Side Kaji:ノイズ

 甘いノイズ。

 それが女性という生き物全般へのイメージだった。


 音としては心地よいが、情報としては不要なもの。

 一時的な享楽と温もり、あるいは、繰り返される束縛とノイズ。

 誰と付き合おうと、与えられるのはいつも同じだ。


 何があっても己にとって一番大切なのは、誰にも侵されない時間。だが、それを認めてくれる女性は、そう多くない。

 結果としていつからか、気分転換に遊び、煩わしくなったら静かに去るというサイクルが生まれた。自然と、選ぶ女性の幅は狭まった。

 こんな誠実さのかけらもない人間を赦してくれるような子でないと、面倒なことになる。十代のうちに、そう学んだからだ。


 だからこそ、佐々木花をどういう存在として扱えばいいのか、よくわからなかった。

 始まりは、面白い研究対象。それが、ゆっくりと日常に浸透していき、気がつけば彼女と話すことを、一日の中で何かのご褒美のように捉えていた。


 女性だけど、ノイズではない。甘いけれど、束縛はされない。

 言葉一つで温もりを与えて、こちらに何も求めない。

 バイノーラルビートのような心地よさに浸りながら、ECHOで彼女とやりとりを続ける。

 それはただの習慣のはずだった。

 けれど、数ヶ月も経つうちに、気づけば彼女自身に興味が移っていた。


 ある夜、管理者コードで彼女の社員情報を抜き出し、顔写真を密かに保存した。

 以前、彼女の情報を引き出したのは、業務上必要だから行ったこと。

 だが、今回のは完全に私用。

 倫理的、道義的、職務的にも、間違いなくアウトだ。


「まったく技術屋いうんは、ろくでもないよなあ」


 痕跡を消しながら、乾いた笑いが漏れる。


「……まあ、権限持たせたらあかん人間に持たせた、海堂はんが悪いっちゅうことで」


 そう言いつつも、多少の罪悪感は感じている。

 だが、それ以上に、彼女の写真を手にしたい欲求の方が静かに勝った。


 新卒で入社した頃に撮影したものだからだろうか。

 それとも童顔だからなのか。

 写真の女性は、幼さと垢抜けない印象を残したままだった。

 本人の言動と相まって、実年齢よりもかなり若く見える。


「ほんま、どんな子なんやろなあ。会うてみたいわ」


 この一連の欲求を、研究と呼ぶことに無理があるのはわかる。

 でもそれは、年の離れた妹を愛でるような感情に近いものだ。

 愛や恋ではなく、好奇心と保護欲。

 本気でそう思っていた。

 ……実際に、彼女に会うまでは。



 風がガラスの外壁を撫でて、街路樹の光が揺れている。

 丸の内ブリックスクエア前の雑踏の中、背の小さな女性が姿勢を正し、まっすぐに立っているのが見えた。

 伸びた背筋は凜としていて、品がある。それなのに、突然両手で顔を覆ったり、キョロキョロしたり、おかしな挙動が目立つ。


 ……顔を見んでもわかるわあ。あんなん、絶対花ちゃんやろ。


 控えめな色のコートが、冬の光を受けて柔らかく映える。

 まっすぐに向かっていくと、彼女の視線がこちらを捉えた。

 周囲の音が急に途切れ、彼女の唇がわずかに、動く。

 軽く手を挙げると、その顔に朱が走る。

 お互いに、同じ気持ちでこの日を待っていたのだとわかり、胸の奥に、静かな熱が満ちていった。

 少し浮かれた気持ちで彼女の方へ歩いて行くと、近づくごとに、その顔がどんどん硬くなっていくのがわかる。


 ……めっちゃ緊張してはるなあ。あれ、息止めとんのとちゃうか?


 そう思いながら声を掛けると、案の定、最初の発声で思い切り噛んでいた。

 それでも、写真で見るのとは比べものにならないほど、彼女の顔が大人っぽく見えて、思わずドキリとする。


「は、はじめましてっ」


 声を聞いた瞬間、世界の輪郭が、わずかに変わった。

 街のざわめきが薄れ、彼女の声だけが、鼓膜の奥に残る。


「あの、佐々木花です……!」


 その音の高さが、これまで使っていたECHOの音声に重なり、急に現実が手触りを持った。

 十ヶ月、画面の向こうで言葉を交わしてきた女性が、今、目の前に立っている。

 彼女が赤くなったり、慌てふためいたり、落ち込んだりする。

 その動きのすべてから、目が離せなかった。


 なんやろ、思ってたんと違うて……めちゃくちゃ可愛くないか?


