春を待つこともできないほどに
電車の中で、梶さんの温かい手に包まれているうちにうとうとしてしまい、最寄り駅で彼に起こされるという大失態を犯してしまった。
あまりの恥ずかしさに顔を合わせられず、無言のまま改札を出る。
駅前は、商店街の灯りがまだいくつか残っていた。
昼間は人で賑わっている戸越銀座も、夜の十時を過ぎるとほとんどの店がシャッターを下ろしている。
アーケードの外灯がところどころ切れていて、そこだけ少し暗い。
けれど、隣を歩く梶さんの手のぬくもりが、それを気にならなくしていた。
毎日歩いている町並みの中に、梶さんがいる。
それがとても不思議で、夢の続きにいるようだった。
前方にコンビニを見つけた梶さんが「ごめん、ちょっと寄ってもええ?」と中に入っていった。
コンビニの自動ドアが開閉するたび、温かい空気が外に漏れる。
その向こうに見える梶さんの背中が、まるでこの街の光に少しずつ馴染んでいくように見えた。
それが嬉しくて、少しだけ怖かった。
……この時間がずっと続くといいのに。
無理だとわかっていても、そう願う気持ちは止めようもなかった。
わたしの胸の中で、黄色い蝶が羽を震わせる。
ひらひらと彼を求めて、春を待つこともできないほどに。
コンビニから自宅マンションまでは、徒歩三分もかからない。
「……風がちょっと冷たいですね」
「せやな。京都も寒いけど、こっちも冷えるなあ」
その言葉に、梶さんの住んでいる遠い街を想像して気持ちが翳る。
わかっていたことだけれど、彼がここにいるのは、ほんとに非日常的なことなのだ。
梶さんが握る指に少しだけ力を込めた。
少し驚いて顔を上げると、やさしい眼差しがそこにある。
言葉はない。
でも、なんとなく心は繋がっているような気がして、それがたとえ気のせいだったとしても、今日のわたしには十分だった。
部屋の前に着いても、どちらからも手が離れない。
一瞬の沈黙のあと、ようやく笑い合って、ゆっくりと指をほどく。
玄関の鍵を回しドアを開けると、中の空気が少しひんやりしていた。
朝、出かける前に開けたままのカーテンから、街のネオンが静かに入り込んでいる。
「ごめんなさい。狭くて。適当に座ってくださいね。あ、コートは掛けておきますから、預からせてください」
「……ああ、おおきに」
梶さんから受け取ったコートを玄関の脇のハンガーラックにかけて、ついでに自分のコートも隣に並べる。
そのままキッチンスペースで手を洗い、やかんを火に掛けて、お湯を沸かし始めた。
「空気、少しだけ入れ替えてもいいですか?」
「もちろん」
窓を少し開けると、夜風が吹きつけて首を竦める。
「寒いですよね。暖房入れますから」
「俺は気にならんから、どっちでもええよ。花ちゃんの好きにしてもらって」
「寒くないんですか?」
「んー。慣れやろなあ。家であんまり暖房をつけることないし。でも、花ちゃんが寒い方が嫌やし、無理せんでええよ」
なんだか爬虫類みたいなことを言い出したなと思って、その考えにおかしくなり、くすくす笑ってしまった。
「どうしたん?」
「梶さんは、いつもおもしろいなって」
「そうかあ? 花ちゃんのが、よっぽどおもろいけどなあ。外ではあんなに、もじもじしてはったのに、家に着いたら急にテキパキするから、なんやびっくりしたわ」
「も、もじもじなんて!」
……していたかもしれない。
けれど認めるのもしゃくで、「してないですよ」と小声で付け足した。
やかんの湯気が立ちのぼって、梶さんの横顔をうっすら曇らせる。
キャビネットから桜色と藍色のマグカップを取り出し、ふたつ並べて、感慨深い気持ちになった。
まさか、これを梶さんに差し出せる日が来るなんて。
沸かしたお湯を少し注いで一分待つ。
マグカップが温まったのを確かめてからシンクに流し、今度はなみなみと注ぐ。
お茶と違って、おいしく煎れられたかどうかに頭を悩ませなくていいのが、白湯の素晴らしいところだ。
