Side Kaji:プロジェクトMONOLITH
冬の匂いが、畳の隙間からしみ込んでいた。
伏見の家は、築五十年を超える木造の平屋だった。母屋の裏手にある離れは、祖父が道具や本を置いていた場所で、年季の入った障子の向こうから、古い柱のきしむ音がする。
「のう、雪斗。今日はじいさんが、ええもん見せたるさかいに、こっちに来なはれ」
祖父が離れで見せてくれたのは、畳の上に置かれた四角い箱。
ほこりをかぶった、スケルトンブルーのiMac。
思わず息を呑んだ。
光の角度でうっすらと透けて見える配線。背面の曲線。
それまで見たどんなおもちゃよりも、圧倒的に美しかった。
祖父がコンセントを差し込み、スイッチを押す。
ブウン……という低い起動音が、畳と障子に共鳴する。
目を丸くして画面をのぞき込むと、小さな笑顔のアイコンが、静かに手を振っていた。
「これはな、雪斗。『マッキントッシュ』ゆうやつや」
「……じいちゃん、これ、なんや壊れてへん? さっきからずっと、虹のぐるぐるが動かんねやけど」
「……ほんまやなあ? 機械は叩いたら直るときもあるさかい、ちょお叩いてみまひょか」
「なに言うとんねや。機械は叩いたらあかんやろ」
「はははっ。お前は賢い小僧やなあ」
「こんなん常識やわ」
「せやけどなあ、雪斗。よぉ覚えときぃなはれ。人間でも機械でも、叩く前に、どこが痛いんか見なあかんのや。痛みを知らんと、何も治せへんからに」
祖父の声は、薪の燃える音みたいに柔らかい。
その言葉の意味は、五歳の自分にはまだよくわからなかった。
けれどなぜか、お腹が満たされたように、じんわりと熱くなった。
そっと手を伸ばし、スケルトンの側面を指でなぞる。
透きとおったプラスチックの向こうに、銀色のチップが光っている。
「……きれいやな」
小さくつぶやくと、祖父が笑った。
「世界はなあ、ぜんぶ中身でできとるんや」
……その言葉は、あとになって、自分の中で何度も形を変えて響くことになる。
それまでも頻繁に、母屋と祖父の離れを行き来していたが、そこに拍車がかかった。
パソコンの中の世界を覗きたくて、ドライバーを手に、ネジをひとつずつ外していく。
ネジが外れるたび、胸の中で何かが鳴った。
世界のかたちが、少しずつ見えてくる。
家も、自転車も、雲の流れでさえも、目に映るものはみんな、どこかで繋がっているのが、理屈ではなく感覚として腑に落ちる。
世界の構造の中には、たしかに、生きている何かがあった。
その日の空気の匂いも、祖父の笑い声も。
すべて、あのスケルトンの中で光っていた気がする。
◇
静かな起動音の余韻が、ふっと遠のく。
気づけば、目の前にあるのはパソコンではなく、ガラス張りの会議室のモニターだった。
大手町のアペックス・ホールディングス本社、役員フロア。
──さっきまで胸の奥に残っていた、伏見の冬の匂いは、ここにはなかった。
ここでは、現在凍結中の「次世代型AIプロジェクト」の再稼働の是非を決める緊急会議が開かれていた。
経営戦略会議室には、この企業の中枢である役員が並び、それぞれが挑むような目を向けている。
こちらの表情や言葉の中に嘘が混じっていないか、不正や欺瞞はないか、すべてを詳らかにしようという気迫がある。
三年前、半永久的に凍結されたはずの『プロジェクトMONOLITH』。
現在、己が京都に留め置かれているのは、海堂の密命を受け、凍結されたモノリスの歪みの原因を探っているからだ。
そのプロジェクトを最初に立ち上げたのが、中央に座る男、後藤田総一。
創業者である後藤田黎一の息子にして、アペックス現CEO。
仏のような顔をしたその奥に、絶対にアペックスの未来を守るという理念と狂気の両方を抱えた男。
その懐刀である海堂が、数年前、後藤田とともに『人を支える企業理念』をコードに刻み、構造体を完成させようと試みた。それがプロジェクトの始まりだった。
途中までは確かにうまくことが運んでいた。或いは、順調すぎるほどに。
