Side Kaji:同じ色をしている
彼女の部屋の最寄り駅を降りると、街はもう半分眠っていた。
商店街のシャッターはほとんど下りて、アーケードの外灯がところどころ切れている。
その分だけ闇が濃く、空気はやけに澄んでいた。
歩くたび、靴底が冬の地面をかすかに鳴らす。
「ごめんなさい、ちょっと寄ってもいいですか? 化粧水のストックがなくて」
駅前のドラッグストアに立ち寄る彼女の後ろ姿を見送った。
思わずため息をつくと、吐く息が空気に溶けていく。
……いったいあの子は、自分の何を信用して家に招こうとしてはるんやろね。
29歳の男と、26歳の女。
普通に考えたら、誘われているとしか思えない。
だけどあのテンションは、どう見ても「お花畑の中でお茶会をしましょう」と言っているようにしか見えなかった。
ところが、買い物袋を提げてこちらに駆けてくる無垢な笑顔を見た瞬間、そんな下世話な想像をしたことさえ、何かの罪のように思えてくる。
当たり障りのない会話をしながら歩いていると、通りの奥に、まだ灯りの残るコンビニの看板が見えた。
「ごめん、ちょっと寄ってもええ?」
「もちろんです」
「寒いから、中に入らへん?」
「いえ、待ってますから、ゆっくり行ってきてくださいね」
入り口に彼女を残し、ペットボトルの水や歯ブラシをかごに詰める。
店内の空気が少し乾いていて、店内アナウンスがやけにうるさく感じた。
ふと、ある一角で足を止める。
四角い箱を見つめながら、いま、これを買うべきなのかを真剣に悩んだ。
もし、彼女にそんな気がないなら、こんなものを買うこと自体が無礼だろう。
だが、遠回しに誘われているのだとしたら、何の準備もしていない方が非常識にあたる。
……はあ、あほらし。
いい年してこんなことで悩むて、どないやねん。
十代の青少年とちゃうねんぞ。
必要ないならそれでいい。とりあえず、準備だけしておく。それだけの話だ。
そう自分に言い聞かせながら、適当に一箱選んでレジに並んだ。
彼女の部屋は、コンビニのすぐそばにある、築浅の五階建てマンションだった。
「狭いから、ほんとは人を招くような家じゃないんですけど」
恐縮しながら招かれたその部屋は、まさに彼女らしい空間だった。
玄関を上がると、冬の冷気の中に、ほのかにグリーン系の柔軟剤の匂いが混じっていた。
強くない、ほとんど気づかないくらいの香り。
でもそれが、この部屋の主の人柄をそのまま表している気がした。
ワンルームだが、白い壁と高い天井のせいか、思ったより狭さを感じない。
手前にはゆったりしたサイズのソファとローテーブル。
その向かいには、壁掛けのテレビ。
きっといつもここで映画を見ているのだろう。
壁に取りつけられた薄い木の棚の上、小さなスピーカーが左右に並んでいた。
コンソールの上には、枝物の花を生けたガラス瓶。
立てかけられた大きな鏡が、シーリングライトの暖かい光を反射している。
薄いカーテンの間仕切りの向こうに、おそらくベッドが置かれているのだろう。こちらからは中は見えない。
そのことに、少しほっとしてしまった。
……うん、これはあれやな。やっぱり今夜の催しは、お茶会で間違いないわ。
ぼんやり室内を見回している自分とは対照的に、彼女はやたらとテキパキ動いた。
その様子が、さっきまでのおどおどしていた女性とは対照的で、妙に面白い。
きっと、こういうしっかり者の性格が、彼女の本質なのではないだろうか。
お湯を沸かしたり、コートを掛けたり、かいがいしく自分の世話をしようとする姿に、不思議な感慨を抱く。
実の母親が家を出て行ったのは、五歳の頃。
祖父が亡くなったのは、十歳だった。
たまに世話しに来る叔母は、しつけの厳しい人で、甘えるよりは自立を教えてくれる存在。
父親は忙しく、あまり家にいない人で、実質的に自分の世話は自分でするのが基本だった。
……なんか新鮮やな。
人の手でいれられた温かい飲み物なんて、いつ以来やろ。
この柔らかい空間にいると、自分までやさしい人間になれたような気持ちになる。
しかし、彼女が嬉しそうにテーブルに置いた、白湯の入ったマグカップを見て、脳が停止する。
濃い藍色の釉薬が美しいそれは、彼女の桜色のものと並べて見れば、明らかにペアカップだった。
……これ使うたら、花ちゃんの彼氏に怒られへん?
