No sound. Only resonance.
三月に入った。
ガラス製の丸い花瓶を、壁際の木製コンソールの上に置く。
啓翁桜の枝をいけると、花びらがふわりと揺れた。
仕事帰りに駅の近くの花屋で見かけて思わず買ってしまったのは、今日が、わたしの誕生日だから。
啓翁桜は、わたしの地元、山形生まれの花だ。
まだ雪が残る頃から春を告げるという。
外の風は冷たいままなのに、枝の先だけが少し早く春を知っている。
その薄紅を見つめていると、心にぼんやり灯りが灯る。
窓の外、薄い雲が流れる夜空を見上げながら梶さんのことを、思う。
京都にも、春の気配はきているんだろうか。
野菜を茹でただけのサラダに、冷凍ご飯を使ったパルメザンのリゾット。誕生日とは思えない簡素なメニューだけど、この飾り気のなさが、わたしらしい。
少量の白ワインを飲みながら、今朝届いた家族や友人からのメッセージに、ひとつずつ返信をする。
どの言葉にも「元気そうでよかった」と添えられていて、自然とやさしい気持ちになれた。
梶さんに何かメッセージを送りたいけど、自ら誕生日アピールは絶対したくない。そもそも、あまりしつこくメールして嫌われたくないし……。
そんなことを悩んでいると、スマホに一件の通知が届いた。
― 梶雪斗さんが共有リンクを送信しました。
まるで思いが通じたみたいなタイミングに、一気に体温が上昇する。
……だけどなんで共有リンクが? と思いながらタップしようとした瞬間、梶さんからDMが届く。
― 今送ったんは、自作のメッセージアプリ。
映画部のDMでやり取り続けるのも微妙やから、よかったらこっちに移動してくれへん?
……自作のアプリ?
え? アプリって自作できるの?
もしかして梶さんって、サポートセンターの職員じゃなくて、SE採用とか?
頭にいくつもの疑問符を浮かべながら、「ありがとうございます。確認しますね」と短く返す。
リンクをタップすると、テスト配布用のプレビュー(TestFlight)が開いた。企業アカウント経由の配布ということは、少なくとも、危険なアプリではなさそうだ。
アイコンの背景は、雪のように淡く揺らめく白。
その中央に、うっすらと青く光る卵のような形がひとつ浮かんでいる。
境界が曖昧で、透き通るように淡い。
まるで、まだ名前を持たない心の原石みたいだ。
タイトルは ECHO。
その下に、小さく英語で書かれている。
No sound. Only resonance.
(音はない。ただ共鳴があるだけ)
説明文も、レビューも、評価もない。
まるで、世界で自分だけに見えているページみたいだった。
「これ、落として安全なやつなのかな……?」
小心者の私は、基本的に疑り深いところがある。
冷静に考えれば、彼のことをまだほとんど知らない。
なんの説明もないまま送られてきたアプリを落とすのは、危険な行為かもしれない。
……それでも、梶さんの言葉の奥には、いつも静かな温度があった。
あの人がわたしを騙すなんて、どうにも思えない。
「うん、落としてみよう」
梶さんになら騙されてもいいと思ってしまうのは、きっと危険な兆候。
だけど、彼の作った世界の中を、この目で見てみたかった。
わずかに震える指先で、「入手」を押した。
画面の奥に淡い銀色の光が走り、雪の粒のようなエフェクトが一度だけふわりと舞う。
「す、すごい……! ダウンロードでこんな仕掛け見たことない……」
アプリのダウンロードというより、魔法のような呼吸。
通知音も、起動音もない。
画面の縁が静かに青く滲み、ひとすじの波紋が広がった。
期待に胸を弾ませて、ECHOを開く。
わずかに青を帯びたクリアブルーの背景。
中央には、雪の結晶のような紋がひとつ浮かんでいる。
指先でそっと触れると、静かな波紋が広がり、透明な空気が、ディスプレイ全体にふわりと満ちた。
― 試作中やけど、よかったら使ってみて。
何の音もなく、梶さんから届いたその一文。
じっと見ていると、文字がさらさらと崩れ、薄青色の粉雪に変わって消えていく。
「ええっ。メッセージが消えた!?」
あとに残るのは、静かな波紋だけ。
その下に、小さな文字がふわりと浮かび上がった。
《既読後、メッセージは雪になり、波紋だけが残ります》
一瞬の説明文が浮かんで消えたけど、意味は伝わった。
「音はない。ただ共鳴があるだけ……」
最初に見た言葉が、ようやく腑に落ちる。
試しに自分でも何か返事を送ろうと、入力欄を探した。
キーボードのマークを押すと、数秒の沈黙のあと、ディスプレイに文字が現れる。
― Hel1o…?[auto]
― Hello…Hana?
