大人の健全デート
その男性は、迷いのない足取りでこちらへ近づいてくる。
間違っている可能性もあるのに、わたしの目はその人だけに照準を合わせ、他の一切が映らなくなる。
このときばかりは、夕方の喧噪さえもどこか遠くなった。
赤レンガの壁の前でふと立ち止まると、その人はわたしに向かって軽く手を上げた。
初対面なのに、わたしが誰なのか、完全にわかっているみたいに。
そしてわたし自身、名を聞かなくてもそれが梶さんだとなぜか伝わる。
息をすることすら、少し怖い。
画面の向こうにいた声が、手を伸ばせば触れられる場所にいる。
風の冷たさも、周囲のざわめきも、いまは全部どうでもよかった。
梶さんがどんな人なのか、この一年、何度も想像した。
どんな声で笑うのか、どんな目をしているのか。
もちろん、いつも正解は見つからなくて、いっそ写真がほしいですってお願いしたいとも思った。
でもそんなことしたら、こちらの写真も差し出さないわけにいかないし、それをきっかけにこの関係が壊れてしまうのも嫌で、最後まで言い出すことはできなかった。
けれど、画面越しでは決して分からなかったものが、ここに、光と温度を伴って存在している。
……想像の中じゃなく、現実に、やっと会えたんだ。
緊張と感動が混じり合い、なんだか泣きそうだった。
でも、ここで泣いたらきっと引かれてしまう。
だから、息を整えるふりをして、目の前の彼を見た。
梶さんは想像よりも細身の男性だった。
黒のウールコートの下に、チャコールグレーのジャケットを羽織って、首もとから濃いネイビーのタートルが覗いている。
手には、薄手のレザーグローブ。
眼鏡をかけているイメージだったけど、それは外れていた。
整った清潔な顔立ちに薄い唇。
ラフなのに、ひとつひとつの仕草まで整って見える。
近づくたび、空気の温度が少し変わった気がした。
その瞬間、心臓がひとつだけ余計に打つ。
震えそうになる足に、必死で力を入れる。
その人は、わたしの前に立って柔らかく微笑んだ。
「……花ちゃん、やろ?」
「はっ……んんっ」
ぽかんと唇を開いていたせいか、口の中が乾いていて、いきなり噛んでしまった。
恥ずかしさを誤魔化しながら、「は、はじめましてっ」と頭を下げて挨拶をする。
「……はじめましてやねえ」
「はいっ。あの、佐々木花です……!」
こんなに緊張する自己紹介が、かつてあっただろうか?
だが、わたしとは対照的に、梶さんは嬉しそうに顔を緩ませている。
「ほんまもんの花ちゃんやあ。ようやく会えたなあ」
「はっ。ほ、ほんまもんの花です」
何を言っているのか、もはや自分でもよくわからないわたしを見て、梶さんはおかしそうに、あははっと声をあげて笑う。
「もっと小学生の女の子みたいな子をイメージしてたわ」
「しょっ、小、学生……ですか?」
「でも、ちゃんと大人の女性やんなあ」
小学生という言葉に思わぬダメージを食らい、下がった眉が戻らない。
それってつまり、完全に子供だと思われていたということだろうか。
「……なんで、そう思ったんですか?」
「ECHOの中の花ちゃんは、いつも元気で」
「元気で……」
「明るくて可愛らしいから、しゃあないやん?」
「明るくて、可愛らしい……」
褒められているのだろうけれど、元気で明るく可愛いなら、確かにそれは小学生かもしれない。そんなつもりは全くなかったとしても。
「しゃあない……かもしれませんね……」
「はははっ。そないにショックやった?」
「いえ……大丈夫です」
「大丈夫って顔になってないけどなぁ」
「……梶さん、初対面なのに、笑いすぎじゃないですか……?」
こちらが何を喋っても笑いが止まらない梶さんこそ、なんだかまるで子供のようだ。
ずっと理知的な大人のイメージを持っていたから、少し意外だった。
けれど、会話のテンポも、やさしい話し方も、たしかに──ああ、梶さんだ、と思う。
笑うたび、空気に灯りを灯し、その光がこちらにやわらかく届く。
うん。これは、間違いなく、梶さん。
「すまんすまん。こんなべっぴんさん捕まえて、小学生はあかんよなあ」
「べっ……んんっ、べっぴんさんではないですけど、ありがとうございます」
不意打ちの言葉に、お世辞だと分かっていても動揺して噛んでしまう。
「ははっ。花ちゃん、耳が赤くならはったねえ」
