理性と衝動のあいだ

 指先が勝手に動いていた。


『梶さんって、もしかして、映画部のKajiさんですか?』


 エンターを押し、我に返ったのは一秒未満。

 すぐに「既読」のマークがつく。


「ひぃ……っ」


 マスクの内側で変な悲鳴が出た。

 何を書いた?

 本当にわたし、仕事中に何を書いた?


 もしも、完全に別人なら、変なことを言い出す女性に思われたかもしれない。そして同一人物だとしたら、私生活に探りを入れる、気持ちの悪い人だ。


 少しでも取り繕いたくて、「忘れてください」という文字を打とうとキーボードを叩く。

 ところがなぜか「忘れてくださひっ」と打ち間違え、瞬時にこの世の終わりを悟った。


 ああっ! なんで!?

 お願い、誰か……! 今すぐ梶さんのパソコンを壊して!

 それができないなら、わたしの記憶を抹消して!


 心臓が耳の奥で鳴る。

 メッセージに既読はつくが、返信は来ない。

 まるで画面の向こうには既に誰もいないように、数分待っても梶さんからは何の応答もなかった。


 ……だめだ。完全に終わった。

 何ひとつ始まってもいないのに、今、何かがさらさらと儚く崩れていく音が聞こえる。

 願わくは、花の下にて。

 わたしの心も、如月の満月とともに。


 画面を閉じて、今日中に片付けるべき業務に戻る。

 泣きそうなほど胸が苦しいけれど、目の前の仕事に没頭することでやり過ごす以外、できることなどない。

 ところが、集中を高めようとした刹那、個人チャットが再び通知を告げる。


 ……怖い。怒られたり嫌われたりしたら、今日はもう仕事にならない気がする。

 恐る恐る。

 本当に恐る恐るマウスを動かし、画面を立ち上げる。


― 思い出したわ。Hanaさんやんな。


「……っ!」


 認知されてる!

 違う。認識されている。いくら何でも浮かれすぎだ。

 梶さんは、アイドルではないのだから。


 理性と衝動のあいだで、心が変な音を出す。

 とてつもなく嬉しいのに、顔に出してはならない。態度にも。声にも。

 マスクをつけ、まるで能面みたいな顔をしていても、すでに全身が火照って、真冬なのに汗ばんでいる。


 わたしは社会人四年目の意地で、動揺を物ともせず、キーボードと向き合う。


― そうです。映画部のHanaです。業務中に不躾なことを聞き、申し訳ありません。


― ええよ。

 でもこの話題、ここでするのはあかんわ。


 すっかり砕けた言葉になると、それは、どう見ても映画部のKajiさんだった。


― そうですよね。突然、業務外のことを尋ねて申し訳ありませんでした。


 落ち込んでいない。

 彼はわたしを咎めているわけではなく、事実を指摘しているだけなのだから。

 もちろん、落ち込んでなどおりません……。


― そやのうて、業務用個チャは監査ログが残るし、NGワード検知や情報流出アラートを自動監視してる。

 会社のチャットは全部、誰にでも見られてると思っといたほうがええよ。

 Hanaさんも引っ掛かったら嫌やろ。


 Hanaさん!!

 一ヶ月ぶり二回目のHanaさん!

 真面目な話をしてくれている梶さんに申し訳ないほど、テンションが急速に上がり、心が飽和状態になっていく。

 わたしは鉄面皮を崩さず、努めて冷静に「それは、そうですね」と返事をする。


― せやから、個人的な話なら映画部のDMに送ってくれへん?


 理性を総動員して作ってきた仮面が、その一文で瞬時に剥がれ落ちた。

 耳まで熱くなり、ひとつ結びにしていた髪をさっとほどいて隠す。


 ……落ち着いて。大丈夫。変なことは絶対に書かない。

 髪の毛を整えることで気持ちを鎮め、静かに息を吐き出した。


― DM、送ってもいいですか?


 打ち終えた指が小刻みに震える。

 呼吸を整えようとしても、喉の奥が熱くてどうにもならない。


― ええよ。

 あっちの方が、自由やろ。

 アンケートありがとう。

 ほな、またな。


 …………。

 ……ほな、またな。

 なんだろう。今ならわたし、句が詠める。


 その日は全然仕事にならなくて、チーフや小林さんに心配をかけながら、赤い顔で定時に上がった。



 二月に入ったばかりの金曜の夜。

 仕事の疲れを癒そうと、足の裏とふくらはぎに冷却シートを貼り、部屋の灯りを微光に落とす。

 テーブルの上には、仕事帰りに購入したアロマソイキャンドル。火を灯すと、空調の風で炎が小さく揺れた。

 ネロリとサンダルウッドの香りが立ち上り、鼻の奥をすっと抜ける。

 お風呂が沸くまでの少しの間、ソファに沈み目を閉じる。


 これは、昨日「最近寝つきが悪くて」と伝えたわたしに、梶さんが教えてくれたこと。


― 蛍光灯の白って、脳には刺激強いんよね。

 夜は照度落として、温かい色の光にした方がええよ。


 たしかに、明るすぎる部屋では、考えが空回りしてしまうのかもしれない。

 オレンジ色の蝋燭の光の中だと、頭の奥が静かになり、余計な雑音が消えていく。

 もう頑張らなくてもいい時間が、少しだけここにある。


 梶さんとは、先月末からお互いにメッセージを送り合っている。

 DMを送って良いといわれたものの、社交辞令の可能性を考えて躊躇していたら、あっさり向こうから連絡が来た。


― こんばんは。梶です。

 改めて、先日はアンケートをありがとうございました。


 たった二行の、極めて短い業務連絡のようなメール。

 先日との距離感の変化に緊張しながら、慌てて返信を返す。


― ご連絡をありがとうございます。今日は関西弁ではないんですね。


― 検索したら、Hanaさんが他にもいてはったから、このHanaさんでほんまに合うてるかわからんくて。

 ほんまもんのHanaさんやんな。安心したわ。


― お手間を取らせてすみません。

 はい。わたしで合っています。


― ところで何か、ぼくに映画のことで話したいことでもありましたか?