だがあるとき、モノリスに致命的な欠陥が露呈する。
時を同じくしてアペックスに降りかかった危機的事態に、後藤田はプロジェクトの凍結を余儀なくされた。
つまりいま、この時点での『MONOLITH』は、企業理念を数値化しようとした人間たちの、祈りと歪みの残骸と言える。
アペックスに関わり始めたのは、まだ院生だった二十三歳の頃。
兄のように慕っていた人物を通じて海堂に引き合わされ、いつの間にかプロジェクトの中枢を担うまでになっていた。
当初は、大学院では考えられないほどのリソースを与えられ、最先端の論文や実験データに誰よりも早くアクセスできる環境が、あまりに楽しかった。
同時に、仲間とともにひとつの理想を形にする過程に、果てしなく興奮していた。
モノリスによって生み出される未来も、それがどんな結果を生むのかさえも、見えていたとはとても言えない。
三年前、プロジェクトが凍結されたとき、海堂ならきっと、頼めば自分を逃がしてくれただろう。
だが、そうすることを選ばず、結局ここに残ったのは、自分たちが生み出したあの構造が本当に間違っていたのかを、最後まで確かめたかったからなのかもしれない。
それとも、理想を「かたち」にしたいという執着のせいなのか。
あるいは、恩ある人への贖罪なのか。
今となっては、もう自分でもわからない。
……はあ、退屈やなあ。
すでに一時間以上、モノリス凍結解除について、この場はずっと紛糾している。
再稼働を決めて、人を支える理念を社会に証明したい後藤田CEO派と、それを止めようとする但馬専務派の睨み合いが続く。
それは、矛と盾、どちらが強いかを証明するより決着がつきそうもなかった。
……なんで俺、こんなとこに呼ばれたんやろ。場違いすぎやわ。
本音を言えば、こんな会議をすっ飛ばして、早く彼女に会いに行きたかった。
ついぼんやりすると、遠くからこちらにガンを飛ばす海堂と目が合う。
『真面目に話を聞いていろ』とその顔が告げていた。
先ほど入り口で、「スーツとネクタイくらい締めてこんかい」と怒られたばかりだ。
……そんなおっさんくさい格好で『はじめまして』して、花ちゃんにがっかりされたら嫌やろ。
初対面の印象がいっちゃん大事やって、親戚のおばはんもよう言うてたしな。
そんなことをぼんやり考えていると、役員の一人から急に自分の名を呼ばれた。
「……そこにいる梶くんは、モノリス開発初期からの担当技術者だと聞いております。現在の状況について、どう考えていらっしゃるのでしょうか?」
急に名指しされ、面食らいながら海堂を見た。
彼は、「いいから話せ」と言わんばかりに頷いている。
仕方なく立ち上がり、会議室を見渡す。
「どう考えるも何も、こんなもの、まかり通らんと止めはったんは、但馬専務やと聞いてますけど。一技術者にできることなんて、たかが知れてますわ」
不遜な態度に、会議室がざわめいた。
別に喧嘩を売りたいわけではなかったが、口を開いたら勝手に嫌みが出てしまった。だが、反省も特にはしていない。
海堂を見ると、目をそらして、我関せずの態度に切り替えている。
……おい、おっさん。ほんまそういうとこやぞ。
「言葉を慎め!」「無礼だぞ」
「何だ、その関西弁は。ここをどこだと思っている」
ざわめきの中、但馬はすっと片手を挙げて野次を抑える。
その辺の有象無象とは違い、巨大企業をその背中で支えてきた貫禄の人物は、こちらのお為ごかしなど、一切通用しないと言う鋭い視線を投げかける。
「すまない。こちらも時間がないのでね。言葉遊びは控えて、端的に現在の状況説明を。それができるだけの設備と金を、海堂常務から与えられてきたはずだ。違うかね?」
「……海堂常務に与えられたかどうかは存じませんが、自分に会社から支給されたんは、業務上必要なリソース、それから京都サポートセンターの椅子だけですねえ」
「ふむ……梶雪斗リードエンジニア、君に聞きたいことがある」
但馬の低い声に、他の役員が姿勢を正し、静寂が落ちる。
