戦闘服と言っていい
今朝は、アラームが鳴る前に目が覚めた。しかも一時間も早く。
午前五時、外はまだ真っ暗で、太陽が昇る気配もない。
お湯を沸かしながら顔を洗い、鏡の中の自分を見つめる。……うん、クマもないし、吹き出物もできていない。
時間を掛けて白湯を飲みながら体を温めつつ、クローゼットの手前に用意した今日の服を眺める。
あれは、もはや戦闘服と言っていいのではないだろうか。
先週の日曜、志穂さんは午前中にこの部屋に来て、わたしの手持ちの洋服をすべて眺めてから、「圧倒的にモテ色が足りない!」と絶句した。
「なんなの、これ。合コンに着ていく服がないじゃない!」
「だって、合コンなんて行かないですもん……」
「じゃあ、どういう基準で、このモノトーンだらけの服を選んでいるわけ?」
「えっと……無難であること?」
これでも一応、オフィスカジュアルは意識して、自分ではかわいいと思って選んでいるのに、志穂さんからすると、すべてあり得ないらしい。
「あのね、花ちゃん。無難な服は安全だけど、印象には残らないの。
男の人って、最初の三秒で、この人どんな人だろうって無意識に決めてるから」
「三秒って短っ!」
どんな人か判断するなら、せめて三十分くらいかけてほしいと思うのは、わがままだろうか。
「それと、服選びは高見えよりも清潔そうが大事なの。
ブランドは記号。清潔感は信頼。恋も仕事も、信用される女が一番強いんだからね」
「はっ。勉強になります!」
「あとは、準備してくれたんだなって、相手に思わせるのもポイント。
バッグの中に、きちんとアイロンをかけたハンカチを入れてあったり、指先まで手入れされた爪とか。別に、アートネイルなんてしなくても、ヌードカラーの単色ネイルで十分だから。
それに、どんな照明でも肌がきれいに見える色の服を選ぶことも重要ね。
偶然っぽくて、実は計算。これが大人の可愛げ」
「はっ。わたしに足りないものが、たくさんある感じがします!」
「彼に、この子は今日、自分のために準備してくれたんだなって思わせたら、勝負は七割決まるから」
「……志穂さんの勝率、高そうですね?」
「当たり前じゃない。わたしを誰だと思ってるの?」
「え……っと……湯山志穂さん……ですよね?」
というやりとりを経て、午後からは志穂さんおすすめ、表参道にある「都内のOLなら誰でも知っている」というセレクトショップへ連れて行かれた。
残念ながら、もちろんわたしは知らなかった。
「花ちゃんは色が白いから、くすみ系を合わせても、肌が沈まなくていいわよね」と言いながら、あれこれと試着室に運んでくる。
仲のいい店員さんを巻き込み、最終的にバッグや靴、スマートウォッチの替えベルトまで、トータルコーディネートを提案してくれた。
もちろん、薦められるまま、すべてお買い上げである。
……正直、彼女は営業職に転属すべきではないだろうか?
そのまま、骨董通りにある志穂さんお気に入りの隠れ家カフェで、お茶をすることになった。
学生時代の友人と来るよりも、少し大人っぽい雰囲気のそのカフェは、木の扉を開けると、打ちっぱなしのコンクリートにドライフラワーが飾られていた。
元は古いアパートを改装したスペースで、昼はカフェだが、夜はワインバーに変わるらしい。
店内に漂うコーヒーの香りにほっとしながらも、足下に置いたショップバッグの量に、自分で驚いてしまう。
「たぶん、社会人になってから、今日が一番お金を使った気がします」
「あはっ。たしかに、今なら花ちゃん、壺まで買いそうな勢いだったよね」
「うう。今月はボーナスがあって良かったぁ」
「大丈夫。ちゃんと着回しできるアイテムを選んであるし、手持ちの服とのかぶりも一切ないから。おしゃれを楽しんで」
「が、がんばります!」
「あと、噂の彼も、ちゃんと落として報告ね!」
「お、おお、お……」
落とします、なんて言えない。冗談でも、そんな勇気はない。
「ちょっと、なんで急にオットセイみたいになるの?
ほんと、花ちゃんを見てると、姉の言葉を思い出すわ」
「……お姉さんの言葉ですか?」
「そう。うちの姉がね、前に言ってたの。
『いい? 志穂。合コンで一番怖いのは、エセ天然じゃないの。
メイク苦手なんです〜って言いながら、まつげパーマは完璧みたいな子は、結局イージーな男しか引っかけられない。
本当に怖いのはね、何も考えてない、いわゆるおもしれー女よ。
彼女たちは、男受けなんて何も意識してない。だけど気づけば、合コンの一番人気をさらっていくの』って」
「……む、難しくてよくわからないけど、素敵なお姉さんですね?
