1st Code:顔も知らないこの人だけが

全部、荷が重い

 ガラス越しの光が、書類の束を淡く照らしている。

 積み上がったそれらを眺め、わたしは小さく息を吐いた。

 午前中のトラブルが尾を引いていて、ランチを取る時間はない。引き出しからエネルギーバーを取り出し、一口かじった。


 昼下がりのオフィスは、一日の中でいちばん静かだ。

 コピー機の音だけが一定のリズムを刻み、午後の始まりを告げている。

 紙が排出される音を聞きながら、ほんの少しだけ息をつきたくなり、窓を見る。厚い雲が、遠くまで広がっていた。


 視線を下ろすと、眼下には天王洲ベイフロントの街並みがゆるやかに広がっている。

 ガラス張りのビル群のあいだを、首都高が白い線を描くように走り、その先には、運河沿いの倉庫街と、陽を反射する水面が見えた。


 入社して四回目の冬が、もうそこまで来ている。

 仕事の流れには慣れても、毎日が慌ただしく過ぎていくのは、新卒の頃とあまり変わらない。


 わたしが勤めるアペックスリンクスは、日本有数の複合企業コングロマリット、アペックスホールディングスの関連会社で、グループ全体の管理やサポートを専門にしている。

 入社してからずっと総務課にいて、契約や備品の手配、勤怠システムの運用など、いわゆる縁の下の仕事を任されている。

 華やかさはないけれど、誰かの一日の始まりと終わりを、少しだけ整えるこの仕事が、わたしは嫌いではなかった。


 コピーした紙束を整理していると、社内チャットの通知音が立て続けに鳴った。

 嫌な予感に慌てて自席に戻り、画面を開くと、勤怠システムが真っ白になっている。

 動いていないというより、考え込んでいるかのように、時を止めていた。


〈勤怠が打刻できません〉

〈システム止まってます?〉

〈給与締めの確認どうしますか〉


 マウスのトラックボールを親指で回しても、反応しない。


「佐々木さん、システム、今朝更新してたわよね?」

「はい。ただ、バックアップから戻す時間はないので……こちらですぐに対応します」


 チーフの質問を受け、わたしは息を詰めたまま、社内グループ『ITサポート』に打ち込んだ。


佐々木:お世話になります。リンクスの11階フロアで、勤怠システムが全端末で固まっています。確認お願いします。


 送信して数秒。

 画面の小さな吹き出しが「入力中」に変わる。


Kaji:一次切り分けを行いますので、しばらくお待ちください。


 担当者名を確認し、思わず安堵の息をついた。

 今日の担当は、仕事ができるサポーターさんだ。

 たまにしか遭遇できないけれど、知識の幅が広く、安心感が違う。


Kaji:お待たせしました。京都側のサーバーで負荷が跳ねてますね。ETA五分で復旧見込みです。端末はそのままで大丈夫です。


佐々木:ありがとうございます。社員へ周知します。迅速なご対応に感謝します。


Kaji:こちらこそ、早めの報告で助かりました。


 ほう、と息をついてから「五分で回復するそうです」とフロア全体に周知する。


「よかったですね。対応早くて」

「担当者がね、仕事ができる人だからラッキーだった」

「ああ、サポーターガチャはあるあるですよね。原因はわかったんですか?」

「うん。うちの問題じゃなくて、サポートセンターのトラブルみたい」

「へえ。サポセンってどこにあるんでしたっけ?」

「何年か前に京都に集約したらしいよ」


 京都という地名を言葉にした瞬間、学生時代、四条烏丸で食べた湯葉まんじゅうを思い出す。

 石畳の街の静かな空気が、胸をよぎった。

 ……京都なんて、随分行ってないなあ。


「意外と本社と離れてますね」

「以前は各ビルごとにサポートを置いてたんだけど、数年前から全社のサポートがそこに一本化されてるの」

「全社ですか? トラブルが重なったら大変そう」


 確かに、グループ全体で数万人が勤める会社のサポートなんて、どれほどの気苦労だろうか。

 わたしなんて、自分の担当分だけで四苦八苦しているというのに。


「あ、そういえば、わたし先輩に質問があるんですけど、いいですか?」

「もちろん。どうしたの?」

「今月の備品予算なんですけど……」


 彼女は、引き出しからファイルを取り出して広げた。


「コスト優先のA案と、現場優先のB案、どっちで行くべきだと思います?」


 資料を覗くと、A案は安価なノーブランドのデスクチェア。

