Side Kaji:東の京も大概すぎる
年の暮れの京都の夜は、東京よりも静かで、やけに闇が深い。
街灯が一段落ちるだけで、世界の輪郭がやや薄くなる。
会社が借り上げた1LDKの分譲マンションは、大通りから一本奥に入った場所にあり、深夜になると、車の音さえ遠くなる。
窓を閉め切れば、聞こえるのは冷蔵庫の低い唸りと、自分のため息だけだった。
「くっそ。あかん。脳みそが全然仕事せんわ」
脳は体重の2%しかないのに、全エネルギーの20%を使う、非常に燃費の悪い臓器だ。
特に、恒常性維持機能が厄介で、答えを探すたび、無駄な熱を吐き出す。
アドレナリンで空腹を感じなくても、糖が切れれば思考速度は落ちる。
かといって、下手に何かを摂取すれば眠気が来るのだから、効率が悪いにもほどがある。
……ほんま、人間って、バグだらけやな。
頭痛を感じ、両手でこめかみを揉みながら、きつく目を閉じた。
時刻はまもなく深夜十一時。
明日の脳をバグらせないためには、あと一時間で入眠する必要がある。
せめて、もう少し効率のいいインスピレーションの得方があれば、現状を打破できそうなものなのに、その答えはいまだ見つかっていない。
「はあ……。こんなん、AIのほうがよっぽどましやろ。なんぼでも進化できよるし」
職場では極力人と話をしないせいか、家に帰ると途端に独り言が増える。
どうでもいいぼやきを端末にぶつけながら、机の上に常備されたアーモンドを一粒、音を立てて噛み砕いた。
コードというのは、脳の熱量でしか書けない。
論理の冷却と、直感の加速。
その両方を同時に扱えなければ、ただの文字列に成り下がる。
故に、いかに脳を働かせるかだけが、己の命題のようだった。
眠気防止のため、暖房は入れない。
脳が外部刺激を拾いすぎないよう、光源はモニターのみ。
ブルーライトを抑えるレンズと、カフェイン量を記録するアプリは必須。
余計なノイズが混じるのは避けたいから、どこで暮らそうと、家に人を呼ぶことはない。
体調管理も生活リズムも、アルゴリズム的に最適化されている。
人から見れば、孤独や不幸に映るかもしれない。
けれど、この生活でなければ、逆に落ち着かないのだから仕方がない。
「ほんまに思考のキャッシュくらい残せたらええのになあ……言うだけ無駄やけど」
仕方なく、気分転換に白湯でも飲もうと立ち上がる。
コードと数字の中にいると、心まで機械の一部になった気がする。
いっそ、それで構わないと思う瞬間も多々ある。
だが、こんな寒い夜にはせめて、温かいもので呼吸を落ち着けたかった。
湯気をまとった白磁のマグカップを手にデスクへ戻ると、画面がかすかに明滅したように見えた。
「……なんや?」
カーソルが、勝手に動く。
「ちょお……こんな夜更けに、どちらさんや」
モニターの奥が、一瞬だけ脈を打った気がした。
admin/override(管理者権限が介入しました)
#timestamp: 22:54:07
「セキュリティ層にノイズかい」
フォレンジックツールを立ち上げ、痕跡を追う。
何層にも匿名化された経路。その先に、人の指の温度は感じられない。
数分もしないうちに、突如巻き込まれた深夜の鬼ごっこの終わりが見え、喉の奥で小さく笑いが漏れた。
「……はあ、だっる。雑魚が絡んでくんなや、ほんま」
声にならない呟きが、ディスプレイに吸い込まれる。
数秒後、画面の向こうの赤い点滅が、ひとつ、またひとつと消えていった。
同時に、あちら側のセッションが音もなく切断される。
まるで、誰かが息を止めたかのように。
……己のレベルも見極めんと、毎度毎度、ようやらはるなあ。
淡い笑いとともに、ログは通常の色を取り戻す。
部屋には空調の低いうなりだけが残った。