 ぼく……。

 まさかの、ぼく……! なにそれ、かわいい!


 これがチャットである幸運に感謝した。

 もしも電話や対面だったら、きっと、誰にも見せられないほど崩れた顔をしていたと思う。


― 以前、Kajiさんに教えていただいた『灯り日』がすごく良かったので、また何かおすすめがあれば、教えていただきたくて……。

 『灯り日』は、激しい題材を扱っているのに、すごく静かで、不思議な余韻がありました。


― せやろ。

 あの監督はな、構造をめちゃくちゃ練ってはるんよ。

 一見、何気ないロゴにも仕掛けがある。

 『灯り日』のポスターは、A・KA・RI・BIってロゴが表記されてるんやけど、あれは、作品が4つの構造に分けられたことの暗喩なんよね。


 急に砕けた雰囲気に変わり、ほっとしながら、返信をする。


― 4つの構造ですか?

 構成ではなく、構造なんですね?


― ええ質問やね。

 構成は「どう並べるか」やけど、構造は「なんでそうなるか」や。

 つまり、構成は順番。構造は理由。

 見せ方やなくて、世界の仕組みの話。


― そうなんだ……。

 じゃあ、それぞれに仕組みがあるってことですか?


 言葉を追いながら、わたしは少し姿勢を正した。

 梶さんの語り口は穏やかなのに、どこか熱を帯びている。


― この話、始めるとめっちゃ長くなるけど、聞く?

― はい。ぜひ!


 正直、話を聞いて、自分がそれを正しく理解できるか、自信はない。

 でも今は、少しでも長く、梶さんの言葉を聞いていたくて、わたしは「うんうん」と強くうなずきながら返事をした。


― ほな、ちょっと待って。


 梶さんは、少し時間を置いて、長めのチャットを送ってくれた。


― 灯り日の構造は、おそらくこんな感じ。


 A:冒頭

 朝の光から始まり、愛と憧れ、哀を描く。


 KA:開始30分頃

 渇きと過去と葛藤。劇中で一番激しいシーン。


 RI:クライマックスに至るまで

 理と離。理性と、理解と、離別。


 BI:ラスト15分

 美と微。それと信じる。つまり、I Believe.


 要するにこの映画は、静、爆、沈、赦、という4つの流れの中にある。

 それを音楽と映像で描くことで、静かな余白が作られてる。


 送られてきた文章を眺めて、想像よりずっと丁寧に描かれた作品なのだと、はじめて理解できた。


― すごい……。

 絶対、自分では気づかないです。

 梶さんは、そんなことまで考えて、いつも映画を観るんですか?

 すごすぎます。


― 俺に映画の面白さを伝えてくれた先輩がおって、その人の受け売りやけどな。


 ……あぁっ。

 ぼくが、俺になるの、やばい……!

 心の中でひとり悶えながらも、会話は続いた。


― 素敵な先輩ですね。

 学生の頃も、映画部にいたんですか?


― 全然ちゃうよ。

 けど、その人が、映画にもちゃんと構造があるって教えてくれて、あれはほんま、ものの見方を変える、ええきっかけになったなあ。


 なんとなく、梶さんの言葉の中にせつなさがあって、もしかしてその先輩は、元恋人だったりするんだろうかと考えてしまう。

 そんな邪推を誤魔化すように、わたしは慌てて話題を変えた。


― わたし、今日教えてもらったことを考えながら、もう一回、映画を見てみたくなりました。

 解説がなかったら、自分では一生、気がつかないと思うし。


― せやろなあ。

 俺には、世界は全部、構造に見えんねんけど、そういう人には、あんま出会わんし。

 ごめんな。たくさん語って。引かんかった?


 梶さんに引くだなんて……。

 そんなバカなと、わたしは言いたい。


― まさか!

 知らないことをたくさん教えてもらえて、すごく勉強になったし、面白かったです。

 他にも、面白い作品があったら、教えてくださいね。


 もちろん、内心では、ただ梶さんと話したいという下心がある。

 けれど、それ以上に、梶さんの見ている世界の奥深さに触れて、自分の中の何かが、少しずつ動き始めているのを感じた。

 想像外の角度から眺めることで、同じ映像が、まるで違う物語に見える。


― おおきに。

 映画が好きな人に、そう言うてもらえるの、嬉しいわ。

 また、何かおもろいの思い出したら、送るな。

 

― はい。

 本当に、ありがとうございました。


 メッセージを送信したあとも、しばらく、わたしは一連のやり取りを眺めたままだった。

 何度も何度も読み返し、静かな部屋の中で、そっと息を吐く。


 画面の向こうの梶さんは、たぶん、わたしが思っているより、ずっと遠くの景色を見ている人なんじゃないだろうか。

 でも、彼が見ている景色の一部を、少しだけ共有できたような気がして、胸が静かに温かくなる。

 まるで、冬の夕方の、ぼんやりと灯るオレンジ色の街灯みたいに。


 まぶたの裏に残るのは、さっきまでの文字の残像。

 言葉だけで、人の心を動かせる人が、本当にいるんだ。


 ……その事実だけで、この夜を、やさしく眠れそうな気がした。

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