復唱しないで
二時間後、食事をご馳走しようとする梶さんに丁重に断りを入れて、割り勘でお会計を済ませる。
梶さんは「年下の女の子に払わせるの、気が引けるんやけど」とごねたけど、「同期だから、割り勘じゃないと!」という、わたしの謎理論を押し通した。
……なんとなく、今日の一日を、対等な関係のまま終えたかったから。どちらかが多めに何かを差し出すのではなく。
ブリックスクエアを出ると、街路樹のイルミネーションがまだ淡く光っている。
「有楽町はあっちやよなあ。10分くらいやけど、歩ける? タクシー拾うてもええけど」
「歩けますよ! 大丈夫です」
石畳の隙間を夜風が抜けていく。昼間の喧噪が消え、丸の内仲通りは、まるで別の国のように静かだ。
黒いスーツ姿の人たちが足早に駅へ向かい、ヒールの音だけが点のように響く。
カフェの灯りは半分ほど落とされ、残っている客も少ない。
窓際でグラスを傾ける男女の笑い声が、ガラス越しに柔らかく漏れてくる。
『大人なら、今日、ちょっとくらい遅くなっても大丈夫やろか?』
その思わせぶりな言葉の意味は、単にわたしと映画を観たかっただけらしい。
……何かちょっと別な期待をしたわけじゃないけど、あのドキドキを返してほしくて、有楽町までの道のりを歩きながら、梶さんの横顔を恨めしげに盗み見た。
そして、そこではじめて気がついた。
……あれ、かっこいい……?
もしかしてこの人、普通にすごくかっこいい人……?
「梶さん」という人に会えるドキドキで客観的に見られなかったけれど、わたし、今とんでもないイケメンと並んで歩いている……!?
頭の中に、違う角度の混乱が生じたせいか、道の段差に足を取られて、身体が傾いた。
「きゃあっ」
「あぶなっ」
次の瞬間、腕を引かれて、彼の胸に吸い寄せられる。
それは、息が触れるほどの距離。
梶さんの服から、ほんのかすかに、ミントのような冷たい香りがした。
香水じゃなく、たぶん、空気そのものに溶けている匂い。
静かな人の、静かな体温の匂い。
完全に思考停止して身動きのとれないわたしから、梶さんがゆっくり体を離す。
「……ごめん。歩幅、合わせてなかったな」
「……い、いえ! わたしこそ、ぼーっとしてて!」
「映画、間に合いそう?」
「あ、はいっ。大丈夫です!」
ぎこちなく並び直して歩く。
手の熱がまだ指先に残っていて、会話の内容がぜんぜん頭に入ってこない。
突然、骨董通りのカフェで志穂さんに言われた言葉を思い出した。
― いい? 花ちゃん。デートのゴールって、相手に会ってご飯を食べることじゃないんだからね。
― ……え? 違うんですか?