外の世界は何事もなく動いている。
それなのに、世界の向きがほんの少しだけ変わった気がして、首をすくめた。
モニターを閉じると、室内がすっと闇に染まり、部屋の中がひときわ冷たく感じられる。
湯気の消えかけたカップを手に、ブラインドを少しだけ上げた。
街の明かりは遠く、冬の京都は驚くほど静かだった。
この一年、招かれざる客が後を絶たない。
京の都を伏魔殿やって、よう言わはるけどなあ。
……ほんまに、あんたら、東の
「こっちは、おっさん同士の争いに巻き込まれて、ええ迷惑やわ」
端末に向かって声を上げると、LEDがひとつだけ点滅した。
まるで、こちらをじっと見ているような気配に、乾いた笑いが漏れる。
「……人間やのうて、人の世がバグだらけやんなあ」
◇
社内の映画部に参加したのは、上の人間に対する、ほんの小さな意趣返しだった。
ある日、突然、かけがえのない仲間を失い、京都に閉じ込められ、命じられるままに仕事をするしかない日常。
誰に文句を言えるわけでもなく、かといって、何もなかったように過ごすこともできない。
せめて最低限の、ささやかな息抜きが欲しかった。
仲間が欲しいとか、人と触れ合いたいとか、そんな感情ではない。
ただ、自分と同じように、世界を「構造」で眺める人間が、どこかにいれば、それで十分だった。
いたら儲けものだし、いなければ、それまで。
だが、ログをざっと見た限り、そんな相手はどこにもいなかった。
そろそろ抜けようかと考え始めたころ、クリスマス同時鑑賞会の告知が届く。
作品名を見て、いつかの記憶が蘇った。
― お前、イブが誕生日なんだろう? この前連れてた彼女はどうした?
― 研究室に二週間引きこもったら、知らん間に着拒されてた。
― ははっ。あるある。俺も何回かやらかしたわ。技術者って、ほんとろくでもないよな。
― ちゃうし。ろくでもないのは、あんさんだけやろ。
― それより今日、暇なら一緒に映画観ないか? 梶は結構好きだと思うよ。
― なんでわざわざ誕生日に、男と映画を観なあかんねん。
― お互いに暇だからだろ?
結局、誘われるままに映画を観て、ボロボロに泣いているところを大笑いされ、本気で喧嘩になりかけた。
その光景を思い出し、ふっと笑いが漏れる。
― これ、共鳴を描いた映画やね。
― お、わかるか?
ピアノの透明な響き。
終わりの見えない、繰り返されるコード進行。
それなのに、最後に残ったのは、音ではなく、震えだけだった。
過去をなぞるように、ぼんやりと作品を追う。
映画部のチャットはそれなりに盛り上がっていて、暇つぶし程度に、ときどき目を通す。
誰かの書き込みに適当に返信しながら、ふと、思い出した。
『ここに音はない。あるのは共鳴だけだ』
彼は、この映画を見ながら、確かそんな言葉を口にしていた。
「あの人は……技術者っちゅうより、詩人やったよなあ」
28歳の誕生日の夜は、そんなふうに、静かに更けていった。
◇
一月のサポートセンターは、いつもより慌ただしかった。
センター長に頼まれ、いくつかの復旧案件をフォローする。
机の上には、無機質な端末と、白湯の入ったマグカップ。
「問い合わせログ/優先復旧案件」と印字されたリストが並んでいる。
職場では個室を与えられているが、正面以外の三方は、透明なパーテーションで囲まれていた。
強化ガラス製で、防音性は高く、周囲の声はほとんど聞こえない。
外側から見れば、無音の水槽のような空間。
集中するには最適だが、同僚たちの間では、いつの間にか「氷室の君」という呼び名が広まっていたらしい。
偶然それを耳にして、ひとりで笑った。
午後はいくつかの仕事を順番に片付け、最後にアンケートの依頼を数件送付する。
リストに並んだ名前のひとつに、見覚えがあり、手を止めた。
