第27話

 コロナ関連のニュースに隠れてあまり目立たないが、このところ日本各地で小さな地震が続いている。気がついたのは定期的に気象サイトをチェックしているせいだ。最近地震情報がまめに更新されている。もちろん今はマグニチュード、震度ともに弱いサイズだが、どうやら専門家の間でも危機感が上がっているらしい。そのうち国民全体にも広がっていくだろう。何より怖ろしいのはコロナと地震のダブルインパクトだ。そうなったら日本の経済はもちろん、医療・交通も絶たれる。まさにライフラインを失ってしまうだろう。それにしても日本政府の対応は後手後手だ。体面ばかり気にしてリスクを背負う気概が感じられない。そのくせ負担を一部の国民に背負わせている。場合によっては素人でさえ分かる初歩的ミスすらする。この状況で先程のダブルインパクトが来たら、おそらく政府は自ら空中分解を選択して「致し方なし」を決め込むだろう。これまでもそうであったように。

 世間人はそんな政府を最初から見限っている。政府とは利権と多数決でしか動かないものと決め込んでいる。そしてまたそんな世相が政府を限りなく遊離・増長させていく。教育が方向性を失くしてから久しい。皆が幸福を常日頃から口にしながら、その実本気でそれを問い直そうとはしない。要は自分とその周囲のことだけ。しかもその範囲内ですら本当の心の交流を持つまでは至っていない。一億総ひきこもり。

 その時不意に携帯が鳴る。私はそれに人知れず驚く。手を伸ばそうとして一旦止める。今度は何だ?何が起こったと云うんだ?私は臆病になっている自分に気がつく。そしてそんな自分を嗤いながら携帯を手に取る。

 画面を開くとそこにはまさに現在進行形の映像が映し出される。どこか分からない。浜辺から映された海の映像だ。潮騒の音さえ流れている。しかし不思議と私はそこに時間を感じることができない。いや、それどころかその場所さえも何処か分からない。まるで「海」「浜辺」と云うカテゴリーで人工的に構成されたCG映像のように。だが一方でその色は鮮烈だ。それ自体が生き物であるかのように刻一刻と表情を変える。

 これは…。

 私はそこで気がつく。これ自体が「青いチケット」ではないか。私の中に潮騒の音が少しずつ入ってくる。私はそっと目を閉じる。それでも私の中では確かにさざ波の音が響いている。

 このままこの音に身を任せてしまいたい。私は考える。そうすれば全てが一旦リセットされ、浄化されると思う。しかし…。まだだ。まだ私にはやり残したことがある。このまま浜辺に下りるわけにはいかないのだ。

 私は渾身の力を振りしぼって目を開ける。瞬間激しい頭痛がする。いや、眠気と云った方がいいかもしれない。私は頭を振る。そして意識を継続させるために周りの状況を確認する。室内にはやはり誰もいない。私は携帯を手に取り、既に動画が消えていることを確認して電源を切る。途端に虚無にも似た静寂と、次には冷めていく郷愁のような淋しさが残る。


 本社の神川がコロナに罹患した。そして三日後に状態が急変して今は集中治療を受けているらしい。本社は社屋の除染作業に追われ私にも助けを乞うてきた。私は久々にスタッフたちと顔を合わせる。

「部長はどこで感染したんだろう?」

「分からないですね。保健所はとにかく徹底的に消毒しろと」

「他に感染者は出してないんだろ?」

「前に来てた学生アルバイトが一人。そいつは既にホテルで隔離状態ですから」

 松尾が言う。「保健所もてんてこ舞いらしいですよ。一人一人感染経路を辿らないといけないから」

「まあ、そうだろうな。でもそのうちそれも追いつかなくなる」

「もう既になってますよ」

 松尾は無造作に言う。「部長も感染が分かった時は自分でどこでうつったのか分からないって言ってましたからね」

「こっちの業務の方はどうなってる?」

「完全ストップです。この先どうなるかも見当がつきません」

「お互いにやれやれだな」

 私たちはそれから黙々と保健所から指示されたように除染作業にかかる。単純作業で尚且つ時間を決めてやっているのでそれなりに体力、気力を使う。そのうち息も上がってくる。何だか久し振りに運動をした気分になる。

