第22話

確かにこの新型コロナで人間の幸福度合いはだいぶ目減りするでしょうね。「HK」さん。

どうしてですか?

希薄な人間関係、それからデジタル依存の加速化でしょうか。

確かに。ポジティブ心理学でも有効な人間関係は幸福の主要テーマの一つですもんね。

本当に怖いです。私の周りでもちらほら感染のケースも出てきてますし、実際業務にも支障が出てますから。

私のところは休業を決めました。

そうですか。本当にこのままだったら一億総引きこもりにならないといけないですね。

全くです。

ところでお住まいの地域の件は?

今のところ目立った事は起きていませんが、かえって事態は進行しているような気がします。

どうしてですか?

 どうして?改めて問われると何と答えていいか分からなくなる。鷺谷なら「刑事の勘」とでも嘯くのだろうが、私としてはそのあてすらもない。

信じてもらえないかも知れませんが、私が住むこの街はどうやら何かの始まりと終わりを象徴しているようです。

それは未来のことですか?それとも遠い過去?

分かりません。私はただのイベント屋ですからね。でも哀れな民の一人として周りの異変を感じる事はあるんです。如何せん今はどうすることもできませんが。

まるで新型コロナと連動しているみたいですね。

全くです。何のエビデンスもありませんが。


 無力感。いや、違う。この街に溢れているのは寂寥感だ。行き交う人々はまるで根なし草のように、似合わない小奇麗さを纏って行き交っている。そこに映るのは見た目と裏腹の空々しさ。私は思う。何をそんなにおびえている?そんなに日常を失うことが怖いのか?それともそれ以上のことがあるとでも云うのか?

 私は人通りの少なくなった街角に佇み、改めて周りの様子を観察する。そしてふと私は気づく。「アオも同じ気持ちだったのかも知れない」と。

 彼はずっと一人で山に暮らし、たまに里へ下りては人目を憚りながら幾ばくかの稼ぎをして山に戻っていた。そんな彼が里で感じていたのは、己の孤独さよりもむしろこの人々の寂寥感ではなかったのか。だからこそアオは山の生活を選んだ。山には少なくともそれはない。あるのは本来生き物誰しもが持つ生存の希少さ、危うさのみだ。

 私は粛々と一人事務所で仕事を継続する。別に家にいてもできない仕事ではないのだが、制作に没頭している妻の近くにいるよりかえって職場の方が落ち着く。時折本社の神川からも連絡がくる。

「全くこの日本はどうなるんだろうなあ」

 神川は茫然とした様子で言う。

「まあ、日本の場合パニックになることは稀でしょうが、格差感はこれまで以上に増すでしょうね」

「世界的に経済が停滞してるからなあ」

 いや、事態そのものは既に起きていたのだ。それがこう云う緊急事態には表面化する。ただそれだけのことだ。

「お互い感染には注意しましょう。医療もどこまでもつか分からないようですから」

 今回露呈したのはこの国の政治家がいかに無能で、かつ無気力であり、また誠実さというものから無縁かということだ。普段から「経済、経済」と言っておきながら、その担い手の立場を顧みることはなく、行政の初歩的な手落ちは至るところで散見される。それこそ日本人でなければ暴動のきっかけにもなりかねないほどだ。

 日本人。この誠に奇妙な国民性。これまで数々の自然災害に見舞われながらも決して腐らず、その度に復興を重ねてきた極めて強靭な精神性。反面、自ら変化を起こすことには及び腰で、ややもすると伝統の名のもとに新しき流れをせき止めようとまでする不思議な矛盾を孕んでいる。日本人にとって変化は厄災でありながら恩恵でもあったということか。あるいは恩恵でありながらも厄災…。

 森川千尋の言葉を思い返す。この街に起こり始めていることは自然環境と人間とが深く繋がっていることがその大本にある。そしてその繋がりとは他でもないその精神性に関わると云う。だが森川の表現には先に私が書いた日本人の精神文化的側面を越えたものを予感させた。しかも彼女はそれを「まだお伝えできない」と言う。


面白いですね。本当に興味深い。「蝙蝠男」。このコロナ禍でいろいろなものが露呈していますが、「猫番人」さんの街では何かもっと奥深いことが蠢いている。そういうことでしょうか?