それとも元彼のものなんやろか。
想像した瞬間、妙な苛つきが心に生まれた。
「この藍色、彼氏のやない?」
思わず、声のトーンが責めるみたいに上がってしまう。
「ち、違いますっ。彼氏なんてずっといないですし、前にそう言ったじゃないですか」
浮気を問い詰められた恋人のような必死さを見せる彼女の言葉には、嘘が見えない。
それ以上に、あわあわとしながら反論する様子が好ましく、ただの勘違いかと安堵した。
……花ちゃんやしなあ。
『並べたらかわいい』という感性は自分にはないけど、たぶんそういうことなんやろ。
白湯を口に含むと、その温度が少しだけ心をゆるませた。
思えば、今日は変な一日だった。
朝から東京へ移動して、海堂に面倒なシステム仕事を押しつけられる。
かと思えば、アペックスのトップに囲まれ、重役会議に参加させられる。
やっと解放されて、会いに行った花は、自分の想像よりずっとかわいくて、魅力的な女性だった。
流れるまま映画を観て、電車に乗って、いま彼女の部屋にいる。
まるで、誰かに背中を押されてここまで来たみたいに。
……さすがに疲れた。
そう思いながら彼女を見ると、ソファの間には一人分の隙間。
妙に怯えた様子で、白湯をちびりちびり飲んでいる。
……もしかして、これはあれやろか?
部屋で男と二人きりになって、急に賢者タイムが訪れるやつ。
自分がしたことの危険さに気づいて、現実に戻る瞬間。
いやいやいやいや、ちょお待って。
誘ったのは花ちゃんやし、誘いに乗ったのは俺やけど、今夜は一切、そういう雰囲気なんて出してへん。
そんな危険なオオカミを見るような怯え方をされたら、マジで傷つくんやけど。
「……別に何にもせえへんから、安心してええよ」
なるべく柔らかく言ったつもりなのに、逆に彼女が慌てだした。
「ちがっ……違います。梶さんが怖いなんて、そんな」
けれどその声は震えていて、言葉とは裏腹に怖がっているように見える。
「……何か話す? 話がしたいって言うてたもんなあ。それとも、もう休みたい?」
いっそ、その方がいいのではないだろうか。
これ以上、変な誤解を生むのは絶対によくない。
そう思っていたのに、彼女は急に顔を上げ、まっすぐこちらを見た。
「あのっ……何か……」
「ん?」
「……何かして……欲しいです。わ、わたし、大人ですから……」
……幻聴か?
「……ごめん、いま……なんて言うた?」
「だ、だから……」
言葉を重ねるたびに、彼女の頬がみるみる桃色に染まっていく。
それは、今日はじめて見る潤んだ表情だった。
「わたしは……梶さんが……」
震える手が、ソファの縁をぎゅっと掴んでいた。
瞳の奥に涙が盛り上がり、一粒がするりと床に落ちた。
にわかに体温が上がり、心臓を握られたような痛みが走る。
もし心が可視化できるなら、彼女と自分のそれは、この瞬間、同じ色をしているのかもしれない。
「……本気で言うてる?」
「……はい……」
これを断るなんてできるわけがないし、そうしたくもない。
仕事のこと、未来のこと、倫理や道義、何を誰に指摘されようと、それが彼女の手を取らない理由にはならなかった。
なぜならとっくに、心が彼女を欲しがっていたから。
「……ほな、遠慮なく」
その夜、瞳の中に花を映しながら、その名を何度も呼んだ。
二人の熱が、ゆっくりと窓を曇らせていく。
あまりにも愛しいものに出会うと、人は泣きたくなるのだと、はじめて知った。
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