静かに残る

 週末は、たいてい家にこもって過ごす。

 昨日まで続いた雨は止み、今朝はからりと晴れていた。

 冬の光が、ガラスの向こうで跳ねている。

 ベランダでシャツのシワを伸ばしながら、冬の朝の匂いを吸い込むと、冷たい空気が肺を満たす。

 十二月の空は透き通るように澄んでいて、どこかから微かにムクドリの声が聞こえた。


 家事は嫌いじゃない。

 掃除機をかけ、洗い置きのシーツを丁寧にアイロンで伸ばし、一週間分の食材の下拵えをする。

 仕事と違い、目に見える成果をすぐに得られ、気持ちが少し軽くなった。


 けれど、数日前に偶然、亮平に出会ったからだろうか。

 壁時計の秒針を聞きながら、無心で床を磨いていると、過去のことばかりを思い出してしまう。


 亮平に告白されて付き合い始めたのは、二年前の春だった。

 いつも自信に満ちた彼の隣に並ぶと、自然と背筋が伸びる思いがしてくすぐったかった。

 社会人になって初めての恋の滑り出しは順調で、いい関係が築けていると信じていた。


 だけど半年も経たないうちに不協和音が忍び寄り、わたしは自分と彼の間に横たわる感覚のずれを、だんだんと見逃せなくなってしまう。

 埼玉で実家暮らしをしている彼と、会社まで三十分圏内で一人暮らしをしているわたしでは、生活のリズムがそもそも違った。

 それを理由に、わたしの部屋に拠点を移そうとし始める彼と、パーソナルスペースを守りたいわたしのあいだで、次第に剣呑な雰囲気が漂っていく。


 仕方なく仕事の忙しさを言い訳に、少しずつ距離を取り始めると、彼はそれまでとガラリと態度を変えて、ことあることに難癖をつけるようになった。


 曰く、仕事が遅い。人に任せればいいことまで手を出している。

 お前のそれは頑張っているわけではなく、要領が悪いだけだと。


 言われている言葉がいちいち尤もなので反論せずにいると、今度は積極性のなさを咎められる。

 そのたびに、わたしは自分の内側にある小さな声を押し殺し、正解のないやりとりに消耗する日々が続いた。


 これ以上彼といるのは限界だと判断し、別離を告げようと決めた秋の終わり。

 それを察したのか、亮平から「お前と付き合ったのは時間の無駄でしかなかった」と先に別れを告げられ、ほっと胸を撫で下ろした。

 今にして思えば、合鍵を最後まで渡さずに済んだのは、賢明な判断だったと思う。

 ……でも、それを賢明と呼ぶのは、悲しいことなのかもしれない。


 床を丁寧に磨き終えると、窓から差し込む冬の光が反射して、もやもやしていたこの数日間が、乾いたフローリングに吸い込まれていく。

 

「はあ……今日もがんばった」


 まだ午後三時だけど、今日は出かける予定もないし、タブレットを手に取り、社内ポータルへログインする。

 部屋の中には、エアコンの微かな風の音だけが流れていた。



 わたしの数少ない趣味のひとつは映画鑑賞だ。

 ヒューマンドラマからアクション系大作映画、恋愛映画ももちろん好きだし、サスペンスや静かな単館系の作品もお気に入りがいくつもある。

 映画に没入し、現実から少しだけ逃れる時間が、今のわたしにはちょうどよかった。


 ポータルを開くと、映画部の専用チャットが更新されていた。知らない誰かの声が、向こう側から静かに届く。

 ここは社員同士で作品を勧め合う、いわばアペックス版映画好きコミュニティだ。

 グループ全体の社員なら誰でも参加できる仕組みで、登録者数はかなり多いが、熱心に投稿しているのは一握りだった。


-Hana:気分が落ちてるときに観られる、静かな映画ってありませんか?


