幸福は盲点になりやすい

 二月。バレンタインデーの夜。

 外では、冷たい風がベランダの手すりを撫でる音がする。

 エアコンの低い唸りだけが、静かな部屋の空気をゆっくりと揺らしていた。


 テーブルの上には、少しだけブランデーを落としたココアと、ラッピングされたままの小さなチョコレートの箱。

 渡せるはずもなければ、バレンタインの話題を梶さんに振る勇気さえない。

 にもかかわらず、会社帰りに立ち寄ったデパ地下で、バレンタインフェアを見かけたら、思わず買ってしまった。


「……重症かも」


 街の雑踏をよそに、この部屋だけが少しだけ時間から取り残されている気がした。

 でもせめて、今日は梶さんに日頃の感謝の気持ちを伝えよう。それなら不自然じゃないはず。


 ノートパソコンから映画部のチャットを立ち上げる。

 何を書こうか迷っているうちに夜が更け、時計の針はすでに二十三時を回っていた。……ココアはすっかり冷めている。


― 梶さん、こんばんは。東京は今夜は極寒です。


 そんな文章から始めて、先日仕事でミスをしたこと。新人でもやらない失敗にひどく落ち込んだこと。でもサポートセンターのおかげで二次被害を防げたことにお礼をする。


― その夜、梶さんから受け取った梅の花の写真には、とても励まされました。


 今もスマホの待ち受けに……と書きかけて、慌てて取り消す。

 うん。これはダメだ。ストーカーだと思われたくない。


― 今日、残業したあとに、会社から見えた東京タワーの写真です。

 冬の梅の枝みたいな風情はないけれど、良かったらお納めください。


「……お納めくださいって、仕事か」


 自分にツッコミながらも、他に言葉も思い浮かばず、写真を添付する。

 オフィスの窓の向こう、夜霧の中で東京タワーがぼんやり滲んでいる。

 それだけの一枚。なのに、返信がすぐに既読がついた。


― へえ。きれいやねえ。東京タワーなんて久々に見たわ。おおきに。


 だけでなく、返信まで来てしまい、途端に心臓が大騒ぎを始める。


― お疲れさまです! 梶さんはもうご自宅ですか?


 待って。これ、日常を探ってるって思われない? ストーキングに入る? 

 送ってから慌てたが、杞憂だったらしく、返信が続いた。


― うん。自宅やよ。こっちはちょっと雪が舞ってる。

― 寒そう! 風邪引かないように気をつけてくださいね。

― 花ちゃんはやさしい子やねえ。


 褒められた!

 バレンタインにまさかのチャットができた上に、お褒めの言葉まで奉られた!


― やさしいのは、梶さんですよ。

 この前の、幸福は盲点になりやすいって言葉も、すごく励まされました。

 もちろん、それでも落ち込んでるときは、ほんとに色んなものを見落としちゃうんですけど。


― せやな。人間の脳はもともと生き延びるためにできてるから、危険とか不安のほうを優先して拾うのが普通なんよね。


 梶さんは、本当に物知りな人だと思う。返事の大半が、想定外のメッセージだ。でもそれが、すごく新鮮で面白かったりする。


― じゃあ、落ち込みやすいのは、仕方ないってことですか?

― うん。せやけど、おもろいことに、脳には幸せを見つける力もちゃんと備わってるよ。

― 幸せを見つける力?

― 報酬系って言うんやけど、脳の中には嬉しい、楽しいって感じたときにドーパミンを出す回路がある。

 その回路が動くと、人は、次もう一回やってみようって思うようになる。

 つまり、幸せを探す訓練をすれば、脳はちゃんとそれを見つけやすくなるってことやね。


 報酬系……聞きなれない言葉に、この人はもしかしたら、脳科学者かもしれないと疑いたくなってしまう。


― 脳って、そんな単純なんですか?

― 単純やけど、ようできとるよ。

 たとえばな、今日から一週間以内に黄色い蝶を見つけたら、花ちゃんは一生幸せになれる。

 そう言われたら、真面目に探すやろ?


