その五文字を、何度も読んだ

 年明けの朝の車内、都営浅草線の窓に映る自分の息が、すぐに消える。

 通勤のざわめきの中、スマホの画面に目を落とした。

 そこに残っているのは、あの夜のスクリーンショット。


『Kaji:Merry Christmas, Hanaさん。良いお年を』


 それは、かすかな接点の残滓。

 ただのデータ。だけど読み返すたびに胸が僅かに熱を持つ。

 名前を呼ばれた瞬間のくすぐったさと、二度と届かない光を見送るような気持ちを抱え、それでも、気づけば何度もその画面を開いていた。


 ……何か返信、返せば良かったなあ。

 馬鹿みたいに緊張して、返すタイミングを見失ったまま年が明けて。

 今さら悔やんでも遅い。気づくのは、いつも後だ。


 ……Kajiさんは、遠い空の下にいる、顔も知らない人。

 だからこんな感情は、時の流れとともに薄れていくしかないのだろう。

 地下鉄に映る自分の浮かない顔を見ないように、視線をずらす。


 このときは、そう思っていたから。



 一月は総務部にとって、年明けの静かな余韻にはほど遠い時期だ。

 年末処理の残骸と新年度準備が重なり、朝から定時まで書類の波。

 メールの件名に「至急」と「念のため」が並び、職場の空気は、まさしく繁忙期の殺伐さ。


 午後、業務が一段落したのも束の間。

 経費精算の画面を開くと、承認ルートの設定でエラーが出ていた。


 異動した上司の情報が、まだシステムに反映されていないらしい。


「……またこれか」


 苦笑して、サポートセンターに問い合わせフォームを送ると、一時間もしないうちに、受信箱に返信が届いた。


 件名:Re:承認ルート未設定の件


 差出人の欄にある名前を見て、思わず指先が止まる。


 送信元:Apex Support 梶雪斗


 心臓が、どくんと音を立てる。

 ディスプレイに映された文字を、無意識に指でそっとなぞる。


「梶……雪斗……さん……?」


 初めて見る名前。

 だけど、これは……。


「Kajiさん……」


 誰にも聞こえないような小さな声は、周囲の慌ただしさに紛れた。


『つらいときは、泣いた方がええんやないですかね』


 ……記憶の彼方にあった、あの冬の声が頭の奥で静かに揺れ始め、真昼の喧騒が、ゆっくりと耳から遠のいていく。


「佐々木様

 ご連絡ありがとうございます。

 現在こちらで、システム更新が滞っていたことを確認しました。

 修正対応は完了しています。

 ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

 Apex Support

 テクニカルアドバイザー 梶雪斗」


 メールの文面に、自分の名前が書かれている。

 業務なのだから、どう考えても当たり前のこと。

 それなのに、彼が、この現実にわたしを見つけてくれたような気持ちが溢れ、唇を左手で覆った。

 そうしないと、何かがそこから溢れてしまいそうだった。


 ……仕事中に何を考えているんだろう。

 胸から深く息を吐き出し、動揺をすべてなかったことにした顔で、キーボードを打つ。

 社会人の仮面は、こんなときほどよく馴染む。

 指が若干震えているのは、気のせいにしておこう。

 システム画面を開き、エラー解除を確認して返信を打つ。


「梶さま

 ご対応ありがとうございます。

 無事、承認が通りました。

 いつもながら素早い処理で、とても助かりました。

 佐々木花」


 当たり障りのない文章を書き、誤字がないか、何度も確認をした。

 送信をクリックするのにかつてない緊張感を味わい、どうかしていると自分に呆れてしまう。

 少し冷静さを取り戻しつつ業務に戻ると、程なくして、返信が届く。


「いえ、こちらの不備でした。

 先月の夜も、佐々木さんからお電話をいただきましたよね。

 夜遅くまで大変そうで、心配でした。

 また何かお困りのことがあれば、サポートへご連絡ください。

 梶」


 ──心配でした


 その五文字を、何度も読んだ。

 