「なっ……らはってないです。そういう仕様です」
「ほんまかあ。うさぎさんみたいやなあ」
「うさぎさんが赤いのは目だから、うさぎさんとは違いますっ」
梶さんは、「そらそやなあ」と、さっきよりも大きな声で笑い出した。
その笑い声を聞いているうちに、少しずつ体温が上がって、恥ずかしいのに心地よい空気に満たされる。
昨日までずっと画面の向こうにいた人だったのに、いまこうして同じ空気を吸っていることが、文字通り、夢の中にいるみたいだった。
「はあ……おもろ。けど、想像より落ち着いた人で安心した」
「ECHOでは、わたしのこと、いつもテンパってるって言われてましたよね……」
「ははは。テンパってる花ちゃんも可愛かったけどな」
……ああもう、やめて。心の準備が追いつかない。
「あ、あのっ」
「ん?」
「今日、お仕事だったんですよね? もう大丈夫なんですか?」
必死に考えて、話題を少しずらそうと試みる。
「んー。本社で面倒くさい会議に呼び出されたんやけど、抜けてきた」
「えっ? それって大丈夫なんですか?」
「せやなあ。会議は終わったし、大丈夫やと思うけど」
なんだかちょっとふわふわした返答で、心配になる。
「……ずっと聞きたかったんですけど、いいですか?」
「ええよ。なんやろ?」
「梶さんは、社内SEなんですか?」
ECHOでいろんな話はしたけれど、仕事の話を深く聞いたことはない。
「社内SEではないよ」
「そうなんですか? アプリを作ってるから、そういうシステム関連の方なのかなって思ってました」
「簡単に言えば、彼らは会社のシステムを守る人で、俺は……作る側かな」
「作る側……だから、京都が拠点なんですか?」
「そういうわけでもないんやけど……花ちゃん、けっこう俺に興味あんねんな」
「きょっ……」
興味がないわけがない。でも、そうだとうなずく余裕もない。
梶さんは面白いものを見るような目で、わたしの反応を静かに観察している。
その目に見つめられると、ますます言葉が出てこない。
──この人、こんな目をするんだ。
けれど、ふと思った。
ECHOの中ではあんなに話してきたのに、わたしは彼のことをほとんど知らない。
声のトーンも、仕事の姿も、どんな一日を過ごしているのかも。
知りたいと思った瞬間、勇気のほうが先に動いた。
「梶さんに興味があったら、駄目ですか……?」
梶さんは、少しだけ視線を逸らした。
街灯の光が頬をかすめて、淡く影が動く。
「駄目やないけど……そんなふうに言われたら、答え方に迷うなあ」
その照れを包み隠すように、また笑った。
でも、わたしにはそれが少しだけやさしく見えた。
「あー……可愛い。なんでも聞いてええよ」
「かっ……」
もうやだ。この意味のない「可愛い」に条件反射する癖、やめたい。
「……けど、ここで立ち話もなんやし、どっか入ろうか。寒いやろ」
「……はい」
梶さんは柔らかく笑い、わたしの前をゆっくりと歩き出した。
……今のは、はぐらかされたんじゃないよね?
風が少し強くなり、街路樹の飾りが微かに鳴った。
隣を歩くのは、まだちょっと緊張する。
半歩うしろに下がり、背の高い後ろ姿をこっそり見つめながら、クリスマスの名残が残る並木道を二人で歩いた。
街の灯りがガラスに反射して、歩くたびに小さな光が揺れる。
その光の震えが、心の奥のECHOみたいに、静かに続いていた。
◇
通りを一本入っただけなのに、街の喧噪が嘘のように遠のいた。
「
引き戸を開けると、出汁の香りがふわりと立ち上がり、冷えた空気の中に、湯気のぬくもりが流れ込んだ。
店内はカウンターが十席ほど。あとは奥に個室があるらしい。
カウンター越しに女将が、「いらっしゃいませ」と穏やかに頭を下げた。
木の器や湯呑みの縁まで、どこか丸くて落ち着いた雰囲気だ。
隣り合って腰を下ろすと、一枚板のカウンターの木目に、照明が淡く反射している。
このお店予約してくれたのは、頼れる情報通の志穂さんだ。
向かい合って話すと、わたしの挙動がおかしくなるから、カウンター席の方が絶対にいいと強く推してくれた。その気持ちはすごくありがたい。
だけど、実際に隣り合って座ると、右側にいる梶さんの体温を間近に感じて、心臓がバクバクとおかしなビートを刻み始める。
「花ちゃん」
「ははははいっ」
ほら、いきなり噛んでるし!