『花ちゃんは一生幸せになれる』と言う字面の強さに、今すでに幸せになっています!

 と、書き込んだらダメだろうか?

 ……うん。やめておこう。それでは変な人だ。


― たしかに、絶対探したくなりますね!

― せやろ。面白いのは、自分が探すと決めた瞬間から、目に勝手に黄色いものばっかり飛び込んでくるようになること。

 それが報酬系の力やね。せやから、欲しいもんがあるときは、脳の報酬系を味方につけるんがええと思う。


― そもそも、脳を味方につけるっていう感覚が、発想の外にあるからちょっと難しいですね……どうやるんだろう?


 わたしが素直に疑問を伝えると、梶さんはなんでもないことのように言った。


― なんで? やってみたらええやん。

― 何をですか?

― 明日から一週間以内に、黄色い蝶を探してみて。そんで見つかったら報告くれへん?


 あまりの無茶振りに、慌てて返事をする。


― ええっ? 今、真冬ですよ? しかも都内ですよ? 本気ですか?

― ははは。そのくらいハードルがあるほうが、花ちゃんの脳もきっと張り切りはるんとちゃう?

 ええ報告が届くん楽しみにしてるわ。


 わたしの脳は、そんな『張り切りはる』タイプの子じゃないです!

 もっと奥ゆかしいんですぅ!!


 と、書きたい気持ちをぐっと堪えて、わたしの『幸せの黄色い蝶探し』が始まる。

 ……こんなに寒いのに、その夜の東京の空は、少しだけ春の気配を漂わせていた。



 次の日から、外を歩くたびに、ついキョロキョロしてしまう。通勤電車が地下を走っているせいで、窓の外を見ることができない。だから地上に出ると、代わりに、何かを探すみたいに視線が泳いでしまった。