「不謹慎かも知れんが、たまには身体を動かすのもいいな」

 私が言うと周りのスタッフがそれぞれに苦笑を浮かべる。

「そう云えば河野さん。奥さんはお元気ですか?」

 女性スタッフがそう訊くので私の心は一瞬止まる。+

「ああ、相変わらずだよ。自由気ままだ」

 私は平静を装って返す。すると松尾がいつものスタッフジャケットを羽織りながら言う。

「いつだったかなあ、ご自宅の近くで見ましたよ。時々戻ってきてるんですね、奥さん」

 私はその言葉に衝撃を受ける。

「ん、ああ。それいつぐらいの話?」

「十日ほど前かなあ。僕もプライベートだったんで声までは掛けませんでしたけど」

 十日?ちょうど妻が姿を消した頃だ。

「時々用事があって戻ってるんだ。家のこともあるしね」

 私は自分の動揺を必死に抑えながら言う。

「じゃあ、とりあえず元気でな。ご家族にもよろしく」

 私は皆への挨拶もほどほどに会社を出る。

 妻がこっちに来ていた?あれからもちろん私には何の連絡もない(彼女のスマホはそのままマンション自宅にある)。それどころか、彼女は私の知る限りほとんど着の身着のままいなくなってしまったはず。一体どう云うことだ?

 私は自宅の一軒家に向かう。妙な胸騒ぎがする。期待と不安だけではない、何か空恐ろしいものすら感じる。行き慣れた道を通り、自宅のある集合住宅に繋がる細い車道を上がっていく。そして自宅が見えるところまで来ると私はそこで改めて息を飲む。

「明かりだ…」

 私は車を止め、バックミラーで自宅の灯火を見る。間違いない。誰かが私を待っているのだ。私はゆっくり車を降り、そして自宅玄関の方に回る。カギ穴にカギを差し入れ、ドアノブを回す。

「ただいま」

 思わず自然とその言葉が出る。「あ」

 しかしそこにいたのは妻ではなく、また当然そこにいるはずの者でもなかった。


「そこで何をしてるんですか?」

 私は思わず声を荒げる。と同時に周りの様子にも神経を尖らせる。組織的な犯行の可能性さえある。失敗した。少なくとも縁側から中の様子を確認するべきだった。

「何って…」

「これは明らかに不法侵入ですよ、おばさん」

 私は相手の名前を忘れていた。私は改めて相手を見る。小柄で、実際の年齢より十歳近くは老けて見える顔。そしてどこか日常から浮遊したかのような物腰(実際私は以前から認知症を疑っていた)。

 そう。この人は近所に住む妻の知り合い。私も勿論顔を合わせたことはあるが、正直良い印象は持っていなかった。理由はやはりその正体不明な感じだ。私は居間で周りの気配を窺いながら年老いた隣人に語りかける。

「もう一度聞きます。ここであなたは何をしてたんですか?」

「エミちゃんがここに…」

「?」

「エミちゃんが今までここにおったんよ」

 老婆はいささか呆然とした様子で応える。テーブルには見覚えのあるカップが一つ。私としては疑念を抱かざるをえないが、無闇に相手を追い詰めるのは得策ではないと考える。どうやら屋内に他の侵入者はいないようだ。

「事情をゆっくり聞かせて下さい」

 私も老婆の近くに座る。老婆は私の当初の剣幕に押されてか幾分震えている。

「あんたが帰ってきた途端消えてしもうた。でも本当にさっきまでおったんよ」

「まずは落ち着きましょう」

 私は努めて穏やかに返す。「決して悪いようにはしませんから」

「エミちゃんは私と一緒におったんよ。でももう隠れてしもうた」

 老婆は萎(しお)れた様子で言う。

「妻とは何処で会ったんです?妻はここに一人でいたんですか?」

 すると老婆は頭を振る。

「違う?じゃあ、どこで」

 私は尋ねる。

「…エミちゃんが私の家に来るようになった。来る云うても最初は声しか聞こえなんだけど、じきに私には見えるようになったんや」

 関西訛り。この人、地元の人ではなかったのか?

「見えるようになった?あの、それというのは…」

「エミちゃんは薄っぺろうなってしもうたんじゃろう」

 そう言うと老婆は私の顔をしっかりと見た。そして私はそこで気がついた。老婆の両目が白く濁っていることを。

「おばさん、その目は?」

「それから私はエミちゃんにこの身体を貸して、エミちゃんは私の目になってくれとるんじゃ」

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