 数が揃うぶん、確かに予算は圧縮できる。

 B案は倍の値段だけど、長時間座る現場では評判のいいモデルだ。


「うーん……」

「どっちかに決めないと、今日中に発注が間に合わないらしくて……」


 小林さんは、期待の目でこちらを見る。


「そうだなあ……どっちも、じゃ……ダメ?」

「えっ、どっちも、ですか?」

「うん。現場優先の部署にはB案。在席時間の短い部署にはA案。

 使う人の時間が違うなら、椅子に求める役割も違うでしょ?」


 小林さんが、目を丸くする。


「そんな分け方、考えたこともなかった……!」

「悩んだときは、どっちかだけって前提、外してもいいんじゃないかな」


 そもそも昔から、二択を迫られるのがどうしても好きになれない。

 選んだ瞬間に、何かを切り捨てた気がするから。

 ……こういう性格、優柔不断って、元彼にはよく怒られたっけ。


 嫌なことを思い出していたら、小林さんの目の前の電話が鳴った。


「はい、総務の小林です。……ええっ?」


 声の大きさに、嫌な予感で様子を見守る。

 電話を切った彼女が、眉を下げてわたしを見た。


「佐々木先輩、総務サポの子、契約書を間違えて旧バージョンを提出しちゃったって連絡が……」

「えっ、どの契約書?」

「たぶん、お昼前に法務に回したやつです」


 一瞬で背筋が冷える。

 その書類は、午後に役員確認が入る重要案件だった。


 わたしは即座にファイルをつかみ、モニターをスリープにして、壁時計を見る。


「ちょっと法務に行ってくる。悪いけど、しばらくここは任せていい?」

「了解です!」


 今日おろしたばかりのヒールの音が床を打つたび、フロアの空気が冷たく動いた。

 新しい靴を買っても、踵がすぐにすり減るのは、間違いなくこの環境のせいだ。

 自分のミスより、誰かのミスで走り回るのが当たり前。それが、総務の通常営業だから。


 エレベーターの数字がゆっくり下がるあいだ、心を落ち着けるために、息を深く吐き出した。



「……では、失礼します。ありがとうございました」


 書類の差し替えは、ぎりぎり間に合った。


「こちらこそ、佐々木さんは対応が早いから助かるよ」


 法務担当の言葉に頭を下げながら扉を閉め、ほっと息をつく。

 コーヒーでも買いに行きたいけれど、そんな時間はあるだろうか。

 なんとはなしに窓を見ると、曇り空が広がり、ぽつぽつと雨が降り出している。


「嘘でしょ……」


 天気予報は当てにならない。

 こんな日に限って傘は持っていない。真新しい靴は、ますます傷んでしまいそうだ。

 ガラスを叩く雨音が、静かなオフィスの残響をさらっていく。

 水滴が流れ落ちるたび、都会の光がゆがんで見えた。


 ため息とともに一歩踏み出そうとした、そのとき。


「お、花じゃん。法務に何の用事?」


 背後から不意に声をかけられ、ぎくりと体がこわばる。

 無視して通り過ぎたいのに、名指しで呼ばれてしまったら、素通りできない。


 ゆっくりと振り向くと、予想通り、営業部の森下亮平が、にやにやとした顔で立っていた。

 長身を包む細身のスーツと、よく磨かれた靴。そのすべてが、無言の圧を放っている。


「仕事です」


 顔を伏せて答える。


「相変わらず、他人の尻拭いしてんの?」

「……尻拭いなんてしてません。仕事をしてるだけなので」

「えらいえらい。ほんとに花は真面目だねえ」


 その声に、空気がぴんと張りつめるのを感じた。

 一見褒めているようで、馬鹿にしたその態度に、心をガリッと削られる。

 一年前に別れて以来、彼は会うたびに、こうして嫌味をぶつけてくる面倒な存在になっていた。


「な、名前で呼ぶの、やめてほしいです……」


 声が、少しだけ震えた。

 それを面白がるように、彼は薄く笑う。


「なんで? 俺とお前の仲じゃん」

「……用がないなら、失礼します」


 これ以上こじれたら、セクハラ窓口一択だ。

 だけど、そこまでの深刻さはないからこそ、余計に面倒くさい。


 書類を抱え直し、足早に歩き出す。

 心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳に響いていた。


 ……誰かに反論するのも、険悪になるのも、わたしには全部、荷が重い。

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