 梶さんが言っていた通り、視界の端に黄色がよぎるだけで、いちいち反応してしまうのが不思議だった。

 信号の黄色、コンビニののぼり、誰かのマフラー、看板のロゴマーク。

 いままで何も思わなかった色が、急に意味を持って輝き出したみたいだ。


 横断歩道の手前、足元の黄色い点字ブロックで立ち止まる。

 気にもしていなかっただけで、黄色は、思った以上に街に溢れていた。

 だけど、蝶なんてどこにもいない。いるわけがない。ここはかつてコンクリートジャングルと呼ばれた東京なのだ。

 そもそも、実家のある山形でさえ、真冬に蝶を見つけるなんて不可能だと思う。


「え、待って。これ、もし見つからなかったら一生幸せになれないとか、そういうパラドックスじゃないよね……?」


 誰もいない早朝の通り、マスクの中、小声で呟いた。


 結局、蝶以外のたくさんの黄色を見つけただけで、六日間はあっという間に過ぎてしまった。

 あまりにも見つからないので、今週は一度も梶さんに話しかけることができなかったし、向こうからも特に音沙汰がない。

 もしかしてあれは、遠回しな拒絶のサインという高度な駆け引きだったんじゃないだろうか。


「だって、二月だよ……。せめてもっと冬っぽいものにしてもらうべきだったな」


 でも冬っぽいものってなんだろう。

 たぶん、わたしはネゴシエーターには向いていない。知ってたけど。


 翌朝、約束の期限は今日までだ。

 マンションの敷地の隅、冷たい風が吹き抜けるのを身震いして受け止めながら、ゴミ出しをする。

 吐く息の白さに心まで凍えそうになりながら、今日の夜、梶さんになんて報告しようか考えて肩を落とす。


「幸せの黄色の蝶かあ……」


 真冬の風が、言葉の余熱を容赦なく攫っていく。

 頭の中をその単語で埋め尽くしながら歩き出そうとしたとき、手前の段差で足がもつれて、体が前に傾いた。


「ひゃあっ」


 慌てて目の前の花壇の縁に手をつくと、冷たいコンクリートの感触が、掌にじかに伝わる。

 その瞬間、視界の片隅にはっきりと黄色の蝶が飛び込んできた。


「ええっ!?」


 反射的に花壇に身を乗り出すと、朝日を受けた花壇の一角。

 霜の中に埋もれるようにして、色とりどりのビオラがいくつも植えられていた。

 少しだけ震えて、でも確かにそこにある小さな光に、息を止めて手を伸ばす。


 黄色と紫の、風に揺れた花びらが、ほんの一瞬、蝶の羽みたいに見える。


「……見つけた……」


 声に出すと、胸がほんのり温かくなる。

 幸せって、たぶんこういうことなんだろう。


 見えないと思い込んでいたものが、ほんとはすぐそばで、ずっと咲いていた。


 かじかむ指で、ポケットからスマホを取り出し、連写する。

 その中の一番きれいな写真を選び、梶さんに送信した。


「梶さん見て! 蝶がいた! わたしの蝶、これだった!」


 既読にはならない。

 だけど、たまらない多幸感に包まれて、これがもしかしたら梶さんがいう、ドーパミンというものなのかもしれないと思った。


 ……待って、梶さん。

 せっかくの幸福をドーパミンっていうの、感動が薄れない?



 夜の街は、昼間の賑わいを脱ぎ捨てたあとみたいに静まり返っていた。

 道沿いの小さな商店のシャッターが並び、灯りの残るのは、惣菜屋とコンビニくらい。

 外に出してある植木鉢の土が固く凍っている。


 白い息を吐きながら歩く。

 イヤホンの中では、さっきまで聴いていたプレイリストの終わりかけのピアノが、遠くで消えていくように流れていた。


 コートのポケットの中、スマホがかすかに震え、反射的に取り出す。

 画面に浮かんだ名前を見た瞬間、息が少しだけ止まる。


― ほんまやん。これは確かに花ちゃんの蝶やね。


 良かった……!

 梶さんが、こういうのを受け入れてくれる人で!

 もしも大真面目に『花さん、大丈夫ですか? これは蝶ではなく花ですよ?』って言われたら、しょんぼりするところだった!


― はい! マンションの花壇にあったのに、一週間ずっと気がつかなくて。

 完全に盲点でした。報告が遅くてごめんなさい。


 立ち止まり、手袋を外して一生懸命文字を打つ。

 指先は冷たいけれど、心は浮き足立っていた。


― 真面目に探しはったんやねえ。ありがとう。


 きゅうううん、と胸が疼く。

『ありがとう』という言葉の中に、梶さんのやさしい素の性格が全部出ているように感じて、頬が熱くなった。


― 本物の蝶は見つからなかったけど、一週間すごく楽しかったです。

 こちらこそ、ありがとうございました。


 そのあとも梶さんからメッセージが届き、その度にわたしは、立ち止まって返事を返す。

 自宅に着くまで、いつもの三倍かかってしまった。

 でも、ドーパミンがずっと溢れっぱなしの脳内には、冬の寒さも、冷たい風も、まるで気にならなかった。


 冷えた体は、お風呂でしっかり温めた。

 髪を乾かしてから照明を落とし、アロマソイキャンドルに火を灯す。

 サブスクからチル系のプレイリストを選び、ベッドに横になって目を軽く閉じた。

 流れてくる音楽が、部屋の中を透き通る空気で満たす。


"Butterflies in my stomach."


 名前も知らないアーティストが、恋に落ちた瞬間を歌っている。

 黄色い蝶によく似たビオラのことを思い出して、瞳を開いた。


 目に映る全てが、今までとは完全に違って見える。


 ああ。本当にそう。──胸の中の蝶が、蜜を必死に求めて騒ぎ出す。

 ふわふわして、そわそわして、全然落ち着かない。


 ……どうしよう。

 わたし、梶さんのこと、好きみたい。


 会ったこともないのに。

 会ったことはなくても。


 もう誤魔化すのは無理だと思った。

 これはたぶん、恋の病。


 しかも──かなり重いやつ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る