 社内ポータルとはいえ、ここでは部署名やフルネームは出さない。

 名字で登録している人も多いが、「佐々木」はすでに何人もいたため、少し悩んだ末に「Hana」という名前で参加している。


 今日はコメディで笑い飛ばしたい気分でも、アクションを観る気力もない。

 けれど、静かな映画というのはタイトルや紹介文だけでは判断が難しい。

 少し間を置いて、コメントを付け加える。


Hana:できればコメディよりも、余韻重視の作品が嬉しいです。


 呟くように書き込むと、数分もしないうちに、十件ほど返信が届く。週末だからか反応が早い。大半はいつものメンツだ。

 会ったことはないけれど、こうして何度も会話をしていると、昔からの親しい友人と話しているような気がして安らぎを覚える。


― 〈リトル・フォレスト〉

 静かに泣けるよ。食べること、暮らすことがこんなに優しい映画ってなかなかない。


― 〈オン・ザ・ロック〉

 会話も映像も静かで、余韻が長く残る。孤独を抱えた夜に合いますよ。Hanaさんが好きそうな感じ!

 コメディジャンルにされるけど、わたしはヒューマンドラマだと思ってる。


― 〈東京物語〉

 モノクロだけど、静けさが沁みます。心を落ち着けたいならぜひ。


 みんながそれぞれに思いつく作品を挙げてくれる。既知の作品もあれば、タイトルしか見たことのないものもある。

 温かいコメントに励まされながら、どれにしようかと迷っていると、ひとつの短い返信が目に留まった。


Kaji:静かな映画なら、『あかり日』かな。

 構成が音楽みたいで、余白が美しい作品。

 少し悲しいけど、終わったあとも静かに残る映画です。


 急に目に飛び込んできたその名前を、吸い寄せられるように見つめた。


 ……Kajiさん。

 過去に何度かお世話になった、サポートセンターの担当者と同じ表記だ。


 ……このKajiさんは、もしかして、あのKajiさんと同じ人?

 それとも、ただの偶然だろうか。


Hana:ありがとうございます。皆さんのおすすめ、どれも気になります。

 知らない作品も多くて嬉しい。

 気になったものから順番に観てみますね。


 チャットを閉じて、キッチンから白ワインと、蜂蜜を垂らしたブルーチーズ、オリーブのマリネ。それから小さく切ったバゲットとカットフルーツを運ぶ。

 高カロリーだけど、おしゃれで可愛いは正義。

 ……一人の週末にはこんな時間が必要だと思う。


 勧められた作品をスマホでレンタルし、テレビに繋げると、映画の始まりと共にテーブルの上の影がゆっくり動いた。

 部屋の明かりを落とし、ソファに身を預ける。


 Kajiさんのおすすめは、静かな余韻を感じさせる映画だった。

 音が少なく、構図のひとつひとつが呼吸しているように見えた。

 静けさの中に、微かな呼吸音と心臓の鼓動だけが残る。

 物語が終わる頃には、頬を伝う涙に気づいていた。

 仕事の疲れも、胸の奥に溜めていた小さな痛みも、そのまま映像の中に吸い込まれていくみたいだった。


 お風呂に入り、映画の余韻が残ったままの頭で、再びチャットを開き、今日観た二作品の感想を書き込んだ。


Hana:

 > レイさん

 『オン・ザ・ロック』は会話のひとつひとつが胸に刺さりました。おすすめ、ありがとうございます!

 主演が好きな俳優なのも嬉しかったです。


 > Kajiさん

 『灯り日』は普段の自分なら選ばないタイプの作品でしたが、余韻が心地良くて泣きました。

 映画の構成なんて意識したことなかったから、新しい発見です。

 ありがとうございました。


 その夜は、久しぶりに安心してぐっすり眠れた。

 仕事の疲れも、嫌なことも、全部が夜の底に沈み霧散して、気持ちのいい目覚めを迎えた。

 ……けれど、お昼に再び映画部チャットを開いたとき、通知に気付きドキッとする。


Kaji:せやろ?

 映画の楽しみ方って、ひとつやないねん。


 その関西弁の一文を読んだ瞬間、サポートセンターで見かけた「Kaji」の文字が、くっきりと心に浮かび、温度を持った。


 この人って、もしかして……。


 タブレットのディスプレイを見つめながら、わたしは小さく息を呑んだ。

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