2nd Code:幸福は盲点になりやすい
一番残酷で、一番やさしい
師走の朝の始まり。
南向きのベランダに出ると、銀色の手すりが朝日を受けて淡く光っていた。
まだ冷えきった空気が頬に刺さるようで、息を吸うたびに肺にに寒さが染みる。
けれど、その痛みさえも、今朝は心地よい。
昨日は一日中、気持ちが苦しかったのに、目が覚めた時には意外なほど心が軽い。
深夜のわずか十五分で、あの人は仕事のサポートだけでなく、わたしの自律神経まで整えてしまったらしい。
白い息が朝の透明な空気に溶けていくのを見届けて、深呼吸を三度繰り返す。
「うん……今日も、頑張ろう」
これはアピールじゃない。
任された仕事に向き合う、静かな責任感。
鏡の前に立ち、いつものようにセミロングの髪をきゅっと、後ろでひとつ結びにした。
十二月の総務部は目まぐるしく、昼休憩さえ満足にとれない。
一日が終わる頃には神経がすり減り、着替えもせずソファになだれ込んだまま、体が動かなくなる。
短い通知音が鳴り、腕だけを動かして通勤バッグからスマホを取り出した。
「……お母さんか。そうだ、お礼、言わないと」
昨夜、帰宅した時、宅配ボックスに届いていた母からのふるさと小包は、中身を確認する気力もなくキッチンに置いたままだった。
のっそりと起き上がり、段ボールを開ける。
底の方に、新聞紙でぐるりと巻かれたガラス瓶がひとつ。
中に詰められていたのは、母の自家製さくらんぼ酒。
琥珀色の液体の中で、小粒の果実が光を透かすように沈んでいる。
「わあ、美味しそう……嬉しいなあ」
山形の実家では、親戚中から市場に出せない果物が多く回ってくる。
それを嬉しそうにシロップやお酒に漬け込み、自宅で楽しむのが母の趣味だった。
『旬のうちに手をかけておけば、時間が経っても楽しめるからね』
そう言って笑っていた母の声が蘇る。
グラスに少し注いでみると、アルコールの香りとともに、夏の名残の甘さが鼻の奥に広がった。
今年のクリスマスイブは珍しく土曜日で、会社も休みだった。
窓から見えるベランダの鉢植えには霜が降り、冬の匂いがする。
午前中に洗濯と掃除を済ませて、午後から駅周辺に買い物に出かけた。
駅前の商店街は、赤と緑の飾りで彩られ、スピーカーから流れる軽快なクリスマスソングが風に混じっていた。
大通りの街並みを眺めながら、冷たい風の中を歩く。
マフラーの隙間から漏れる息は白く、頬にあたる冷気が少し痛い。
エコバッグの中には、鶏肉とサラダやスープに使う野菜、バゲットにチーズ。
それからデザート用に小さなプリン。
まるで誰かと食べるようなメニューに、思わず自分で苦笑する。
実際は一人、自宅で楽しむためのものだ。
社内映画部の掲示板に新しいスレッドが立ったのは、月初のことだった。
毎年恒例の、クリスマスイブの同時映画鑑賞会。
いくつか候補が挙げられたクリスマス映画の中から、参加者の投票で当日流す作品が決められるらしい。
去年までは平日で不参加だったから、今年、はじめて参加できるのが、ひそかに楽しみだった。
……ふと、心のどこかで、『Kajiさん』の影を探している自分がいることに気づく。もしかしたら、今夜、彼も参加するのだろうか。
八時が近づき、テーブルの上に料理とさくらんぼ酒、ソーダ水を並べた。
ソファの照明を落とし、タブレットでチャットのログ欄を開く。
……ざっと見ても、参加者名にKajiさんの名前はない。
「クリスマスイブだもん。きっと忙しいよね……」
そもそも、映画部のKajiさんと、サポートのKajiさんが同一人物とも限らないのに。
……なのに、何を落ち込んでいるんだろう。
気を取り直して、レンタルした映画のスタートボタンを押す。
静かな旋律が始まり、画面に砂漠のような光が広がった。
音楽が進むにつれ、チャット欄が少しずつ動き出す。
― 始まった。
― 音楽が綺麗すぎる。
繰り返される、硝子のような旋律。
聴いているだけで胸に響く透明な音。