「凍結前に、モノリスは『暴走した』と聞いている。それについて、当時、筆頭エンジニアだった君はどう考えている?」
その言葉に、一瞬だけ過去を逡巡し、すぐに視線をモニターへ戻した。
画面には、青白い数値の列が無機質に流れている。
「暴走……とは、少しちゃいますねえ」
「違う?」
「はい。あれは言うならば、観測の歪みでした」
「歪み?」
「そうです。モノリスは、人の心の反応を観測する構造体です。真面目に働いている人間が正しい評価を受け、長く働ける会社にしたい。そんな夢物語みたいなことを考え、実際に動いたのが、後藤田CEOです。ご存じですよね?」
「おい、梶!」
海堂は慌てたように声を上げたが、後藤田がそれを手で制した。
「その通りだよ、梶くん。わたしはね、この巨大企業を、他のどこよりも、社員が働きやすい会社にしたいと願い、プロジェクトを立ち上げた。それは我が社の社訓でもある」
「……でも残念ながら、モノリスは人の心を観測する途中で、気づいたんですよ。人の心は、AIが観測するには難題過ぎるんやって」
「……つまり、失敗ということか?」
但馬が渋い顔のまま、鋭く質問を投げる。
「失敗ではありません。AIの進化は、人間に止められるようなもんやないですから。あくまでも、思考と進化の途中です」
誰かが大きな声を上げた。
「おい、正気か? 人工知能に人間の心がわかるわけないだろ?」
「責任逃れの適当な発言は見苦しいぞ」
けれど但馬は、目を逸らさずこちらを見ていた。
「もしここから再稼働させたとして、君はそれを本当に開発できるのか?」
「……そうですねえ。実際にやってみな大きなことは言えんけど。でも、モノリスが進化を止めん限り、そこに寄り添うんが技術者である自分の仕事です」
「まあ、口では何とでも言えるな。……実際に成功する確率は?」
「……アペックスが潰れるよりは、高いんやないですかね」
「……なるほどな。……海堂が気に入るわけだ」
但馬は特に表情を変えず、淡々と言った。
「まあ、いけずは海堂常務の十八番やからなあ」
先ほどから何度も名を俎上に上げられ、海堂が気まずそうな顔をする。
「おい、梶。そこまでだ。いい加減にしとけよ」
「はあ。そしたら、この辺で退場してええでしょうか? こんな偉いさんだらけの会議、本来自分の出る幕でもないですしね」
短い沈黙ののち、但馬は椅子から体を起こし、分厚い手帳を閉じながら、ふと尋ねた。
「最後に一つだけ。君は、東京に戻る気はあるのか?」
鋭い目で尋ねられ、視線を宙にさまよわせた。天井の蛍光灯を見上げる。
無機質な白の中に、ほんのわずかに京都の冬の光が重なった気がした。
「……まだ、京都でやらなあかんことがあります。倫理モジュールの旧型は、京都の隔離サーバにしか残ってません。アレの最後の応答を、もう少し見る必要があるんで、いまは東京に戻るのは無理ですね」
「アレ、か」
但馬が短く笑い、うなずいた。だがそれは、面白がるというより、含みを持たせたものだった。
「いいだろう。こちらからは以上だ」
その横で、後藤田が静かに口を開く。
「わたしとしては、いずれ君を東京に戻したいと考えている。だが、京都でのことは現状、梶くんに任せるしかない。頼んだよ」
一拍の沈黙。わずかに会釈をして、視線を交わす。
後藤田の声音には、命令でも期待でもない、ただ信頼の温度があった。
「……ほな、これで失礼します」
会議室の重い扉を閉めて、ふう、と一息つく。
……こんなおっかない場所に呼び出すとか聞いてへんねんけど。
絶対あとで海堂のおっさんに文句言うたる。
窓の外を見ると、外の空に浮かぶ、街のネオンが滲んでいる。
まるで、遠い伏見のスケルトンブルーが、東京の空に映り込んだようだった。
「……はよ、ほんまもんの花ちゃんに会うて、癒やされたいなあ……」
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