そうかも知れません。まるで本当に集団催眠にでもかかったみたいですよ。そのアオという男は夢の中までも私たちを監視しています。確かに気持ちの良いものではありませんよ。

 私はアオが同時に自分の書いている物語の主人公であることは伏せる。

「猫番人」さんの話は不思議です。全くの荒唐無稽のようで何故か無視できない。笑い飛ばせない。そんな要素を強く感じます。

そう言って頂くと幾分気が楽になります。なにせ自分が一番半信半疑ですから。

そして「猫番人」さんは物語を書くことで自分の内面に降りようともしてらっしゃる。

今できることはそれぐらいですからね。

今世界は大きなスピードで変化しています。しかしそれはあくまで人類の速度としてです。私たちはまだまだ幼い。まだほとんどは大自然のゆりかごの中にいる状態なのです。

「蝙蝠男」さんならどうされますか?

ひたすら観察します。本質的なわずかな変化を見逃さないように。

本質的な、わずかな変化?

やはり私たちは生きなければならない。死が自分を包み込むその時まで。

そうですね。確かにそうです。

 なぜアオは私の夢ではなく、物語の中に現れたのか?そしてこれからも彼は一人、旅を続けるのか?

 森川千尋の話によると、失踪者の多くは何らかのトラブルを抱えていたとのこと。職場の人間関係、学校でのいじめ、家庭環境、病気、貧困等。しかしそれは云ってしまえば現代日本全体の様相だ。この街に限ったことではない。また特段の理由がないケースも数多くあるらしい。全く、人の数だけ底知れぬ闇が存在するということか。


 アオは芝居の中にも時々顔を出すようになりました。もちろんその他大勢の役ですが、いざやってみると何とも不思議な気持ちになります。これまで方々を隠れまぎれていた自分が他人様の前に立って何かの役を演じるということはむしろ痛快でもあります。そして例え馬脚の役でも自分が誰かの物語の一部になっていることがこんなにも安心する事なのかとアオは感じていました。

「だいぶ様になってきたじゃないか」

 ある日アオは座長に声を掛けられました。座長はとても怖い人で普段は周りを寄せ付けない独特の雰囲気がありました。声を掛けられて思わずアオは身がすくみそうになりましたが、座長の目は意外と穏やかでした。

「今度新しい芝居をかける。台詞のある役をやってみるか?」

 アオは一瞬何を言われているのか分かりませんでしたが、思わず「はい」と返事をしていました。そしてその後でそれがどういうことなのかを考えました。

 次の日から猛特訓の始まりです。まず大きな声を出すことから。それまでアオは掛け声を張り上げることはあっても、台詞として大きな声を出すことはありませんでした。それは思った以上に難しいことでした。普段の自分では到底無理だと思われました。

「まずは張り上げるだけでもいい」

 座長は稽古しているアオにそう言いました。「芝居というのは或る意味狂うことだ。お前が役に入れば自然と声も動きもついてくる。言われた通りにやってればいい」

 アオはそう聞いてまた不思議な気持ちになりましたが、何も芝居の事が分からない以上座長の指示に従うしかありません。とにかくやってみよう。アオはそう思って稽古を続けました。

 アオの役は貧しい漁師の青年です。親とは死に別れて、今は一人で細々と暮らしています。そんなある日青年は浜辺で一人の女が倒れているのを見つけ介抱してあげます。女はナミと名乗りましたが、詳しいことは喋りませんでした。青年はそんなナミをしばらく自分の家に置いてやることにしました。それから何年か経って二人の間には一人の娘ができていました。名前をハマと云いました。そんな幸福な慎ましやかな暮らしが続いている頃、お忍びの殿様が偶然海辺を通りがかり浜辺で娘と佇んでいたナミを見初めてしまいました。そして嫌がるナミを無理やり城まで連れ帰ってしまったのです。青年はどうしたらいいか分からなくなってしまいました・・・。

 アオはただひたすらに座長が語るスジを頭の中に入れようと努めました。幸い青年の役はセリフ自体が少なかった分、動きで心情を表現するように座長は稽古で事細かに指示を出します。アオはそれを実際に動いて体に覚えさせていきます。困ったのは相手役との掛け合いです。アオはこれまでの事もあって、なかなか人と目を合わせることができません。自分がやってるのが青年の役と分かってはいても、どうしても相手役と対すると気持ちが現(うつつ)に戻ってしまうのです。そしてそれは相手役の役者にも伝わり、芝居全体が浮かなくなってしまうのでした。

「焦る必要はない。芝居は本来見ている側のものだ。下手に作り込むよりも、お前ぐらいの下手さ加減があった方が良い」

 座長はそう言ってくれました。

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