Side Kaji:何かがほどける音がした
街路樹のイルミネーションが、路面にぼんやりと滲んでいる。
店を出ると、夜気が一気に肌を刺した。
その冷たい空気に触れることで、のぼせ上がった頭が、遠い場所から理性を徐々に取り戻す。
先ほどの失言を、映画に誘うことで誤魔化しながら、並んで冬の夜を歩く。
夜風に吹かれ、客観的に自分たち二人の立ち位置を眺めた。
己がモノリスから手を離せない立場であることは理解している。
そして、モノリスに関わる以上、リスクは常にある。
だからこそ、彼女がアペックスにいる限り、そばにいられる未来はない。
ECHOでたまに話して、もしまた東京に来ることがあれば、飯でも誘う──そのくらいが限界じゃないだろうか。
……でも、こんなかわいい子に彼氏ができんわけないか。
そのときは、きっとそんな時間すら、消えてしまうんやろな。
そう思った瞬間、胸に鋭い痛みが走る。
彼女と話すことすらできない未来を想像しただけで、たまらない焦りと苦みが広がった。
無意識に、彼女の腕を掴もうとして肩が動いた。
だが、手が届きそうになる前に、彼女が何かに躓き、体勢を崩す。
「きゃあっ」
「あぶなっ」
伸ばしかけていた腕でそのまま彼女を引き上げ、背中ごと支える。
髪からか、服からか、ほんのわずかに花のような香りがして、抱きとめた腕に力が入った。
小さな体がぎゅっとこわばり、外灯に照らされた頬がみるみる赤くなる。
視線が絡み、震える瞳がこちらを見上げる。
その表情を見たとき、唐突に、脳が理解した。
──……なんで気づかへんかったんやろ。
この子、俺のこと好きなんや。
自分の感情処理に忙しく、彼女の気持ちまで解析する余裕がなかった。
だけど振り返ってみれば、あのおかしな挙動がすべて、恋心ゆえのものだとわかる。
世界の輪郭が、前よりも柔らかく目に映る。
有楽町までの道のりが、夜なのに輝いて見えた。
……彼女に触れてはいけない理由はいくらでも思いつく。
だけど、触れたい気持ちを抑える方法だけが、どうしても思いつかなかった。
年末だからか、時間が遅いからなのか、映画館は想像よりも静かだった。
チケットを購入し、後方の真ん中に二人で並んで座る。
劇場の扉が閉まる音がして、外の冷気が切り離された。
暗がりの中、スクリーンの光だけが、彼女の頬を淡く照らしている。
映画が始まっても、視線を左側の彼女から外すことができない。
驚いたり、痛そうな顔をしたり、涙をこらえたり──くるくる変わる表情を、ただ見ていた。
鼓膜の奥で、心拍と音楽が溶けあう。
あの横顔に触れたい。その視界に映りたい。
彼女が笑うならその顔を、泣くのならその顔も、すべて自分に向けさせたい。
理性が、静かに軋んだ気がした。
誰かの顔を眺めるだけで、胸に痛みと幸福が入り混じる。
そんな経験を、一度もしたことがなかった。
人間の脳には、『手に入らないものほど欲しくなる』という希少性の原理がある。
だからこれは錯覚で、求めてはいけない人だからこそ惹かれているだけだ。
そう言い聞かせるのに、心が首を横に振る。
……おかしいやろ、ほんまに。
今日が初対面やのに、なんでこんなに気持ちになるのかわからへん。
抑制の歯車が、少しずつ狂っていく。
なのに、それを嬉しいと思っている自分さえいる。
エンドロールを迎える頃、彼女の丸い瞳からは涙が溢れ、止まらなくなっていた。
泣き顔までかわいいんやなあ……。
そう思った瞬間、心のどこかで何かがほどける音がした。
抑えてきた理性が、追いつく前にこぼれ落ち、気づけば、柔らかな頬に口づけていた。
目を見開き、涙を奥に引っ込めて、呆然と彼女が呟く。
「……な、んですか? 今の……」
その言葉で、現実に引き戻され我に返った。
「……涙が止まるかなって」
とっさに口から出たのは、どうしようもない言い訳だった。
「ひ、ひどい……」
小さく震える彼女を、スクリーンの光が照らす。
赤くなった頬は、いままでの照れとは違う熱を帯びていた。
「ひどいです。……こんなことしないで」
「ごめん……」
その怒りは、今日見てきた中で、一番美しい顔を彼女につくらせる。
好きだから赦せないと全身で訴えてくる、その熱に、心がじりじりと灼かれているのがわかった。
……ああ、もうあかんわ。
こんなん、誤魔化すことができん。
彼女の顔を両手で包み、おでこを寄せた。
吐息がかかる距離で、今夜、一番正直な心を打ち明ける。
「ほんまのこと言うと、したかったから、した」
理屈も理由もようわからんけど、ただ、君が欲しいんやと思う。
どうしようもないほどに。
「……ダメやった?」