「う、うそ……」


 梶さんからメールが届いたことに、単純に驚いていた先ほどとは、まったく違う。

 ……認識されている。

 わたしが掛けた、あの夜の電話が、佐々木花からのものだと。


 ……もちろん、何の不思議もない。

 業務報告には社員番号が必要なのだから。

 だけど、こんな大企業で、一日に何十本もある電話のひとつを、ピンポイントで記憶されることがあるなんて、誰が思うだろう。


「ああっ」

「ど、どうしました? 佐々木先輩」

「……ご、ごめん。やりかけの仕事を思い出して、慌てちゃって」


 仕事中に取り乱すわたしに、小林さんが「忙しいとそうなりますよね」と労いの言葉をくれる。

 笑って誤魔化すと、少し気持ちが落ち着いた。

 だけどすぐに、羞恥心が蘇る。


 名前を覚えられているのは、あのボロボロと涙をこぼした夜の醜態が、きっとみっともなかったからだ。

 居たたまれない気持ちになり、業務に戻る。

 コピー機の作動音を聞きながら、ぼんやりと、あの夜の電話のことを思い出した。


 ……違う。

 全然知らない人だけど、あの人は、本当にあの夜のわたしが心配で、声を掛けてくれたんだ。

 根拠があるわけではないけど、あのときのやさしさは、本物だったと思う。

 それを疑う方が、不誠実な気がした。


 コピーを終えて机に戻り、思わず泣きそうになりながら、この感謝が伝わりますようにと願って、キーボードに指を乗せる。


「その節は、大変お世話になりました。

 ご心配をいただき、ありがとうございます。

 寒さが厳しい季節ですが、ご自愛ください。

 佐々木」


 どうか、お礼の気持ちが、デジタル空間に乗って、梶さんに届きますように。

 少しでもいいから、真っ直ぐに。



 そんなわたしの願いが届いたのかどうかは、わからない。

 だが、月末が近づいた頃、梶さんから、二度目のコンタクトが届く。


 午後を告げる短い始業ベルが鳴ってすぐ、業務用個人チャットの通知が光り、指を止めてディスプレイの右下を見る。

 差出人の名前を見た瞬間、「んんっ」と、変な音が喉の奥から漏れた。


 Apex Support 梶雪斗


 触ったら爆発する何かを扱うように、緊張しながらチャット欄を立ち上げる。

 モニターの明かりが、心臓の鼓動まで映し出すようだった。


― 佐々木さん

 こんにちは。突然すみません。

 今、社内サポート対応の満足度アンケートを取ってまして。

 他部署の方にも、ご協力をお願いしています。

 数分で終わる内容なので、もしお時間あれば、ご協力いただけますか?


 佐々木さん!

 様付けではない、自分の名前を思わず凝視した。

 突然、距離が近づいたようで、わけのわからない気持ちが体を駆け巡る。

 もしかしたら、学生時代の友人が、いつか話していた「推しに認知されてて死ぬ」とは、こんな気持ちなのではないだろうか。


― 梶さん


 ……っ。

 ただ「梶さん」という文字を打つだけで、馬鹿みたいに指が震える。

 これは仕事。これは仕事なのだから。

 わたしは冷静に対応せねばならない。

 そうでないと、とんでもない誤字に気づかず、エンターを押しそうだ。


― お世話になります。

 アンケート、もちろんお引き受けいたします。

 提出期限は、いつ頃でしょうか?


 すぐに既読がつき、返事がくる。


― ありがとうございます。

 無理を言いますが、二週間以内にいただけたら。

 こちらから、ご入力をお願いします。


― かしこまりました。

 なるべく早く、対応しますね。


「はあ。つ、疲れた……」


 こんなにも緊張感のある仕事は、昇進試験以来ではないだろうか。

 いったい自分は、何を試されているのだと思いながら、届いたアンケートのリンクを開く。

 ざっと内容を眺め、これなら、今すぐ片付けても問題ないだろうと判断する。


 もしかしたら、これも、梶さんが見るのだろうか。

 違うのかもしれないし、そうかもしれない。

 なぜか、討ち入りにでも行くような覚悟で、質問項目を丁寧に埋めていく。


 実際、わたしたち総務は、仕事のかなりの面で、サポートセンターのお世話になっている。

 その存在がなかったら、膨大な量の仕事に気持ちが挫けて、辞めていたかもしれない。


 少し悩んで、最後に一文を書き加える。

「特に、夜間帯のサポートは、精神的にも救われました」と。


 梶さんが見ても、見ていなくても、関係ない。

 あの夜の気持ちを、一文字一文字に閉じ込めた。


 何度か誤脱がないか確認し、送信を押す。

 少し経つと、また通知が鳴った。


― 他の方は、こんなに丁寧に書いてくれません。

 ありがとうございます。


 ああっ! だめ!

 これ以上は、無理!!


 頬が緩みすぎている自覚から、慌ててデスクの引き出しからマスクを取り出した。

 お願いだから、今のわたしを、誰も見ていませんように。

 さっきから、甘い拷問を受けているようで、情緒がどんどんおかしくなっていく。


 まって、わたし。

 文面をよく読めば、至って普通のことしか書かれていない!

 ……深呼吸をして、落ち着こう。


― いつも本当に、お世話になっていますから。

 こちらこそ、ありがとうございます。

 また次回も、協力しますので、お気軽にお声がけください。


 うん。普通。うん。誤字もない。

 そして、さりげなく次回の渡りをつけるなんて、わたしは天才ではないだろうか。


― それは助かります。

 ほな、次もアンケートあったら、送ってもええですかね。


 ……さりげなく自画自賛していた、わたしの息の根が、梶さんによって止められる。

 心臓が、変なリズムを刻み始めた。

 無意識のうちに、頭に浮かんだ疑問を、そのままキーボードに打ち込む。


― 梶さんって、もしかして、映画部のKajiさんですか?


 指が、ぽん、と、エンターキーの上を滑る。

 カチッという軽い音が、世界の終わりみたいに響く。


 ……あっ。

 お、送っちゃった……!

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