものを、わたしは受け取っている。
すると、その日の夜。仕事を終えてアプリを開くと、ECHOの画面がいつもと違って見えた。
アイコンの下に、小さな更新通知が点滅している。
“update available – version 3.1.0”
ECHOのアップデート?
よくわからないままタップすると、真っ黒な画面に白い英字が流れた。
[ECHO.sys] update: v3.1.0
[new feature] Voice Link Mode
description: “You can talk. I’ll listen.”
status: available
(新機能 ボイスリンクモード)
(説明:「あなたは話せる。わたしは聴く」)
(状態:使用可能)
「ボイス……リンクモードってもしかして……」
小さな光の粒が、画面の中でゆらめいた。
ECHOのアイコンが、心臓の鼓動みたいに淡く明滅している。
「……ECHOで通話、できるってこと?」
試しにタップすると、短い振動のあと、ほんの数秒の静寂。
次の瞬間、イヤホンの奥で、低くてやわらかい声が響いた。
「……花ちゃん、聞こえる?」
息を呑む。それは、聞き間違えようもない梶くんの声だった。
「えっ……すごい!」
「ECHOをアプデしたんやけど、どうやろ?」
「梶くん、凄すぎる……! 嬉しい! ありがとう!」
「うん、お誕生日おめでとう」
今までも電話で話したりはしてきたけれど、世界で自分たちしか使っていないアプリで通話ができるというのは、特別な感慨をわたしにもたらした。
そう。これはまるで、
「梶くん専用の糸電話みたい!」
「はははっ。なんやそれ」
「小学生の頃、糸電話って学校でやりませんでした?
好きな男の子が隣の席で、耳元でその子の声が響くのが凄く嬉しかった覚えがあるんですよね」
「……それ、正直あんまり嬉しくないんやけど」
「ええっ。ち、違いますよ!? その子のことはもう顔も名前も全然覚えてないし! わたしが言いたいのは、耳元で梶くんの声が聞こえるのが、凄く嬉しいなって意味で」
普通の電話より、ちょっとノイズ混じりの梶くんの声。
特別親密な感じがして、くすぐったくて、とてもいいものだと思う。
「そしたら、今度からはこれで連絡して。出られん時のが多いと思うけど、伝言も残せるから」
「はいっ! たくさん話しかけちゃいますけど、いいですか?」
「当たり前やん。隣の席の男の子に間違えてかけんといて」
「かけませんよっ」
……話したい男の人なんて、梶くんしかいないし!
ときどき、あまりに幸せで、もしかしたらこれは全部夢なんじゃないかという気持ちになったりする。
そういうときは、ECHOにたくさん愛と感謝の気持ちを託した。
わたしの想いが、一ミリの誤差もなく、まっすぐ届くように願って。
◇
七月。リラックス休暇を取得して、今度はわたしが京都へ遊びに行くことになった。
のぞみは席がとれず、そのあとのひかりに乗って、古都に思いを馳せた。
京都なんて学生時代以来だ。行きたい場所も、食べたいものもたくさんある。
でも何より、一ヶ月ぶりに梶くんに会えるのが楽しみで仕方がない。
新幹線のドアが開くと、熱気を含んだ夏の空気が押し寄せてきた。
けたたましい蝉の声が聞こえる。
京都の夏は、東京よりも少し重い。
胸の奥まで湿気が入り込んで、息をするたびにゆっくり熱を溶かしていくみたいだった。
改札を抜けた瞬間、人波の向こうに梶くんの姿が見えた。
白いTシャツに、薄いグレーのジャケット。
首元には細い黒のネックバンド、手首にはApple Watch。
ただ立っているだけなのに、どこか空気が違って見える。
ていうか……わたしの彼氏、かっこよすぎる……。
「花ちゃん、なにぼーっとしてはるん?」
いけない……。見惚れすぎて声を出すの忘れてた。
二人で他愛ない話をしながら、案内されるままに歩き出そうとすると、梶くんがスーツケースを取り上げ、左手を差し出した。
「ほな、行こか」
当たり前のように繋ぐ手は、少しだけ汗ばんでいて、それが妙に愛しく感じる。
エスカレーターを上がると、駅ビルの吹き抜けに風鈴の音が混じっていた。
ガラス越しに見える夏の光がきらきらと反射して、彼の肩越しに広がる空は、まるでどこまでも続くように澄んでいた。
梶くんは、連れて行きたいところがあると言ってタクシーに乗り、『上七軒のゑん屋まで』と行き先を告げた。
「……食べ物屋さんですか?」
そもそも、上七軒がどこか、よくわからない。
「俺の叔母さんの家なんやけど、嫁ぎ先が、上七軒で呉服屋を営んではるんよ」
「お……叔母さん……ですか?」
「うん。今から、花ちゃんに似合う浴衣を見繕ってもらおうと思うて」
「ええええええっ! 無理無理無理無理!」
思わず両手で思い切りバツを作ってしまった。
「あははっ。無理って何回いうん?」
「か、梶さん! じゃなくて、梶くん、ダメですよ! それってつまり、ご家族に紹介みたいになるじゃないですかっ」
「あかんかった?」
「あかんかったです! だって、手土産も持ってないし、服だってただのワンピースだし、もしご家族にお会いできるなら、もっとちゃんとしてきたのに!」
「なんで? 花ちゃんはいつも通りかわええけどなあ」
「そ、そういうことじゃないんですよぉ」
恋人受けを狙う服装と、ご家族受けを狙う服装は違うのだ。
志穂さんも、そう言っていた。
それに、梶くんは以前、『躾の厳しい叔母さんがいる』と話してくれたことがある。
そんな人に手土産もなしに、いきなり会いに行くなんて、とても勇気が出ない。
「ほな、断りの電話入れようか」
「ええええええっ。だ、ダメです! ドタキャンはもっとダメ!」
それ、会う前から嫌われるやつじゃん!
もう! 梶くんのバカ!
「そしたら、一緒に叔母さんに会いに行ってくれはるん?」
「……それしかないですよね……。はあ、嫌われたらどうしよう……」
「んー。志津さんは、いけずな京女ではあるけど、花ちゃんを嫌うことはないんやないかなあ」
「い、いけずな京女っていう単語自体が、もうすでに怖いですよ……」
「ははは。せやろなあ。俺も怖いし」
「ええっ。梶くんも?」
タクシーが駅前を抜けると、町の色がゆっくり変わっていく。
四条通の喧騒を離れて、格子戸の並ぶ通りへ。
上七軒は、祇園より静かで、風の音が似合う町だった。
そうして、なんの覚悟も持てないままに、わたしは創業一五〇年を超えるという呉服屋ののれんの前に、震える足で立った。
白地に墨で書かれた「ゑん屋」の文字が、風に揺れている。
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