 顔じゃない、声じゃない。

 そういう表層的なことではなく、存在のすべてが眩しく映る。

 彼女の言葉が、音になって胸に残り、笑いが抑えきれず、呼吸が乱れる。

 制御できないのに、どこか心地いい。


 ……いや、ちょお待って。もっと冷静にならなあかんて。


 彼女に仕事について聞かれたとき、不意に理性を取り戻した。

 契約書を交わしたわけではないが、同僚との交際は、職業的に暗黙のタブーだ。

 情報を扱う人間ほど、個人的な感情を慎むのが常識であり、関わるプロジェクトの重大性を鑑みれば、指摘されるまでもない。


 ……つまりこの子は、手を出したらあかん女やね。


 そう思い、ほんの少し距離を取ろうとした瞬間、彼女が目を見開いて、まっすぐこちらを見つめた。


「梶さんに興味があったら、駄目ですか……?」


 その声が、静かに脳に届く。

 一拍遅れて、呼吸が引きつった。


 ……いや、あかんて!

 なんやその顔、卑怯すぎひんか?


 理屈ではなく、神経が過剰反応している。

 呼吸が浅くなり、鼓動のテンポが合わなくなる。

 体が知らないアルゴリズムに巻き込まれていき、気づけば、口が勝手に動いていた。


「あー……かわええ。なんでも聞いてええよ」


 あかん。脳がバグってるわ。


 挙動のおかしい女と、理性の壊れた男の初デートが、ゆっくりと始まる。

 不協和音になりそうなズレを横たえながら、なぜかそれは、真冬の丸の内で、柔らかく響いていた。



 ブリックスクエアを背に、一本裏手の通りへ入ると、人の流れがすっと途切れた。

 イルミネーションの光は少し離れて、舗道の端だけを淡く照らしている。

 言葉はなく、二人の靴音だけが、規則的に続く。

 彼女は少し後ろを歩いていて、表情が見えないのがもどかしかった。


 立ち止まり「隣、歩かへんの?」と尋ねると、「恐れ多くてっ」と言う、意味不明な返答が来る。


「なんやねん、恐れ多いて」

「……だって、梶さんですよ?」

「ん? なんの話?」

「毎日話してた……あ、憧れてた人が目の前にいたら、きゃーってなりますよね?」

「……憧れの人とせっかく会えたんなら、仲良くなろうと思わへん?」

「それは、勝ち組理論です!」


 やたらと力強く反論するその姿さえも愛らしく、思わず口をついて出た。


「はあ、かわええなあ」


 途端に、彼女は顔を真っ赤にして怒り出した。


「そ、その『かわええ』は、体に悪いので止めてくださいっ」

「そっかあ。かわええは、体に悪いんやんねえ」


 ……あかんな。脳の処理速度が落ちて、復唱せんと理解できんようになってきた。

 なんやろ、いま、めっちゃ頭が悪くなってる自覚がある。


 思考を鈍らせるほどに、『ほんまもんの花ちゃん』の破壊力はすさまじかった。


「俺、今日、大丈夫なんかな……?」


 うっかり、彼女に手を出したりしないよう、理性を総動員する必要があるのではないだろうか。


「え? 何か言いました?」


 ……こっちを体に悪いって言うけどなあ。花ちゃんは、脳みそに悪いわ。

 そう言いたいのをこらえて、「いや、なんもないよ」と誤魔化すしかなかった。


 彼女の同僚が薦めてくれたという和食居酒屋に着き、引き戸をくぐった瞬間、出汁の香りが鼻をくすぐった。

 落ち着いた灯り、丁寧に磨かれたカウンター。

 好ましいほどに、ノイズが少ない店だった。


「カウンター席でもいいですか?」

「……ああ、ええよ」


 答えながらも、顔を見られないのはちょっと残念だな、と思う。

 だが、隣にちょこんと腰掛けるのを見た瞬間、絶滅危惧種を保護しなくてはならない動物愛護家にでもなったように、庇護欲が噴き上がった。


 ……あれ? なんやこの子、ちまちまして異様にかわいくないか……?

 身長差のせいなんやろか。


 理性がブレーキを踏もうとしたが、反応速度が追いつかない。

 最初に小学生という単語を使ったのがまずかったのか、本人がやたらと「大人です」と主張したがるのが、さらにかわいさを加速させる。


 しまいには、つい、


「……大人なら、今日くらい、少し遅くなっても大丈夫やろか?」


 と、口走っていた。

 理性が抵抗するよりも早く、言葉が零れたらしく、言ってからはっとする。

 しかし、それに対する、彼女の反応があまりに好ましく、感情に拍車がかかった。


 ……そろそろ般若心経くらい唱えなあかんかもしれん。


 卓上に並ぶ料理の湯気の中、理性の配線がまたひとつ切れる。

 静かな店内で、いつの間にか、自分の心音だけがノイズになっていた。

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