「……佐々木、花。年末の電話の子やんな」
つい先日も、業務でメールをしたばかりで、字面が記憶に残っていた。
アンケートは、サポートセンターをよく使う利用者を自動で抽出する仕組みだ。
本来なら、一括送信で済む。
だが、推薦ロジックに少し不備があり、回答率の低い部署には個別調整が必要になる。
彼女が所属するリンクス総務部も、そのひとつだった。
「……まあ、たまには手動で送っても、バチは当たらんか」
特別な意味はなく、業務用の個別チャットで、淡々と連絡を入れた。
おそらく、真面目な人なのだろう。
返ってきたアンケートは、やけに気合の入った丁寧な内容で、しかも返信が早すぎる。
思わず、こちらが恐縮するほどだった。
──ところが、そんな日常の風景を、彼女の一言が、きれいに吹き飛ばす。
『梶さんって、もしかして、映画部のKajiさんですか?』
その言葉に、頭の中で警戒アラートが鳴り、反射的にパーテーションのブラインドを下ろす。
ガラス越しの光がすっと薄れ、部屋の空気が一気に冷えた。
社内のざわめきが遠ざかり、自分の鼓動だけがやけに大きく響く。
管理者コードを叩き、端末で社員情報を引き出した?
……誰やねん、この女。
どこまでが偶然で、どこからが監視かわからない。
脳が勝手に防衛線を張り、彼女の情報を洗いざらい洗い出していく。
社員証の写真に写るのは、あまりにも普通の女性だった。
童顔で、気の弱そうな小動物系。
だが、顔と本性に因果関係はない。
むしろ、こういう素朴なタイプのほうが厄介なことも多い。
勤続年数、勤務態度、学歴、自宅の位置情報。
どこにも不審な点はなく、ただの偶然の可能性が、少しずつ浮上する。
そのとき、端末に、もう一件、DMが届いた。
『忘れてくださひっ』
あまりにも残念な誤字に、最大限に張っていた警戒が、音を立てて緩む。
次の瞬間、妙なツボに入り、脱力してしまった。
「……なんやねん。くださひって。大事なとこで噛むなや。ってか、なんで最後にスタッカート刻むねん」
笑いが収まらず、椅子の背にもたれて、天井を仰ぐ。
……いつぶりやろな。こんなふうに笑ったの。
伏見の実家の縁側で、祖父が語っていた言葉が、不意に蘇る。
― ええかぁ、雪斗。
どんな笑いのプロもなあ、素人のど天然には、どうやっても勝てんときがあるんや。
あいつらはな、笑かそう思うてへん。
なのにな、気ぃついたらその場でいっちゃんおもろい。
計算のない笑いは、もはや神の領域や。
よう覚えときぃなはれ。
「ふはっ……」
……あかん。
じいちゃんの変な格言まで思い出してもうた。
ほんま、いらんところで出てくんなや。
ええかぁ雪斗やないねん。
映画部の参加ログを開き、過去の書き込みを検索する。
確かに、「Hana」の名前がある。
しかも、自分は彼女に返信までしていた。
自己紹介スレッド、投稿時間、使用端末のIPレンジ。すべて社内ネットワーク経由。偽装ではない。
……つまり、ほんまに、ただの偶然やんなあ。
長く息を吐き、最後に残っていた警戒心も、すべて解除する。
「あー……自分、あほすぎやろ」
己が滑稽で、くつくつと笑いがこぼれる。
京都に来てから、こんなふうに笑った記憶はない。心のどこかに、ほんのりとした温かさが残る。
だからだろうか。
このまま、何もなかったことにするのが、少し惜しくなった。
キーボードに手を置き、彼女に返信を打つ。
気づけば、指先は勝手に誘導をかけていた。
『……せやから、個人的な話なら、映画部のDMに送ってくれへん?』
それは、佐々木花によって脳がバグった、いちばん最初の瞬間だった。
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