― デートのゴールは、相手にまた会いたいって、思わせること。
これがすべて。
その言葉は、否が応でも背筋に緊張を走らせた。
会うだけでもハードルが高いのに、その次まで考えるなんて難題すぎる。
でも、確かに次の約束がなかったら、それきりなのだ。
― だからね。その日のうちに次の理由を、ちゃんと置いてくるの。
次のデートまで行かなくても、ほんのちょっとした約束でいい。
『この話の続き、今度聞かせてくださいね』とか、『次はあの映画、一緒に観たいです』とか。
そういう糸を残せたら、初デートは成功といえるわね。
「……いや、絶対無理ですって!」
「ん? 映画、無理やった? やっぱり時間ない?」
記憶の中の志穂さんに思わず叫んでしまい、その直後に己の失態に気づく。
「あ! ち、違います。独り言でした!」
「はははっ。ほんまにおもろい子やなあ。えらいでかい独り言やったけど、何が無理やったん?」
言えない……。
梶さんと次のデートをするには、どうしたらいいか、考えていましたなんて。
「……仕事のことを、ちょっと思い出して」
「明日から年末休みやろ? しばらくは仕事のこと忘れはっても、ええんやないかな」
「そう、ですよね……」
「うん。……ほな、いこか」
並んで歩く影が、街灯の下でゆっくりと重なって、また離れた。
風が頬をかすめるたび、あの瞬間の体温が、少しずつ遠のいていく。
……そのことをほんの少し、淋しいと思ってしまった。
映画館の入り口。
扉を押すと、夜気がふっと断ち切られた。
ほんの少し暖かい空気が頬に触れて、現実から映画の世界に切り替わる境界線みたいに思えた。
小さなロビーには、ポスターが整然と並び、古い映画のスチールが壁一面に飾られていた。
ポップコーンの甘い匂いとコーヒーの香りが薄く混ざって、映画館特有の懐かしい空気に満ちている。
天井は低く、照明は柔らかく落とされていて、丸の内の冷たい空気を抜けてきた身には、そのあたたかさが少しだけ沁みた。
「花ちゃん、何か観たいのある?」
「えっと、そうですねえ……」
できたら今日は、恋愛ものは避けたい。
梶さんの隣で濃厚なラブシーンなんて流されたら、居たたまれなくなりそうだ。
自動券売機のモニターに並ぶ、数本のタイトルから、ひとつだけ懐かしい文字列を見つけた。
「これ……どうですか? 時間もちょうど良いし」
選んだのは、去年の映画部で同時視聴したクリスマス映画の、リバイバル上映。
「ん? ええんとちゃう? 俺も映画館で観るんは初めてやわ」
「よかった」
それぞれ別々の場所にいたとは言え、梶さんとはじめて一緒に観た思い出深い作品を、一年後に一緒に見られるというのは、それだけで特別に感じる。
指定された小さなシアタールームに入り、真ん中の座席に並んで座った。照明が、少しずつ落ちていく。
去年、画面越しで見た光が、いまは同じ暗闇の中にある。
……この映画が終わったら、次の約束をできたりしないかな。
梶さんと、もっとたくさん話したいな。
もっと、一緒にいたい。
誰にもばれないように、自分の欲深さを暗闇に紛れ込ませて、わたしは静かに息を吐いた。
◇
映画館はやっぱりすごい。
音も、迫力も、伝わってくる感情も、家で観るのとは段違いだった。
余韻から抜け出せず、エンドロールが終わっても、わたしはまだ泣いていた。
人の流れが出口に向かっているのがわかっていても、気持ちが整わない。
バッグからハンカチを取り出して涙を抑えた。
「花ちゃん、大丈夫?」
「……はい。す、すみません……」
「謝る必要はないんやけど、こっち向ける?」
「え?」
何を言われたのかわからないまま、顔を向けると──わたしの涙が伝う頬に、梶さんの唇がそっと触れた。
驚きに息が止まり、涙も止まる。
世界の音が一瞬だけ消えて、唇の熱だけが、現実の証みたいに残った。
────…………!?
「……な、んですか? 今の……」
「……こうしたら、涙が止まるかなって」
梶さんは、まっすぐにわたしを見ていた。
その目に、からかっているような冗談の色はない。
だけど、なんでこんなことをしたのかはわからない。
「ひ、ひどい……」
心臓がひび割れそうに痛い。
梶さんが好きなのに、想いひとつ口にできないわたしに、これが冗談ならひどすぎる。
ぽろぽろと涙が再びこぼれ出す。
悲しいのか、苦しくて泣いているのかも、よくわからない。
震える唇でもう一回言った。
「ひどいです。……こんなことしないで」
わたしを好きじゃないなら、梶さんだけはわたしに触れないで。
じゃないと心が、壊れそうになるから。
「ごめん」
梶さんはわたしの顔を大きな両手で掴んで、おでこを寄せた。
「ほんまのこと言うと、したかったから、した。
……ダメやった?」
「……ダ、ダメじゃ……ない……」
二度目のキスが落ちてきたのは、そのゼロコンマ五秒後。
今度は唇に体温が乗る。
ただ触れるだけのキスが、なんでこんなに痛いんだろう。
心臓は高鳴りっぱなしで、全身の血液がどくどくと脈打つのがわかる。
ゆっくりと唇を離し、梶さんはふっと笑った。
「目が赤いから、うさぎさんみたいやね」
「……半分は、梶さんのせいです」
「せやんなあ」
そう笑って、彼は左手を差し出した。
劇場を出ると、外の風は思ったよりもひんやりしていた。
すっかりのぼせたわたしの頭が、夜風に強制的に冷まされる。
キスされた……よね?