「……え? 何か届いてる?」
入力のテンポが不揃いで、時折スペルも崩れる。
まるで考えながら話しているみたいで、どこか人間っぽさがあった。
― こんばんわ。
―(あ、間違えた)
― こんばんは。
「なにこれ。かわいい……」
思わず口に出す。
透明な画面の中に、小さな息づかいがあるような気がした。その文字は白い羽になって消えていく。
「梶さんじゃなくて、今のはアプリからのメッセージ……?」
一体どういうアプリなのか、まるでわからない。
― すごく可愛いアプリ、ありがとうございます。梶さんは、アプリを作れるんですね? すごすぎます!
こちらの文字は、桜のような薄紅色の花びらに変わって空間に溶ける。
もちろん入力音も何もなく、最後に残るのは波紋だけ。
「やっぱり私の文字も消えるんだ。んん? ……これってログが残らないってことなのかな……?」
その瞬間、梶さんのメッセージが画面に浮かび上がる。
― ごめん。なんかおかしなバグがあったやろ? 文字列生成がまだ安定してへんねん。
― でもすごく可愛くて、子供が話してるみたいでしたよ。
― な? 俺にもよおわからんけど、開発の過程でバグったらしい。
― 梶さんが一人で作られたんですか?
― せやよ。花ちゃんの誕生日プレゼントにちょうどええかなって、思いつきで作ったんやけど、どうかな?
「誕生日プレゼント……!」
思いがけない言葉に、呼吸が止まる。
誰かが、自分のために時間を使ってくれたこと。
しかも、それが梶さんだということ。
その事実だけで、今日が特別な一日に変わってしまった。
「ありがとうございます」と打とうとした瞬間、先ほどまでの梶さんからのメッセージはすべて、淡い雪になって消えた。
嬉しさの余韻だけを残して、画面の向こうに帰っていくみたいに。
「……今の、ずっと見ていたかったのに」
きっと梶さんは、今までのやりとりを私が何度も読み返しては、にやけているなんて、想像もできないに違いない。
― プレゼント、すごく嬉しいです。ありがとうございます!
― ひな祭りが誕生日やってこの前、言うてはったから。
名前の由来は花あられやんなあ。ひなあられやなくて。
梶さんに少し前に話した、あのエピソードを思い出す。
母が「ひなあられ」にちなんで「ひな」と名づけようとしたのに、父が「花あられ」と聞き間違えて、そのまま花という名になったという話。
でも梶さんは言ってくれたのだ。
「ひなより花のほうが華やかでかわいらしい」って。
……やさしさのレベルが高すぎる!
― そうです! 本当にありがとうございます!
誕生日プレゼントをもらえるなんて思っていなくて……。どうお礼を伝えていいのかわからないけど、すごく感動しました!
― 誕生日に間に合うか微妙やったけど、間に合うてよかったわ。おめでとう。
その一文が、ゆっくりと青い雪になって消えていくのを、完全に消える前に、思わずスクショした。
消えない形にしてしまったことを、少しだけ後ろめたく思いながら。
― 梶さんのお誕生日はいつなんですか?
アプリは作れないけど、お返しがしたいです。
― 俺の誕生日はクリスマスイブやねんけど、なんも気にせんでええよ。
クリスマスイブが誕生日……。
映画を同時視聴した、十二月を思い出す。
たまたまだけど、あの日のわたしは、誕生日の梶さんと同じ時間を共有していたんだ。
嬉しいような、寂しいような。もし知っていたらおめでとうと言えたのに、もったいないような。
そんな気持ちが心の中で混ざり合う。
──じゃあ、今度の誕生日に……そう打ちかけて、指を止める。
未来の約束を気軽にできる立場でもないし、そんな先のことは、まだ考えたくない。
……でも、誕生日を気にかけてくれて、こんなすごいアプリまで作ってくれるなら、きっと嫌われてはないはず。
そう思っていいだろうか?
少し勇気を出して、強めの気持ちをECHOに託す。
― アプリ、ありがとうございます。
わたしも梶さんが喜ぶお返しを何かしたいから、待っていてくださいね。
その言葉は、ほどなくして花びらに変わる。
ほろほろと崩れて、光の粒子になり、残るのは、静かな波紋だけ。
音はない。
だけど、波紋の奥で、たしかに気持ちが届いているような気がした。
それは、26歳になったわたしに起きた、いちばん最初の奇跡だった。
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