顔も知らないこの人だけが

 外気が肌を刺すようになった。

 寒さに強い雪国出身のはずなのに、東京の寒さは質が違うのか、何年住んでも体に馴染まない。

 底の浅い冷えが、いつの間にか体の芯までじわじわと染みていく。

 外から戻った指先は冷たく、キーボードを叩くのも動きが鈍る。

 ……紅茶でも飲もうかな。

 立ち上がり、すぐそばの給湯室のドアを押すと、コーヒーの香りと笑い声がふわりと広がった。

 遠目から見る姿で、そこに集う三人の女性が、経理課のメンバーだと気づく。


 昨日依頼された支払い処理の締切は今日。

 午前中に片づけたかったけれど、まだ手をつけられていなかった。

 声をかけるタイミングを探しながら、先に目的の戸棚を開ける。


「……だよねー。あ、それなら、総務の佐々木さんこそザ・真面目じゃない? 昨日も支払い処理を押し付けたら笑顔で受けてくれたし」

「あはは、押し付けるって何よ。かわいそう、佐々木さん」

「支払い処理なら総務の範囲だし、振っても良いと思うけど?」


 会社用に置いておいたマグカップを取り出すだけのつもりだったのに、耳が自分の名前を拾った。

 直後、意図せず動きを止めてしまう。


「でも、あの人って、自分から仕事を背負いにくるときあるよね?」

「わかる! 昇進試験のための『わたしがんばってる』アピールだったりして」

「お、佐々木花は意外と腹黒い説」


 一瞬、時間が止まったようだった。

 それはただの軽口で、きっと悪意を込めたものではない。

 それなのに、言葉が胸に届いたときには、しっかり刃になっていた。


 笑って流す強さがあればと思うのに、いつだったか亮平に言われた『お前のがんばってるアピールうざい』という嘲りと重なって、奥歯をぎゅっと噛み締める。

 まるで、あの頃からずっと抜けない氷の棘を、もう一度噛みしめているみたいに。


 笑い声が遠ざかり、給湯室の空気だけが急に冷える。

 マグカップを握りしめたまま、床に視線を落とした。


 ……そんなつもりじゃ、ない。

 だけど、何が正解なのか、いまだにわたしにはわからない。


 反対側の出入り口から、去っていく足音と笑い声が廊下に響くのが聞こえる。

 顔を上げられず、足元のタイルを照らす蛍光灯の白光を見つめた。

 光の白さが、なぜか目に反射して痛かった。



 朝の会話を引きずったまま仕事に没頭しているうちに、退勤時刻が近づいた。

 「じゃあ、お先に」と小林さんに声をかけて立ち上がる。


「今日、早いですね」

「うん、たまには早く上がりたくて」


 そのとき、反対の島から若手社員が顔を上げた。


「佐々木先輩! 勤怠承認の取り込み、止まってます!」

「えっ?」


 疲れた体を動かして彼のデスクに駆け寄る。


「どの端末?」

「全部です。ログ見たらジョブ実行エラーって出てて……」


 ジョブ実行エラーの文字を見た瞬間、息が詰まり、うまく言葉にならない。

 締切は翌朝十時。明日の対応ではとても間に合わないだろう。


「……再実行できる権限は?」

「植田チーフしか……今日有休なのに……」


 沈黙が落ちた。

 わたしの職位はいま、P2。

 入社四年目でこの職位は平均より上だが、上級職でもなんでもない。

 それに本来なら、こうしたシステムトラブルの対応はL職リーダーの仕事だ。

 だが、このまま放っておけば誰もが困るのは目に見えている。


 この場で唯一のL職である片桐チーフが腕を組み、「困ったな。俺、七時から本店で会議なんだ」と時計を見た。

 本店とはホールディングスの大手町拠点を指す。あと三十分で出ないと間に合わないが、その時間では原因を調べるのすら難しいだろう。


 ……誰かがやるしかない。けれど、それをやりたがる人はいない。


『わたしがんばってるアピールだったりして』


 頭の奥で、さっきの言葉が響く。

 ……違うの。そんなつもりじゃない。

 でも、誰かが困っている状況で、自分にできることがあるのに、それを無視することがどうしてもできない。


 それをしたら、わたしがこの場所で仕事を続ける理由が見えなくなりそうで、怖い。


「……わたし、植田チーフの操作ログを見たことがあります。確認してみます」

「ありがとう、佐々木さん。本当に悪いけど、よろしく頼むよ」


 チーフのほっとした顔に曖昧に微笑み、端末を立ち上げた。


 定時を三時間過ぎたオフィス。

 灯りは半分落ち、エアコンの音とファンの唸りだけが響く。

 デスクの間に人影はなく、椅子だけが中途半端に引かれていた。


 勤怠データの再取り込みを試みると、少しずつエラーは減るが、一部の承認ログが壊れている。


「いつまでかかるんだろう……」


 何もかもが虚しくて、マグカップに手を伸ばすが、コーヒーはもう冷めていた。

 それでも、給湯室まで行く気力はない。


 何度目かの更新をかけたとき、急に画面が切り替わった。


「……あれ?」


 セッションが切れ、再ログインを求められる。

 パスワードを入力しても、なぜか弾かれ、「アクセス制御により接続をブロックしました(ERR-403)」と赤文字が点滅する。