志穂さんを親身に思ってるのは伝わります」
あと、お姉さんも合コンが好きなんだということが、強く伝わってきました、と心の中で付け加える。
志穂さんは少し呆れた顔をして、笑い始めた。
「……うん、つまりね。わたしが男なら、きっと花ちゃんみたいな子と結婚したいだろうなって話」
「う、うわあっ。あ、ありがとうございます……!」
思ってもない賛辞に、本気で照れてしまった。誤魔化すように慌てて飲んだカフェラテで、軽く舌をやけどする。
「でも、わたしが男性なら、絶対に志穂さんみたいな、美人でやさしい奥さんがほしいですけどねっ」
そこだけは強く主張したい。だって本当のことだから。
志穂さんは目元を和らげて、「花ちゃんの恋がうまくいったら、いつかダブルデートしよっか」と笑ってくれた。
そんな楽しくもくすぐったい時間を経て決まった、わたしの戦闘服。もとい、デート服。
トップスは、カシミヤ混のタートルニット。色はアイボリー。小さなフェイクパールが襟元を飾り、角度によって光を集めている。
ボトムスは、くすみピンクのミモレ丈プリーツスカート。
座ったときも形がきれいで、控えめに華やかなのが、志穂さんの推しポイントだった。
今週は志穂さんの指示通りに、美容院に行き、ネイルサロンに行き、エステとメイクサロンにも行った。
知らなかった……。世の中の女性は、一度のデートのために、こんなに努力をしていたのね。
それほど人数はいないけれど、過去の元彼一人一人に、今まで手を抜いていてごめんね! と謝りたいくらいだ。
忠臣蔵でも、ここまでの気合いを入れなかったのではないだろうか?
……うん、赤穂浪士に怒られるよね。
緊張しながら、いつもより気合いを入れてメイクをして、めったに使ったことがないホットアイロンで髪をゆるく巻く。
数世代にわたって鼻は高くない家系だけれど、鏡の中には、自分なりにちゃんと努力をしたわたしが映っている。
カーテンを開けると、空の端がうっすらと白んでいた。
東京の冬は、寒いのにどこか澄んでいて、息を吸い込むたびに、肺の奥まで透き通っていく気がする。
遠くで始発の音がして、街がゆっくりと動き出す気配がした。
◇
12月28日は、仕事納め。
今日は午前で締めのため、昼過ぎのオフィスは、すでに多くの人が退勤していて、年末特有の慌ただしさに満ちていた。
わたしも早く帰りたいのに、チーフに最終チェックを任されてしまい、出るに出られない。
待ち合わせまではまだ余裕があるとはいえ、正直、心臓がおかしな挙動をしていて、何かミスをする前に引き上げたいのが本音だった。
年末調整の書類や備品の返却確認、ひとつずつ確認をして、「よし、完璧」というところで、端末の電源を落とす。
時計を見ると、時刻は約束の五時まで、あと三十分。
もう一度鏡を見直す余裕もないまま、エントランスへ駆け出した。
外に出ると、冷たい風が頬をかすめた。
イルミネーションの灯りが、街路樹の間でちらちらと瞬く。
そのひとつひとつが、心の奥の鼓動と同じ速さで揺れていた。
バッグの中でスマートフォンが震える。
ECHOには、たった一行のメッセージ。
― 花ちゃん、もう仕事、終わった?
俺は、そろそろ帰れそうやけど。
その文字を見た瞬間、心臓があり得ないほど大きく脈打った。
返事を打つ指が、少しだけ震える。
― 今、会社を出ました! 最寄り駅に向かってます。
遅れたら、ごめんなさい!
待ち合わせは、丸の内ブリックスクエア前。
山手線のホームは、帰省客と仕事納めの人たちでごった返していた。
東京駅で降りると、丸の内の風が頬を冷たく撫でる。
イルミネーションの並木の下、息が白く揺れた。
人並みを縫うように、急ぎ足で進む。
心臓の鼓動が耳の奥まで響いていて、緊張感がクライマックスを迎えていた。
そんなわたしを落ち着かせるように、赤レンガの壁と、並木に絡む灯りが、やさしい温度で瞬いている。
辺りを見回しても、梶さんらしい人は、たぶん、いない。
目印になるようなものを持つべきか悩んだけれど、梶さんはなぜか「会うたらわかるやろ」と言って、何も用意しなかった。
とりあえず人の少ない場所に立ち、風で跳ねた前髪を、必死に元に戻す。
駅でメイク直しをするつもりだったのに、すっかり忘れていた。
会社でも鏡を見ていないのに、わたしの顔は大丈夫なんだろうか?
せめてリップくらい塗り直せば良かったのに、大事なところで、ちょっと鈍臭くなるこの性格は、本当に治したい。手遅れだけど。
緊張で汗が滲む手で、スマホをぎゅっと握りしめる。
そのとき、通りの向こうから、まっすぐにこちらに向かって歩いてくる、一人の男性が見えた。
冬の風が、白い息をゆっくりと攫っていく。
その一歩ごとに、現実と夢の境界が、少しずつ溶けていくようだった。
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