閑話:ケンブリッジの神童

◇アメリカ合衆国・マサチューセッツ州

ケンブリッジ市 インマンスクエア(Inman Square, Cambridge, MA)


 古いアパートの地下室は、暖房の効きが悪く指先がかじかんだ。

 壁際に並べたラックのファン音が、低く、一定のリズムで鳴っている。

 ここでは、時間の感覚が曖昧になる。昼か夜かも、もう分からない。


 レイモンド・カーターは、脳に降りてきた世界を構築することに忙しく、何度呼びかけられても、まるで耳に入ってこなかった。

 世界はあまりに美しく、時間はどれだけあっても足りない。


 不意に、肩を強く叩かれて、はっと我に返る。

 後ろに立っていたのは、双子の姉マリッサだった。


「もう! さっきから何度も呼んでるでしょ!? いい加減にしてちょうだい!」

「……ごめん」

「いつも遊んでるレイと違って、私は忙しいの! 今から仕事に行くから、戸締まりだけはちゃんとしてよねっ」


 ……別に遊んでるわけじゃない。

 そう言いたいが、マリッサの立場なら、自分に対して嫌味のひとつくらい言いたくなるのかもしれない。


「……わかった。仕事、がんばって」

「ご飯くらい自分で用意してよね! また倒れたら赦さないから」


 そう怒りながら、彼女はあっという間に去って行った。

 だけど、レイモンドは知っている。彼女こそ、勉強と研究と合間のバイトで、食事を取る時間もないほど忙しいことを。

 手首にはめた腕時計は、数ヶ月前よりずっと緩そうだった。


 マリッサはボストンにある医学部に奨学金で通っている。一方でレイモンドは、学部を飛び越える形でフェローシップを得ていた。生活費の支給も最低限保証されている。

 自分は働かなくとも研究に没頭できる環境があるが、マリッサはそうじゃない。そして、そのことに彼女が時々イライラしていることも知っている。

 シングルマザーの母は教育には厳しかったが、実家は決して裕福ではないし、頼れる当てもない。


 彼女の生活を支えることができたらいいが、フェローシップの金は用途が厳しく縛られていて、それが実現するまではあと数年かかるだろう。

 声を掛けてくる企業は複数あるが、自由の保障がないものばかりだった。


 ……それじゃ困る。ぼくは自由じゃないと、コードが書けない。


 小さい頃、靴下を履かされるのが嫌だった。

 長袖のシャツも、長ズボンも、全部自分には不要で、何度母親に怒られても着ることができない。

 真冬でも関係なく、手足を拘束されることに拒絶感が出た。

 大人に近づくにつれ、服装はなんとか我慢ができるようになったが、思想の拘束は許容できないままだ。


 ニューヨークにある大企業から声を掛けられたのは、そんな頃だった。


 ◇


 「君がレイモンド・カーター? ははっ。想像よりずっと若いな」


 大学を通して突然声を掛けてきたのは、世間に疎いレイモンドでもかろうじて名を知っている投資系証券会社だった。

 なぜそんな企業が自分に興味を示すのかわからなかったが、現在彼らはAI開発にかなりの力を入れているらしい。


 目の前の男性は、弁護士資格を持つアナリストで、まだ二十代に見えるのに、一目でわかる仕立ての良いスーツに、艶のある革靴。数万ドルはしそうな腕時計。大学ではまずすれ違うことのない、金の匂いのする大人だった。


「そんなに警戒しないでくれ。悪い話を聞かせたいわけじゃない。

今日は、ケンブリッジの神童を、ぜひ我が社に迎え入れたくてここに来た。

君の望みを言ってくれ。どんな企業よりも最高の条件を我々が用意する」


 いい話を受けているはずなのに、なぜか直感が警戒アラートを鳴らす。


「……裏は何? ぼくの才能は安くないよ。弁護士さんならわかるよね?

契約条項は書面で全部もらわないと、安心できない」

「もちろんだとも」


 彼はアタッシュケースから黒い革製のファイルを取り出し、レイモンドの目の前に差し出した。

 テーブルに頬杖をつき、斜め読みをしながら、途中で視点が固定された。

 そこには、あり得ない報酬額が提示されている。


「これから君が卒業するまでに弊社が準備する額は、年百万ドル。その後、君が納得いくのであれば契約を更新したい。そのときは五年で八百万ドルを用意しよう。

 もちろん、君が望む通りに自由は保障する。研究内容も尊重する」

「……ただし?」


 声が掠れて、うまく発声ができない。

 どんな企業に入ろうとも、これだけの額を提示されることはこの先もまずないだろう。


「ただし、成果の帰属は君と我々の共同だ。それはどの企業でも同じだろう?」


 頭の中になぜか、『ダメだ』という声が響く。

 『そっちはダメだ。危険だ』と。


 だけど、それだけの報酬があれば、マリッサの三十万ドルの奨学金も返済できるし、彼女を学業だけに専念させられる。

 故郷の母親にも夢のような暮らしを与えられるだろう。


「君が言う通り、君の才能は安くない。だからこそ、我々は君に投資をするんだ。それが弊社の本分だからね」


 まるで悪魔がイブを誘惑するように、彼は魅力的な言葉だけを紡ぐ。


「それに──君が何よりも重視しているのは、自由なんじゃないのか?」


 その場では、答えがすぐに出せなかった。

 それがレイモンドにできる、精一杯の防御だった。


 だけど、心は既に傾き始めていた。

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