今日一番最低だと思った

 この頃、無意識に何度もスマートフォンを眺めている。

 昨日届いたDM。二日前に話したモノクロ映画の話。三日前に教えてもらった梶さんの年齢は、わたしよりもふたつ年上だった。


 独身で、一人暮らしをしていると聞き、「わたしもです」と返すと、「お互い、クリスマスに映画部に入り浸るはずやね」と笑われた。


 そんなやりとりを、部屋でも、電車でも、ときどきは会社の休み時間でも読み返す。


 梶さんは、すぐに返事をくれるときもあれば、しばらく沈黙したままのときもある。

 でも、不思議とそんな日のあとには、いつもより長く話してくれた。


― え! 梶さんって28歳なんですか?

 じゃあ、わたしの二年先輩ですね。

― でも俺、院卒やから、入社は花さんと同じかもしれへんよ。

― わたし、今年入社四年目です。

― そしたら同じやなあ。うちら同期やん。


 同期……!

 あの、オフィスでラブが生まれやすいという、まさかの同期!

(※同僚の合コン大好き湯山さん調べによる)


― 同期なら、花ちゃんって呼んでもええ?


 は、は、『花ちゃん』呼び、いただきました……!


― もちろん、大丈夫ですよ。


 変なテンションになるのを必死に抑えて、短く返事をした夜は、いつもよりずっと眠れなかった。


 他人から見たら、きっと些細なやり取りなのかもしれない。

 それは、きっと梶さんにとっても、そうなんだと思う。

 でも、それで構わなかった。

 大事なのは、わたしにとってこの時間が、かけがえのないものになっているという事実だけだ。


 西の空を見上げて、このずっと先に彼がいる──その当たり前のことにすら、幸せを感じる。

 恋によく似た淡い感情を、誰にも言わず密かに楽しむのが、今の精一杯だった。



 午前の会議を終え、総務部の自席に戻る。

 社内チャットに並ぶ報告と承認の山。締切間近の資料が詰まったファイル。

 浮かれていても、仕事の量は変わらない。


 資料は前日にまとめ、朝に最終確認を済ませた。

 チェックリストもOK。誤字もなし。

 誤字確認をするのはいつものことなのに、そのほんの一瞬、梶さんが頭をよぎった。

 最初の誤送信のトラウマで、つい何度も読み返す癖がついたのだ。

 ……見栄っ張りな努力型とは、わたしのための言葉かもしれない。


 送信先リストの確認も、いつも通りに──……そのつもりだった。


 "to:Apex_Link内部報告会_共通"

 "cc:芦田、SmartTracePJ全メンバー"


 そう打ち込み、添付ファイルを選ぶ。指先は迷いなく動き、エンターキーを押した。

 送信後、何気なく宛先欄を見返し、血の気が引く。

 宛先の一番最後に、そこに入力した覚えのない、外部ベンダーの共有アドレスが加わっていた。


「うそっ」


 声にならない悲鳴が喉の奥から飛び出し、口元を押さえる。

 資料には、アペックス内部の評価指標と、社員の実名データの一部が含まれている。

 当然ながら、外部送信禁止の情報であり、即インシデント扱いだ。


 理解した瞬間、体温が一気に落ちた。指が震え、冷や汗が背中を伝う。

 数十秒後、チャットに警告アラートが飛んだ。


「外部宛てに機密情報が送信されました。確認をお願いします」


 モニターの中で赤い文字が点滅する。

 周囲のざわめきが遠ざかり、自分だけが音のない水槽に取り残されたようだった。


「ど、どうしよう……」


 いつもなら、二度チェックしていた。

 だけどあの一瞬、梶さんのことを考えていた、そのとき、意識が完全に逸れていた自覚がある。


 何をどう取り繕っても、送った事実は消えない。

 気持ちを切り替え、手順に従って報告フォームを記入する。


「情報漏洩の可能性:軽度(要確認)」

「送信先:外部ベンダー」


 手の震えで、文字がうまく打てない。

 どれだけ冷静に装っても、内側では、わたしが崩れていく音がしていた。


 チーフに報告を上げ、すぐに課長に呼び出される。状況報告の間中、嫌な汗をかきながら、必死に頭を下げた。

 報告書の記入を求められ、デスクに戻ると、社内チャットに通知が届く。

 それはサポートセンターからの報告で、心臓が嫌な音を立てた。


【外部誤送信対応完了】

「該当メールは受信側で削除済み。ログも消去済み。二次被害はありません」


 安堵の息をつきながら、送信相手の名前を確認すると、それは、梶さんではなかった。


 ……そのことにほっとしてしまった自分を、今日一番最低だと思った。



 重い体を引きずるようにして、自宅に帰った。

 暖房を入れ、そのままソファになだれ込む。

 ライトをつける元気もなく、部屋の中は暗いままだ。


 被害が最小限で済んだから良かったものの、下手をすれば、もっと大きな事故になっていたかもしれない。

 そう考えるだけで、背筋がぞくりとし、指先が冷える。


 スマホの短い通知音が鳴った。

 金属音のようなその音は、映画部のDM。……きっと、梶さんだ。


 いつもなら真っ先に飛びつくのに、情けなさと自己嫌悪がごちゃ混ぜになり、とてもそんな気にはなれなかった。

 ところが、催促するように、立て続けに通知が鳴る。


 ……何かあったんだろうか。


 スマホを取り出すと、そこに言葉はなく、ただ何枚もの写真が並んでいた。


 薄紅色の梅の花に、うっすらと雪が積もった風景。

 雪は溶けかけていて、白と紅の境目が、光の呼吸みたいに揺れている。

 背景は、ぼやけた灰色の空。


 派手さのない、通勤途中で撮ったような写真。

 けれど、確かにそこには、人の温度があった。


 誰かの視線が、そっと光を見つけようとしている。

 それが、彼の目を通して見た世界なのだと思った瞬間、心がじんわりと熱くなる。


「……きれい……」


 涙が出る理由は、よくわからない。

 なぜ梶さんは、わたしが弱っているたびに、こんな温もりを差し出してくれるのだろう。


 ひとしきり泣いて、呼吸を整え、暗闇の中で何度も打ち間違えそうになりながら、お礼を打ち込む。


― 落ち込んでいたので、元気をもらえました。

 ありがとうございます。


 既読はつかない。

 けれど、忙しい中で、写真だけを送ってくれたのだと思うと、胸がまた温かくなった。


 朝、目が覚めると、真っ先にスマホを確認した。

 思ったとおり、梶さんから返信が届いている。


 すぐに開くのがもったいない気がして、先に身支度を整える。

 カフェオレを淹れ、冷凍してあったベーグルを焼く。

 深く息を吐いてから、スマホの画面を開いた。


― 何があったかは聞かんけど、落ち込んだときは、足元だけやのうて、周り全部、見回したほうがええよ。

 人って、自分が不幸やと思ってるときほど、すぐそばの幸せを見落とすんやって。先輩の受け売りやけど。

 幸福は盲点になりやすいだけやから。


 画面を閉じても、その言葉だけが、何度も頭の中で繰り返された。


 カフェオレを一口飲む。

 口の中に、ほろ苦さが広がる。


 このブルーベリーチーズのベーグルは、二週間前、人気店の前を通りかかったとき、たまたま並ばずに買えたものだ。

 レンジで解凍して、トースターで温めれば、ちゃんと焼きたてみたいに美味しい。


 もう一度、昨日届いた写真を見る。

 それに続く言葉も。



 ……うん。

 今日も、頑張れる。きっと。

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