「……ダ、ダメじゃ……ない……」
言葉が聞こえる前に、衝動的に唇を奪う。
シアター内に流れるピアノの音が、やけにやさしく耳の奥に届いた。
まるで自分の愚かさを、そっと見逃してくれているように。
◇
劇場を出ると、夜の街はまだ息づいていた。
有楽町のビル群の間を抜けて、白い蒸気が排気口からゆるやかに立ちのぼっている。
さっきまで映画の光を反射していた瞳が、街灯のオレンジを映して揺れた。
いつもなら外出には必ず手袋をする。
うっかり怪我でもしたら、キーボードもコードも触れなくなるからだ。
けれど今日は、ポケットの中にしまったまま取り出せなかった。
彼女と並んで歩くあいだ、もしこの手が彼女に触れるなら、その瞬間を、何も隔てたくなかった。
冷たい風の中で、指先だけが熱を持っている。
終電まで、あと一時間くらいだろうか。
それなのに、まだ離れたくなかった。
もう少し彼女のそばで、その声を聞き、笑顔を見たい。
叶うなら、この手を、もう少しだけ離したくなかった。
そんな思いがつい口から漏れ出すと、
「わたしも、まだ一緒にいたいです……」
と彼女が瞳を潤ませた。
……っは。あかんわ。いま、一瞬、別の惑星に飛んでた。
ちゃうちゃう。花ちゃんは、単にお話がしたいだけやんな。
ほんまに何のトラップかと思うたわ。
「居酒屋とか探す? それとも、ファミレスみたいなとこのがええんかな」
カラオケは密室度が増すから、もっと人が多い場所がいいだろうとスマホで検索を始めると、敵が更なる攻撃を仕掛けてきた。
「……うち、ここから近くて!」
……うち? うちってなんやったっけ?
関西人の一人称か? いや、絶対ちゃうやろ。
「うちって……花ちゃんの家?」
「はいっ、あの……乗り換えなしで三十分くらいなので」
「三十分」
三十分、花ちゃんと一緒に電車に乗れるんかあ。
それもええよなあ。
「あのっ、でも変な意味じゃなくて!」
「変な意味?」
そないに言うたら、変な意味の定義から考えなあかんやん。
「だ、だから誘ってるとかじゃなくてですねっ」
「誘ってるとかじゃないんや」
……うん、これは釘刺しやな。
うちに呼ぶからって軽い女だと思わないでよねっ! ちゅうやつやんな。
「ちゃんと客用のお布団もありますしっ」
「お布団まであるんやねえ」
お布団? この子いま、お布団言うた?
んん? 同衾を赦された訳やないよな?
会話に罠が多すぎて、混乱してくんのやけど。
「ふ……」
「ふ……?」
ふってなんやっけ?
「復唱しないで……!」
……あかん。かわいさが天元突破した。
深夜の都営浅草線に揺られ、そのあいだ、ずっと考えていた。
彼女ともっと一緒にいたいという目先の欲につられ、ふらふらとついてきたが、本当にいいのだろうか、と。
……職業的には、限りなくグレーだ。
おそらく海堂は歓迎しない。
それに自分がいつまで京都に残る必要があるのか、現時点では何もわかっていない。一年か、二年なのか、そもそも戻れる当てがあるのか。
社内政治ひとつで、いくらでもひっくり返されるのが現在置かれた立場で、そういう事情を伏せたまま彼女と向き合おうとするのは、ひどく卑怯なことに思える。
──それでも、彼女の隣にいたいと思ってしまうことが、何より厄介だった。
花は疲れているのか、電車に揺られ、少しうとうとし始める。こんなに無防備で、危ない目に遭ったりしないかひどく不安になった。
今日は自分がいるからいいものの、まさか、いつも電車で居眠りするのだろうか。寝顔から視線が離せず、落ち着かない気分になる。
そういうことを考え始めると、彼女にふさわしいのは、常にそばにいて、嘘偽りなく、この子を守れるような包容力のある人間だろうと思う。
それなのに、自分以外の誰かが彼女のそばにいる未来など、とても赦せそうにない。
見知らぬ男に笑いかけ、そいつに泣いたり怒ったりする彼女を、想像することすら息苦しかった。
……あほらし。赦せへんて、どの立場でものを言うとんのやろ。未来なんて、何ひとつ約束もできんくせに。
彼女のことを本気で思うなら、いっそ最初から近づくべきではない。
頭ではそうわかっているのに、繋いだ手を離す勇気が持てなかった。
ドアが閉まる音がして、車体が揺れる。
その揺れに合わせて、彼女の肩がかすかに触れた。
車窓越しに、目を閉じた彼女の顔を見つめる。
この穏やかな顔が、この先もずっと守られるといいな、と思う。
こんないい子は幸せになるべきだ、と。
それを守る権利が、今の自分にはないと知っていても。
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