第28話

 私は老婆を彼女の自宅まで送っていき、その帰りに大家のところに寄る。

「あのおばさんは今も一人で?」

 私はお無沙汰の挨拶をして大家に質問する。今はお互いにマスク越しの会話だ。

「ええ。白内障がひどくなって施設に入る話もあったんだけど、やっぱり住み慣れたところが良いって」

「最近家の女房が来てました?」

「さあ、どうだったかしら。私はお見かけしてないけど、そう云えば娘がお宅に明かりが点いてるのを見たって言ってたかしら」

「そうですか」

「どうかしたの?」

「いえ」

 私は笑顔を返す。「女房があのおばさんの事を気にしてましてね」

「大丈夫よ。こちらでちゃんと面倒は見させてもらってるから」

 私は大家に礼を言って暇を乞う。そして再び無人になった自宅に戻る。平屋の一軒屋。マンションより狭いが私にとってはよほど落ち着く場所だ。

 私は老婆が言った言葉を反芻する。エミ…妻は薄っぺらくなった。そしてその妻に老婆が身体を貸している?

「声だけ?でも何故あいつはここに?」

 私の中に次々と疑問が渦巻く。そして程なく最後の問いに行き着く。

 あいつはもう死んだのか?

いや、そんなはずはない。鷺谷に言われてから私はあいつの存在に耳を傾けた。そうだ、ここにだってまだあいつの存在がそこかしこに残っているはず。私は改めてこの平屋住居の中を見て回る。同棲から数えて3年近く棲んだ家。今もいつかはまたここに棲もうと荷物の半分は残したままなのだ。

 外で何か物音がする。まさかとは思うが、ガラス越しに覗いてみると外に猫がいた。よく見ると以前家(うち)に何度かやってきていたオス猫だ。濃い灰色なので今にも宵闇に紛れてしまいそうだが、猫もこちらに気がついてか下からこちらを見上げている。私は以前からあまり猫を好かない。向こうもあまりこちらに懐かないし、実を言うと子どもの頃野良猫に手を出して指をしこたま噛まれたことがあるのだ。私は部屋に戻り布団を敷く。今日はとにかく疲れた。久々に肉体労働をし家に帰ってからは思わぬ闖入者に仰天した。もう何モノにも神経を刺激されたくない。全く冗談じゃない。私はさっさと電気を消し、久々の我が家で寝に入る。


 私は真夜中に目を覚ます。何だ、この感覚は?ここは…ここはまるで廃墟だ。私は思う。ここには過去の時間しか流れていない。寒い。しかし私は明かりを点けることができない。何故ならそこに何者かが潜んでいる気配がするからだ。我が家は今や孤立した廃墟と化した。そしてその間隙を突いて何モノかが私をこの廃墟の住民にしようとしている。

「…」

 声がする。ケモノではない。何かを呟いている。

「どこに…行っても…皆おんなじ…」

 ?

「人も物も…ガラクタ…ばかり」

 まるで謳うように呟いている。誰だ?何故私にそんな歌を聴かせる?

「どこに…行っても…結局おんなじ…」

 やめろ。

「人も物も…」

 やめろって。

「ガラクタ…ばっかり」

 やめろって言ってるだろう!

 私は目を開けると同時にハッとする。急に自分の中に現(うつつ)が戻ってくる。まるで自分の体温が戻ってくるように。

 一体何だったんだ?私は起き上がって周りを見る。間違いない。自分の家だ。しかし記憶の中にはしっかりと先程の呟きと不気味さが残っている。夢とは決して思えない。あれが夢なら私の感性はすでに摩耗していると云ってもいい。

 外はもうすっかり明るい。午前中のうちにF支店に戻っておきたい。私はそそくさと支度をする。正直今はここに長居したくない。家に施錠して外に出る。老婆の事がふと気にかかる。彼女の言うことが本当なら妻は老婆に何かを残しているはずだ。それが何かはよく分からない。だがそれも妻の存在に関わるものであることは間違いない。

 私は車を発進させる。まあ、いいだろう。異変は宮前だけではなく、ここでも起きていると云う事だ。私にはこれが個人レベルで収まる気がしない。車は見慣れた風景を掠めながら一路最寄りの高速入口に向かって走る。私の理解の届かないところで事態は進んでいく。周囲のほとんどもまだそれに気がついていない。私は変異の影だけを追いながら当て所もなく徘徊するしかないのだ。


 森川遼太郎からの連絡が入ったのは宮前に戻った翌日だった。相手は彼の秘書を名乗る男だった。

「河野さんですね。こちらは森川遼太郎県議会議員事務所と申します。実は折り入ってお願いがあってご連絡致しました」

「森川遼太郎…、はあ」

 そう応えながらも私の頭は上手く機能していない。森川?県議会議員?

「是非近くお会いできないかと森川が申しておりまして」

「私に?どんな御用で?」

「多分、お嬢様の事かと」

「…」

 お嬢様?あ…。「もしかして森川千尋さんの…」

「ええ。是非お会いしたいと」

「千尋さんがどうかされたんですか?」

「いえ、特には」

 相手は返すが、明らかに含みを感じる。

「そうですか。ただこのコロナ禍ですから、直接お会いするのはどうなんでしょう?」

「そうですね。よろしければインターネットを使った会議システムを使わせていただくこともできますが」

「そうですね。でしたらこちらも時間の調整もつけやすいです」

 私は秘書からの依頼を受けて電話を切る。何てことだ。私は今更ながらに呟く。森川遼太郎。千尋の兄は、あの県会議員「森川遼太郎」だったのか。今頃になってそれに気がつくなんて、全く俺はどうかしている…。

 私は一人マンションで自分に愛想を尽く。しかし今はそんなことに構っていられるわけもない。このところ安川からの連絡は入ってこない。流石に役所にとってもこのコロナ禍は地域行政の在り方そのものを揺るがしかねない状況になってきているのだろう。今一番のテーマはもうそこまで忍び寄っている医療崩壊の危機だ。地方では相対的に高齢者の割合が大きい。と云うことは罹患した場合はそれだけ重症化のリスクも抱えていると云うことだ。現に私の上司の神川はまだ集中治療室に入っている。もし彼の身に何かあったらやはり会社にとっても打撃は大きい。私の今後の仕事についても影響は免れられないと思う。おそらく今日本が、世界が同じような状況に陥っているのだと思う。これまでの日常が日常ではなく、別の日常へと変貌していく。しかもそれが多元的な意味合いを持って。

森川遼太郎は一体私に何の用があるのだろう?思いがけない前回の初対面では、妹=千尋とのツーショットに私はどこか蚊帳の外に置かれた気持ちになっていた。それがこうして「また会いたい」と言われると何をどう話をすればいいのか皆目分からない。つまり彼とは千尋以外では全く接点がないと云うことだ。

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