Side Kaji:心の閾値

 夜の京都サポートセンター。

 ビルの最上階。ひとつのフロアだけが、まだ灯りを息づかせていた。

 ガラス越しに見える街はすでに眠り、川沿いの街灯が細い金線のように並んでいる。一月の夜空に星はない。


 空調はなく、サーバのファンだけが規則正しく唸っている。

 深夜のオフィスは、まるで電子の海の底。

 人の気配はないのに、どこかで微かに脈がある。


 モニターには青白いコードの羅列。

 椅子にもたれ、まだ湯気の立つ白湯を一口飲む。


 デスク脇の端末が小さく震えた。モニターの隅に、灰色のアイコンが点滅する。


"Hotline: Kaido"(海堂のホットライン)


 掛けてきたのは、海堂仁。

 アペックスホールディングスの常務取締役──京都への異動を命じた人物であり、実質的なボスでもある。


 通話ボタンを押すと、短い接続音が一瞬だけ響いた。


「──例の解析テスト、進捗は?」

「海堂はんは、相変わらず無粋やなあ。久しぶりやのに、開口一番それですか」

「うるさいわ。こっちは専務と丸一日やり合って、もう心がカッサカサやねん。ちっとは労わってくれ」

「はいはい、よう頑張ってはりますねえ。……進捗は四割ほどですかね。人の反応閾はんのういきを捉えるんは、思うより骨が折れるさかいに」

「反応閾?」

「心の閾値しきいちっていうたらええんかな。心が勝手に揺れる、一番最初の境目のことです」

「そんなものを捉えられるのか?」

「どうやろねえ。せやけど、数値にできひんもんは、実装しようがないですし、やってみるしかないんです」


 その瞬間、モニターの隅で赤い点が跳ねた。

 眉を上げ、キーボードを軽く叩く。


「あー……ちょお待って。ネズミがかかったわ」

「またか……」

「ええ。今回はセンターの内部からです。ルーター踏み抜いてきてますわ」


 指先が滑るたび、画面に青い波紋が広がる。


「……ほら、食いついた。アクセス遮断、ログ確保完了。五分持たずに、セキュリティの手ぇが回ります」

「内部の動きか?」

「外部経由やと思います。けど、社内の誰かが鍵を貸してる可能性は高いですね」

「そうか。……仕事を増やして悪いが、探れそうか?」

「構いませんけど、キリないなあ。好奇心旺盛な人間があとを絶たんわ」

「AIより人間の方が始末に悪いからな。抑制を学ばない」


 小さく笑い、デスクの上のマグカップを手に取った。

 外の川面に、遠くのビルの光が揺れて、ぼんやりとした灯りが見えた。


「理想を学ばないAIと、抑制を学ばない人間。どっちが危ういんですかね」

「どっちも俺たちの手の中にあるうちは、安全だろ?」


 本当にそうだろうか。

 そうは思うものの、言葉にはしなかった。


「そうやねえ。海堂さんも、身辺には十分気ぃつけてくださいよ。物騒な世の中やし」

「ああ、わかってる。お前こそ、異変があればすぐに報告しろよ」

「はいはい。ほな、仕事に戻るんで、これで失礼しますねえ」


 疲れ気味の海堂との通話を切り上げて、白湯を一口すすり、画面を見つめながら小さく呟く。


「倫理が『人間としての正しさ』やとしたら……その正しさを定義するんは、誰なんやろね」


 そんな乾いた言葉を飛び越えてくる人間がいるとは、このときは思っていなかった。



 佐々木花とDMを交わすようになって数週間。

 最初は、それが感情の反応だとは気づかなかった。

 雨水が石に沁み込むような、ささやかで静かな異変。

 そうと気づくのに遅れたのは、バグでも異常でもなく、あまりに自然な反応だったからかもしれない。


 朝、出勤途中。

 駅へ続く坂道の途中にある小さな神社の境内で、薄紅色の梅の木を見かけた。

 枝先にわずかに残った雪が光を受けて、まるで花びらそのものが透けているように見えた。

 吐く息の白さと、梅の淡い色が混じりあって、一瞬だけ季節の境目をすり抜けたような気がした。


「……きれいやな」


 その言葉が、自分の口から零れたことに、少し驚いた。

 それなのに、気がついたらスマホのカメラを向けていた。

 しかも撮り始めると、つい構図にこだわりたくなり、完全に不審者の様相だ。


 ……なにしてんやろ。はよ会社行こ。


 我に返り、気まずく思いながらその場を立ち去った。

 

 結局その写真は、夜の作業に入る前、迷いながら花に送ることにした。

 そのお返しだろうか。

 彼女は後日、東京タワーが写る夜の街を送ってくれた。


 ……ほんまに真面目な子やなぁ。


 そのときは、そう思っていた。

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