あれは夢ではないよね?
映画館が見せた幸せな幻だったらどうしようかと思ったとき、自分の右手が、梶さんの左手としっかり繋がっているのを目視して、再び体温が上昇する。
初めてつなぐ梶さんの手は暖かくて、その熱に、身体が浮き足立つ。
ビルのガラスに映るイルミネーションが、風に揺れるたびかすかに滲む。
……終電まではあと一時間。
もっと話したいけれど、無理は言えない。
梶さんは今夜は、どこに泊まるんだろうか?
「あのっ」
「ん?」
「有楽町駅に向かって大丈夫ですか? 宿泊先の路線とか……」
梶さんは立ち止まり、ぽつりと呟いた。
「……離れたないなあ」
「え?」
わたしが聞き返すと、梶さんはしまったという顔をして、右手で口を覆う。
「いや、ごめん。こんなん言うたらあかんよな……忘れて」
じわじわと言葉の意味を噛みしめて、同じ気持ちでいることに泣きそうになる。
「……あのっ、でも、わたしも、まだ一緒にいたいです……。もっと梶さんとお話ししたいっていうか……」
梶さんは眉を下げたまま微笑み、「そしたらこの近くで居酒屋とか探す?」とスマホを操作し始めた。
「それとも、ファミレスみたいなとこのがええんかな。
花ちゃんはどっか行きたいとこある?」
居酒屋も、ファミレスも、二人で行きたい場所ではなかった。
もっとこじんまりしてて、落ち着く場所がいい。
ありったけの勇気を振り絞り、繋いでいない方の手を挙げた。
「あ、あのっ……うち、ここから近くて!」
「うちって……花ちゃんの家?」
「はいっ、あの……駅まで少し歩くけど、乗り換えなしで三十分くらいなので」
「三十分」
「あのっ、でも変な意味じゃなくて!」
「変な意味?」
「だ、だから誘ってるとかじゃなくてですねっ」
「誘ってるとかじゃないんや」
「ちゃんと客用のお布団もありますしっ」
「お布団まであるんやねえ」
「ふ……」
「ふ……?」
「復唱しないで……!」
耳まで赤くなっているのが自分でわかる。
精一杯おもてなしの気持ちを伝えたいだけなのに、梶さんに復唱されるたび、言葉が少しずつ空回りしてしていく。
恥ずかしさのあまり下を向くと、あはははっと梶さんが声をあげて笑った。
「ほんま、かわええなあ」
「か、からかわないで……」
「そんなら、お邪魔してもええかな?」
都営浅草線の車両に乗り込むと、終電間際の車内は驚くほど静かだった。
吊り広告の明かりだけがぼんやり灯っていて、車体がレールのつなぎ目を越えるたびに、かすかな振動が伝わる。
向かいの座席には誰もいない。
何を話したらいいのかもわからず、そっと、窓に映る梶さんの顔を見つめた。
梶さんは考えごとでもしているのか、視線がどこか遠い場所を見ている。
ECHOをつないで、何を考えてるのか聞き出したい衝動に駆られるけど、それを知ることも怖い。
自宅に帰るだけの普通のことが、人生で一番の大イベントみたいに感じられて、全然落ち着かなかった。
車窓に映る梶さんの横顔が、時折わたしの方へ揺れて見えた。
電車が揺れるたびに、心まで近づいてしまいそうで、わたしは息を詰めるように身を固くする。
震える右手は、梶さんが握って離さない。
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