トレーに載せて振り返ると、梶さんは少しぼうっとしたように、視線を遠くにしていた。
さっき、電車の中でしていたのと同じその顔は、わたしが近づくとはっとしたように笑顔に変わる。
「白湯です。飲みますよね?」
「ああ、ありがとぉ。気ぃ遣うてくれたんやね」
藍色のマグカップを、セットで買った同色のソーサーの上に載せると、梶さんはちょっと真顔になった。
「梶さんが白湯が好きって聞いてから、わたしもずっと飲んでるんですよ。
このマグカップも、白湯を飲むために買ったんです。保温性が高いから冷めにくくて……」
「……この藍色は、彼氏のやないん? 俺が使うて、ええんやろか」
「……は?」
ああっ。
言われてみると、たしかにこれは、どこからどう見てもペアマグカップだ。
何で急に真顔になったかと思ったら、彼氏がいると疑われたからなのか。
「ち、違いますっ。彼氏なんてずっといないですし、前にそう言ったじゃないですか。これは並んで売ってるのを見たらすごくかわいくて、客用に買っただけなんです!」
早口で勢いよく否定してしまい、かえって嘘くさく思われたかもしれない。
でも、こんなことで身持ちを疑われるのは、あまりにもつらすぎる。
かといって、梶さんのことを考えて買いましたなんて、正直に言えるわけもない。
マグの湯気が顔の前で揺れて、熱いのは白湯のせいか、自分のせいかわからなくなってきた。
「本当に違いますから!」という、わたしの強い主張を受け入れる気になったのか、梶さんはおかしそうに笑った。
「そうなんやね。変なこと言うてごめんなあ。気ぃ悪くした?」
「悪くしてないです……」
信じてもらえるなら、それでいい。
少しほっとして、梶さんとのあいだに一人分くらいの距離を開け、ソファに腰を下ろした。
すると、自分の部屋に梶さんと二人きりというシチュエーションに、ドキドキが止まらなくなってくる。
……あれ? なんでこの人、うちにいるの?
いや、もちろん、わかってる。
わたしがお招きしたからだと言うことは、ちゃんと理解している。
だけど、ここから先、何をどう話したらいいのか、そのことを考えると、とてつもない緊張感で身の振り方がわからなくなるのだ。
言葉が少ないまま、しばらくお互いに、温度を確かめるように白湯を飲む。
時計の針の音がやけに大きく聞こえて、いつの間にか日付が変わっていたことを知る。
沈黙が少し気まずくて、横目でちらっと梶さんを見ると、彼はまっすぐな視線をこちらに向けていた。
その目が、何かを問うように静かで、それだけで、心臓の音が跳ね上がる。
射られたように体が固まったとき、無音を破ったのは梶さんの柔らかい声だった。
「……別に何にもせえへんから、安心してええよ」
「え?」
「さっきから、挙動がおかしいのは、俺が怖いからやない?」
「ちがっ……違います。梶さんが怖いなんて、そんな」
そうじゃなかった。
梶さんが怖いからじゃなくて、わたしがおかしいのも、震えているのも。
「……何か話す? 話がしたいって言うてたもんなあ。それとももう休みたい?」
「あのっ……何か……」
声に出した瞬間、喉の奥が熱くなる。
これ以上は、もう誤魔化せないと思った。
わたしは、彼をここに呼ぼうと決めたときから、こう言いたかったのだ。
「ん?」
「……何かして……欲しいです。わ、わたし、大人ですから……」
「……ごめん、いま……なんて言うた?」
「だ、だから……」
わたしが言いよどむと、梶さんが体をこちらに寄せてきて、距離がぐっと縮まる。テーブルの上、ふたつのマグカップの湯気が境界を失ってひとつに溶けていく。
「わたしは……梶さんが……」
好きで。ずっと好きで。
たぶん、はじめてサポートセンターに電話が繋がった夜から、ずっとあなたに惹かれていて。
そう伝えたいのに、息を吐く音すら、夜に吸い取られていく。
今日まで、誰かに梶さんを好きだと打ち明けるのは、許されないような気がしていた。