梶さんは小さく吹き出して、「緊張しすぎやって」と笑いながら、テーブルの端に置かれた湯飲みを指さした。
「それ、持っとき。冷えてるやろ」
言われた通り両手で包むと、ほうじ茶の湯気がふわりと立ちのぼって、指先から少しずつ温度が伝わっていく。
お茶を一口飲むと、暖かい湯気でふっと気持ちが緩んだ。
思えば、はじめてサポートセンターに電話を掛けたあの夜も、この人は、こうしてわたしを落ち着かせてくれた。
温度や呼吸で、人を気遣う人。
会うのは今日初めてだけど、わたしはもうずっと前から、この温もりに助けられてきた。
……それなのに、斜め前方を盗み見ると、こちらを見ていた梶さんと目が合って、身体が硬くなってしまう。
さっきから、ほっとしたり、固まったり、感情の過活動に振り回され過ぎだ。
「適当に頼んでもええかな? 好き嫌いある?」
「えっと、何でも美味しく食べますよ。梶さんは、飲み物はなにが良いですか?」
「花ちゃんは、なにが好きなん?」
「わたしはワインが好きなんです。白もいいけど、赤が最近は好きで」
「……俺も飲むなら、赤のがええかな」
「そうなんですか?」
味覚が近いって、なんとなく嬉しすぎる。
「せやけど、今日は花ちゃんと飲まずに話したいから、やめとくわ。せっかく会えたのに、アルコールで醜態さらすとか、最悪やん?」
「あっ、そ、そうですよね……!」
その気遣いが嬉しかった。
わたしはお酒に弱くはないけど、たしかに飲み過ぎて醜態をさらしたくないし、今日はなんとなく、飲んだらすぐに酔っ払ってしまいそうな気もする。
「じゃあ、お茶で乾杯……って変ですかね」
「いや、酒よりええやん。……大人の健全デートっちゅうことで」
「でっ……」
デートという言葉が、湯気より早く心に広がっていく。
その熱で、身体の芯に近い場所が溶けていくのが分かった。
動揺が顔に出過ぎたせいか、わたしを見ながら、梶さんがぽつりと呟く。
「……花ちゃんは、まさかほんまに小学生やないよなあ?」
「ちっ、違います! ほんまに26歳です!」
「そっかあ。かわいらしいまま大人になったんやね」
そんなふうに笑うのは反則過ぎる……。
自制心を必死にかき集めて、「かっ……わいくはないけど、大人ですよ、ちゃんと」と言うのが精一杯だった。
会話が途切れた瞬間に、女将が静かに料理を並べていく。
出汁の香りに包まれながら、呼吸をひとつ、整えた。
……わかっている。
わたしも自分で、何でこんなに緊張したり挙動不審になるのか、いい加減、わけがわからない。
少なくとも今までの恋愛で、ここまで様子がおかしくなったことは一度もない。
だからたぶん、梶さんだけが、唯一の例外なんだと思う。
「……大人なら、今日、ちょっとくらい遅くなっても大丈夫やろか?」
「……へ?」
ぼんやりしていたところに投げられた想定外の言葉に、うまく反応できないまま、じっとその顔を見つめてしまった。
空気が、ほんの少し甘くなり、気まずくて逸らしたいのに、なぜかそうできない。
すると、彼も視線を外さずにこちらを見ていて、しばらく黙ったまま、ただ互いに見つめ合う。
「……な、なんで、こっちを見るんですか?」
「ん? 花ちゃんが俺を見つめるからやない?」
「…………っ」
ど、どうしてそんなことを平然と言えるの?
だ、だめだ! これ以上見つめ合ったら、わたしが溶けてしまう。
咄嗟にカウンターのメニューで顔を隠し、「やっぱり、な、何か飲みますか?」と声を絞り出す。
ちょっとは防御しないと、この時間をきっと乗り越えられない。
顔を隠した向こう側で、彼の笑い声がゆっくり滲んでいく。
自分の心拍の音が、内側で響いていた。
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