Hana:……この音、心にに沁みますね
― わかる。
― 耳に残るよね。
Kaji:祈りみたいな響きやよなあ。
心臓がどきりと音を立て、あやうくグラスが滑りそうになる。
映画が進むにつれ、どんどん流れていくログに、「ああ、待って!」と声が出る。
「え、いま……Kajiさん? あれ? 幻?」
落ち着かない気持ちを鎮めるように、グラスを口に運び、半分ほど一気に飲み干す。
映画に集中していたはずが、内容が一瞬、頭から抜け落ちた。
だが物語が進むうちにその世界に引き込まれ、言葉をなくしたまま息を呑む。
クライマックスが近づいているのか、チャット欄が俄に騒ぎ始めた。
― 正直、このシーン見るために今日参加した。
― わかる。何回見ても、引き込まれるよね。
Hana:わたし、この作品を初めて観るんですけど、胸が痛いです。
Kaji:わかるわ。一番残酷で、一番やさしい愛情表現やと思う。
Kajiさんからのコメントに、驚きのあまり呼吸が止まる。
何か返したくて、震える指でキーボードを叩いた。
Hana:こういうのって……相手を信じてないと、できないこと、ですよね。
エンターを押す指先が、ぶるぶるしてしまう。
この映画部はいわゆる「通」な人が多くいる。
あまり見当違いな言葉を残して場を乱すのは怖く、普段なら踏み込むような発言はしない。
だけど……一瞬だけでもKajiさんと時間を共有したくて、わずかな勇気を振り絞る。
すると、すぐに反応が届いた。
Kaji:せやな。あれは共鳴やな。
その言葉が、あの夜と同じ関西訛りのやさしい声で、心の奥に落ちてくる。
途端に鼓動が高鳴る。
ほんの数秒のことなのに、世界の密度が変わった。
結局そのまま思考が止まり、いつの間にか映画はエンドロールを映し出す。
繊細なピアノ曲が、リビングのすべてを淡い青に染めるように響く。
音楽と鼓動がリンクして、わたしの感情が、その行方を見失う。
― 静かすぎて泣く
― これ、救いなのかな
― 心が空っぽになる音楽だよね
Kaji:すごいよなあ。何遍観てもラストは泣けるわ。
心が空洞になったような余韻に浸りながら、静寂が部屋の形を変え、空気がゆっくりと沈む。
……そっか。映画を見て泣ける人なんだ。
小さな情報に、何か返信したいような気持ちに駆られるけど、返す言葉が思い浮かばず、そのまま見送る。
けれど、まるで温めたミルクに塩をほんのひとつまみ入れたように、わたしの心にささやかな熱が灯った。
……ああ、Kajiさんだ。ちゃんとKajiさんがいる。
それだけで、この聖夜が特別なものに感じられた。
仄かなキャンドルの明かりが揺れる部屋でさえ、どこか特別な、美しい空間のように目に映る。
……馬鹿みたい。
誰かもわからない人の言動に、いちいち感情を振り回されて、何をしているんだろうと思う。
だけど、不思議と嫌じゃなかった。
Kajiさんに、こんなふうに心を動かされることが。
それは、滑稽よりも少しだけ嬉しいに寄った感覚。
なぜか、彼の言葉だけが、混ざり合う世界の中で、異なる灯りとなってわたしを照らす。
チャット欄には、参加者たちの「おつかれさま」「良いお年を」が次々と流れていく。
震える指で書き込んだ。
Hana:みなさん。素敵な夜をありがとうございました。
その直後、なぜかすぐに返信がつく。
Kaji:Merry Christmas, Hanaさん。良いお年を。
「う、うわあ!」
動揺して今度こそ、わたしはグラスを落とした。
「な……名指しは……名指しは、ダメでしょぉ……」
何がダメなのか、誰にとってダメなのか。
名前を呼ばれただけで、動揺を誘われて心臓の音が激しくなる。
自分の感情の置き場がわからないまま、耳に残るピアノの旋律とともに、夜はゆっくりと更けていく。
……心の中に、透き通る青い余韻を残して。
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