会ったこともない人を好きだなんて言ったら、どうかしてるって、笑われると思った。
だけど、この世界の誰にも、それがたとえ梶さん本人であっても、わたしの思いを否定されたくはなかった。
言葉の代わりに、目尻から一筋、涙がこぼれる。
「……本気で言うてる?」
「……はい……」
一瞬の沈黙のあと、梶さんの目が妖しい光を帯びた。
ぞくりと背筋が震えて、見たこともない彼の表情に見入ってしまう。
「ほな、遠慮なく」
その夜、初めてわたしは彼に花と呼ばれて。
炙られたマシュマロでもこうはならないというほどに、溶かされた。
◇
ベッドサイドには、薄いカーテンが吊るしてある。
間仕切りの代わりにしているそれは、透ける布の向こうを見えなくして、ここだけ世界がひとつ分、閉じている。
今はそこに、わたしと梶さんだけがいて、耳元で聞く彼の心臓の音が、これは夢じゃないのだとわたしに知らしめる。
梶さんの寝顔を、斜め上に見上げた。
あと何時間、彼はここにいてくれるんだろう。
何ひとつ後悔なんてしていないけど、夢の終わりが近づいてきているのだと思うと、途方もなく涙が溢れてくる。
今朝は五時に起きて、今は真夜中の二時近い。
体は疲れきっていて、ひどく眠いはずなのに、もしも目が覚めて、彼がいなくなっていたらと思うと、怖くて目を閉じることもできない。
両手で目を覆い、涙を拭っていると、背中からぎゅっと抱き寄せられた。
「花ちゃん……泣いてはるん?」
「……泣いてないですよ。梶さんが一緒で……。
嬉しくて、どうしていいか、わからなくなって……」
寝ぼけた声のまま、梶さんがわたしの頭をやさしく撫でる。
「もしかして……ほんまは嫌やった?」
「まさか……そんなわけ、ないじゃないですか」
「泣かれると、手が出しにくくなるやん。こうやって触れるのもあかんかもなあって、怖なるし」
「わたしは……梶さんに、手を出されたいです……」
いっそのこと、もっと触れてほしい。
わたしの中に、こんな欲があることを初めて知ったの。
この関係は今日限りじゃないと言って欲しい。
明日からも、ずっとあなたに話しかける権利が欲しい。
あなたが好きなの。
だけどどれも声にはならず、闇の中に震える息が漏れる。
「そしたら、何で泣くん? 俺が怖い?」
「ち、違います……。そうじゃなくて……。
梶さんを、あなたを……失いたくなくて……」
面倒くさい女って思われたくない。
だけど、一夜限りの関係を素直に受け止められるような大人にはなれない。
「わたし……梶さんが好きです……。
ごめんなさい。好きなんです。ずっと、ずっと前か……」
言い終わる前に覆い被さってきた梶さんに、唇を塞がれ、甘い舌が口内を撫でる。
息もできないほど強く抱きしめられて、涙越しに彼を見た。
唇を離した梶さんは、苦しそうな顔でわたしを見ていて、その頬に、思わず手を寄せる。
「そんなこと、先に言わせてほんまにごめん。
俺も好きや。いつからとか、ようわからんけど、花ちゃんしかいらん。
花ちゃんさえおってくれたら、それだけでいい……」
……そんな奇跡が、あっていいのだろうか。
もしかしたらこれは、都合のいい夢を見ているだけ?
「今はまだ……京都を離れられんけど、赦してもらえるなら、ちゃんと花と付き合いたい」
「ほん、とに……?」
「うん。嘘はつかんよ。
こんなこと、本気じゃないならよう言わん。
俺は花ちゃんには、絶対に嘘はつかんから、信じてほしい」
「……はい。
わたしも……か、梶さんと付き合いたい……」
そうちゃんと言えたのか、言えなかったのか。
最後はよく覚えていない。
その夜の記憶は、梶さんのまなざしと、温かい胸の温度。
そして静かな匂いに包まれて、安心しきったところで、途切れてしまった。
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