桜色と、藍色のマグ
十月の週末の午後。
ひとりでふらりと立ち寄った雑貨屋の奥、食器が並ぶ棚の前で立ち止まる。
少し前に、梶さんにコンビニでよく買う商品を尋ねたときのこと。
その答えは、「んー……。コンビニやったら、白湯かな」という、まさかの意識高い系女子のようなチョイス。
― さすが梶さんですね! いつもわたしの想定を超えてきます!
― なんやねん、それ。どんな答えなら花ちゃんの想定内やったん?
― えーとですね。……エナジードリンクとか、ミントガムとか?
― エナドリはあかんわ。あれは借金みたいなもんやし。
― 借金、ですか?
― 飲んだ瞬間はええ感じになっても、それは明日の自分のリソースを前借りしてるだけで、結局つけが回ってくる。
ミントガムも、シャキッとするって錯覚を脳に与えるだけやろ。
なんと、明確にNGな理由があった!
― じゃあ、コーヒーは?
― うーん、あれは小口融資やな。借りても返せる範囲内。
― 小口融資……? じゃあ、白湯は?
― 白湯は、その逆。落ち着くけど、眠くならん。
借金せんでも集中できる、自分を確認するためのものやね。
正直、難しくてよくわからないけど、いつだって自分自身を正確に把握するその姿勢、心から推せます!
……と、本人にはとても伝えられないけれど、その日からわたしも、朝や夜にカフェインを控えて、白湯を飲むようになった。
だけど自宅にあるマグカップは保温効果が足りず、すぐに白湯が冷めてしまうため、適温を保てるマグカップを求めて、雑貨屋に足を運ぶことにした。
最初はステンレスのマグを手に取ってみた。
軽くて、機能的で、実用的。
……でも、なんだろう。手に取ってみると、あまりしっくりこない。
適当に棚を巡回していると、ふと視界の端で淡く光るものがあった。
保温性の高い陶器の商品が並んでいる棚の中の、桜色のマグカップが目に留まる。
やわらかく光を受けた釉薬が、春先の空気をそのまま閉じ込めたような淡い色をしている。
ピンクと呼ぶには儚くて、桃花と呼ぶには、少し凛としている。
思わず手に取って、指で縁をなぞる。
ひんやりしているのに、どこか心の奥がじんわりとあたたかくなる。
……ああ、これが梶さんに教えてもらった、落ち着く温度なのかもしれない。
すると、隣の棚には深い藍色のマグが並んでいるのが目に入った。
夜明け前の空みたいな青。
静かで、落ち着いていて、その中にわずかに光が差し込むような透明感がある。
見た瞬間にわかった。
これは、もう間違いなく絶対に、梶さんの色。
桜色と、藍色のマグ。
並べてみると、まるで朝と夜が寄り添っているみたいで、心の中で、きゃーっとはしゃぎながら、レジに向かった。
……梶さんがうちに来る未来なんて、全くないのに、いったいわたしは何をしているんだろうか。
でも、一番の問題は、こういう自分を、ちょっと好きになってしまったことだと思う。
夜、買ったばかりのマグで、ゆっくりと白湯を飲む。
うん。……なんかほっとする。
コーヒーや紅茶は今でも好きだけど、それとは全く違って、温度だけを楽しむこの時間が、とても心地よい。
……藍色のカップは、ユーザー不在のまま、キャビネットのいちばん目に届く場所に飾られている。
ぼんやりネットニュースを眺めていたら、京都が紅葉シーズンに入り、その賑わいを伝えていた。
──京都、行きたいなあ……。
梶さんに会ってみたい。
やり取りを始めた頃に比べたら、ずっと親密になれたと思う。
今は、昔みたいに誤字を気にせずメッセージを打てるし、何を書こうなんて悩まなくてもよくなった。
それは、もしかしたらECHOの「言葉が残らない」機能のおかげでもあるのかもしれない。
梶さんが言うとおり、わたしは安心して会話を楽しめているし、彼からの返信も、気負ったところのない自然なものだ。
だからきっと、わたしたちは仲の良いネット友達、くらいのポジションには、いると思う。
だけど返して言えば、それ以上の存在にはなれていない。
わたしは未だに彼の顔を知らないし、ECHO以外の連絡手段も持っていない。
毎日話すくらい仲が良い、それなのに、見知らぬ人。
ECHOの画面を開き、「梶さんに、会いに行ってもいいですか?」と打ち込んでみる。
しばらく眺めたけれど、もちろん送信ボタンは押せるわけもなく、すぐにデリートする。
消した文字の数だけ、水面が少しずつ沈んでいく。
まるで、わたしのため息を、そのまま吸い込んでいくみたいに。
もしかしたら、この瞬間も「人の心の揺らぎ」をAIが学んでいるのかもしれない。
梶さんは、今のところわたし以外にECHOを使っている人はいないし、その予定もないという。
そのときは、特別視されている感じがして嬉しかった。
でも、もしECHOの中で、わたしの心の揺れが全部、数字になって記録されているんだとしたら──わたしの片思いなんて、とっくに見抜かれているんだろうか。
……違う。梶さんは、ECHOが記録するのは言葉の内容を数値化したものだけで、プライバシーには最大限の配慮があると言っていた。
もちろん、技術的なことはわたしにはまったくわからないから、最悪、騙されている可能性もある。
だけどなんとなく、彼は嘘をついていない気がした。
それともこれこそが、恋は盲目という状態そのものなんだろうか。
不意に涙が込み上げて、持て余した気持ちの行く先を探すけれど、どうやっても見つかりそうもない。
白湯を一口飲んで、心のざわめきに蓋をした。
……桜色のマグカップは、まだその温度を保ったままだった。
師走に入り、仕事は相変わらず忙しい。
でも去年より業務に慣れたせいか、ミスも減ったし、心に余裕があった。
チーフからは、そろそろ次の昇進試験の準備をするように提案を受けている。
仕事は一歩、進んだ実感がある。
片思いの進捗は、ゼロのままだ。
……だけどそんなわたしの悩みを、梶さんから届いた一通のECHOが、すべて吹き飛ばした。
― 年末に仕事で東京に行くことになった。
もしよかったら、会えへん?
そろそろ、ほんまもんの花ちゃんに会いたいんやけど。
「ひぃっ」
思わず変な声が出て、手にしていたマグを落としそうになった。
世界が、音もなく転調する。
その瞬間、心の奥の水面にひとつ、大きな波紋が広がった。
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