閑話:ブルックリンで見る夢

◇アメリカ合衆国・ニューヨーク州

ニューヨーク市ブルックリン区ダンボ地区(DUMBO, Brooklyn, NYC)


 投資系証券会社のスカウトから一年後。

 レイモンド・カーターは、ニューヨークへ拠点を移した。


 会社が用意してくれたブルックリン区ダンボ地区の高層マンションで、彼は今、一人で暮らしている。

 夜になれば、ばかみたいに広いふかふかのベッドの真ん中に丸まりながら眠る。子どもの頃の自分なら、喜んで飛び跳ねただろう。

 けれど今、ブルックリンで見る夢は、驚くほど無機質で、味気なかった。


 インマンスクエアの古ぼけたアパートのほうが、ブルックリンの豪華なマンションよりも、ずっと住みやすかったなど、誰にも言えない。

 だけど、それが本音だった。


 生まれてからずっと一緒だった双子の姉は、レイモンドが彼女の学費を全額納めると、最大限の感謝を示してくれた。

 だが、その半年後には、付き合っていた彼氏と一緒に暮らしたいと言って、家を出て行ってしまった。


 二人で暮らすために購入したケンブリッジの物件はすぐに売りに出し、レイモンドは、自分も独り立ちする決意をした。


 だが、自分のことを気に掛けてくれる者の不在により、レイモンドの生活は一時的にかなり荒れた。

 掃除も、洗濯も、すべてが自分の手ではうまくいかない。

 食事さえ、研究に没頭すれば平気で忘れる。


 自分がいかにマリッサの手を煩わせていたか、離れてみて、初めて気がついた。

 見かねた会社のマネージャーがハウスキーパーを雇ってくれなければ、下手したら餓死するか、ゴミに埋もれて窒息していたかもしれない。


 ◇


 レイモンドに与えられた研究施設は、ニュージャージー州ニューアーク、アイアンバウンド地区の外れにあった。元は食品工場だった三階建ての倉庫を改築したものだ。

 自分の他にも、ここには選りすぐりの研究者が集められているようで、大学とはまた違った雰囲気のエリートの巣窟になっている。


 そのことにほっとすると共に、マリッサと一緒に暮らせなくなった淋しさを、いまだにどう埋めていいのかわからない。

 きっと彼女の方は、自分を気に掛ける時間すらないと思うのに。


「……あれ? また要求が増えてる」


 ぼんやりとメールボックスを眺めていると、新しい仕様変更書が届いていた。送信相手は、実質的なレイモンドのボスである。

 まだ数えるほどしか会ったことはないが、最初にスカウトに来た男性アナリストの上司に当たるらしい。


 彼は、思わずレイモンドが恐縮するほど、こちらを褒め称え、惜しみのない支援と研究環境を与えてくれた。

 自分が誰かの役に立っていると思うことが、今のレイモンドには慰めになっていた。


「でも、この人、要求密度が高いんだよなあ……」


 契約を結んだばかりの頃、レイモンドに最初に求められた仕事は、ごく単純なものだった。

 外部からの干渉を一時的に無効化する、薄いレイヤー。


 ボスはそれを、「ノックスレイヤー」と呼んでいる。

 鍵を掛けるというより、視界に薄い膜を一枚重ねるような感覚だった。


 「……これ、何に使うんだろ」


 実装してみても、危険性を測る理由が、見当たらなかった。

 だから、これが危ないものだとは、思いつきもしなかった。


 攻撃もしない。判断もしない。

 ただ、外からの観測を、ほんの一瞬、遅らせるだけ。


 なぜ、こんなものを欲しがるのか。

 レイモンドには、その理由が最後までわからなかった。


 だが、その次のミーティングで、同じ名前のまま、別の仕様が追加された。


 「前回の延長でいい。ほんの少し、精度を上げてほしい」


 要求はいつも穏やかで、論理的だった。説明も、圧力もない。

 だから、レイは考えなかった。

 考える必要がない、と判断してしまった。


 ノックスレイヤーは、少しずつ厚みを増していく。

 観測を遮るのではなく、遅らせる。

 遅らせるだけで、結果は変わらない──はずだった。


 定期ミーティングのたびに、新しい実装が届く。間隔は短くなり、説明は簡潔になっていく。


 完成させたと思った直後に、次が来る。

 理解する前に、次が重なる。


 それでも、レイは作れた。

 コードを書くこと自体は、自由だったからだ。


 ただ、ある日ふと、最初に作ったノックスレイヤーの構造を思い出そうとして、正確な形が、もう思い出せなくなっていることに気づいた。


「ぼくは、何をつくったんだろう……?」


 その言葉に答えてくれる者は、どこにもいなかった。

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