「うそ……でしょ?」


 リロードしても変わらない。

 キーボードを握る手が震え、涙がにじむ。


「ログイン、できない……なんで、こんな時間に……」


 チャットサポートを開くが、灰色の帯が出た。


『※本日のサポート対応は終了しました。翌営業日に順次ご連絡いたします』


 冷たい文面が夜の静けさに重なる。


「翌営業日じゃ、間に合わないんだよ……」


 勤怠承認のジョブは日付を跨ぐと再実行できない。

 全データを再構築するとなれば、復旧に数日かかる。


 どうしよう、どうしたら。

 『何かあったら連絡して』と言っていたけれど、片桐チーフの電話は繋がらないし、SNSも既読にならない。


 どうしていいかわからず、震える指を抑えることもできないまま、衝動的に受話器をとった。

 数回のコール音。

 ププッという音に身体が強張った直後、


「お電話ありがとうございます。アペックスサポートセンターの梶です。こちらは、案件番号INC-1345-726としてお伺いします」


 ──繋がった。


 落ち着いた男性の声が耳に届く。

 自動音声じゃない、生の声。

 受話器の向こうに、誰かの息遣いがあった。


「……か、かじ……さん?」

「はい、梶です。何かお困りでしょうか?」

「……っ……き、勤怠承認が……」


 繋がってほしかった。

 でも、本当に繋がるとは思っていなかった。

 そしてそれ以上に、いま、この瞬間に頼れる人に出会えたという安心感にほっとしたら、涙が溢れだした。


「ご、ごめんなさい……っ……う、うまく……言え、なくて……」


 いい大人なのに、なんてみっともないんだろう。

 恥ずかしさと自己嫌悪で、泣き止まなくてはと思うのに、却って呼吸が乱れる。


 そのとき、受話器の向こうで息を吸う音がした。


「無理せんと、深呼吸してください。まだ時間はありますから。落ち着くまで、なんぼでも待ちますよ」

「……っは、はい……」


 そのやさしい声音に、張り詰めていた心がたしかに緩まった。

 言われるまま呼吸を繰り返すうちに、ようやく声が出せるようになった。


「あの……リンクス総務部の佐々木です。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

「もう大丈夫ですか? そしたら、慌てずゆっくりと問題の要点を説明してもらっていいでしょうか?」


 深呼吸をひとつ挟み、状況を整理するように言葉を紡ぐ。

 ブラウザのセッションが切れたこと、再ログインしても弾かれること、他の端末でも同様のエラーが出ていること。


 梶さんは柔らかい声音で指示を出した。


「では、ブラウザのキャッシュをクリアして、SSOセッションを再発行してください。TTLが切れてるかもしれません。端末認証の再送はそのあとで大丈夫です」


 再起動、キャッシュのクリア、端末認証の再送。

 その一つひとつが、暗闇の中の道筋を照らすように思えた。


「……で、できました! ありがとうございます……!」


 業務が無事完了した嬉しさで、伝わるはずもないのに思わず頭を下げる。


「こちらこそ。リンクスの総務さんは、いつも丁寧な対応で助かります」

「丁寧……ですか?」

「部署によっては、怒鳴り散らす人もおりますからね」

「ええっ。嘘ですよね!?」

「ほんまですよ。まあ、全部ログ取ってますし、酷いのは上に報告しますけどね」


 茶目っけを含んだ関西訛りの言葉に、小さく笑いが漏れた。

 こんな夜に笑える自分に驚きながらも、涙の痕がまだ頬を濡らしている。


「あの、先ほどは見苦しい態度で……大変申し訳ありませんでした」

「見苦しくなんかないですよ。つらいときは、泣いた方がええんやないですかね。溜めるよりマシでしょ」


 ──……それは、今日一日、誰からもかけられなかったやさしい言葉で、きっと、ずっと欲しかった赦しの言葉でもあった。


 ……顔も知らないこの人だけが、どうしてわたしにそれを与えてくれるのだろうか。

 なんでもないことのように伝えられた温もりに、またも涙目になりそうで、瞬きを繰り返す。


「……ありがとう、ございます……」


 思いだけでも伝えたくて、掠れそうな声を絞り出した。

 受話器の向こうで、ふっと笑う音がする。


「……こちらこそ。よう頑張りましたね。それじゃ、ゆっくり休んでください。

このお電話は、サポートセンターの梶が承りました」


 通話が切れると同時に、夜の静けさが戻る。

 けれど、耳の奥にはまだ、彼の声の余韻が残っていた。


 パソコンの電源を落とし、夢のような時間を反芻するうちに、はっと我に返る。


「……あれ? いまの人、『かじです』って言ってた……?

 え、言ってたよね? ど、どうしよう……」


 思いがけず、気になっていたKajiさんとの遭遇。

 電話の余韻と、今日の疲れと、胸の中に残る温かさで顔が急に熱くなる。


 誰もいない静かなフロアで、しばらくの間、わたしは頭を抱えて悶えていた。

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