第21話
鬼は海に来ていました。目の前の雄大な風景を目にしていると、彼は自分が夢を見ているような気持ちになります。山を追われてから結局方々を彷徨い歩くことになりましたが、人の目が気になって里にはそう長くはいられませんでした。気がつくと山に入り、そこから人知れず場所を変えざるを得ない日々。そして人でも獣でもない自分の暮らし。そんな或る日、鬼は里の方から流れてくる祭囃子を聞きました。誘われるように覗いてみるとどうやら村祭りの真っ最中のようで、そこではまさに旅芸人の一座が興行を打っています。鬼は目の前の見たこともない光景に我と時間を忘れて見入りました。そして気がつくと自分も一座に加わり、やはり方々を旅するようになっていたのです。
山の暮らししか知らなかった自分が今はこうして大海原を目の前にしている…。
鬼は一座の者たちから「アオ」と呼ばれていました。人と面と向かって上手く喋れず、いつもオドオドした様子からいつの頃からかそう呼ばれるようになったのです。しかし「アオ」は満更でもありませんでした。まるで自分が別のものに生まれ変わったような爽快感すらありました。毎日散々小事を言われ扱(こ)き使われる日々でしたが、見知らぬ土地を無邪気に歩き回れるのはこの一座のお陰に違いなかったからです。
旅か…。私は物思いにふける。深夜。どうにも眠れなくて、薄明かりに浮かぶ天井を眺めている。そうしながら浜辺に佇む鬼の姿をまるでもう一人の自分のことのように眺めている。
もしかしたら今、「アオ」は幸せなのかも知れないと思う。様々な偶然が思いがけなく実を結び、彼はようやく自由を手に入れたのだ。もちろん外目は乞食同然の旅芸人。だが彼は何ものにも縛られない。そして何より今は落ち着いた日々の暮らしがある。
考えてみれば私だってそうじゃないか。一時は仕事に疲れ、それでも休むことが許されず他の土地にまで回されてきた。そして今度は不穏な状況の中、事業の責任を背負わされようとしている。だが、少なくとも今はまだ生きている。日々の生活を送っている。
結局私は眠れないまま朝を迎える。ふとスマホを見るとメール着信が複数来ていることに気がつく。社員たちからだ。
「夢にあの人物が出てきました」
私は眠い目をこする。あの人物…。そろそろ名前の付け時だろう。ぼんやりした頭で私は考える。こんな輪郭のぼやけた話を名無しの状態で続けることほど酔狂な事はない。
「誰かそいつの名は聞かなかったのか?」
私は社員たちに一斉返信する。しばらくしてポツリポツリと返事が返ってくる。私はそれをみて気持ちがのけぞる。
「アオ、と名乗っていました」
夢が伝播する。そしてそれが私の無意識と繋がっている。無意識?やれやれ、遂にかのフロイト先生の領域にまで話が及んだか(或いは森川千尋の影響?)。私はいささか痛む頭を抱えて仕事に出る。職場に顔を出すと一斉に皆がこちらに顔を向けるが、私は敢えてその事を話題にはしない。それよりも昨日本社から届いた指示を社員全員に伝える方が先だ。
「わが社の一時休業が決まった。期限は今のところ未定だが、その間の保証は出る予定だ」
私は伝えられた通りに言う。
「しかし残っている業務は?」
藤川。
「その都度担当者には出てきてもらう。もちろん臨時ギャラは払うよ」
「ギャラなんて良いですが、僕は機材の管理の方が気になります」
「それは分かってるよ」
「河野さん」
漆原。
「何だ?」
「今朝のメールの件はどうなんです?まさか一人で背負い込むつもりじゃないでしょうね」
私は皆の視線を感じる。
「そんなつもりはないよ。元々私個人でどうにかできる問題でもない」
「ですが、河野さん一人で色々と調べ歩いてるでしょう?」
「まあね」
私は認める。「指を咥えてって云うのができない性格でね。でも調べれば調べるほどよく分からなくなる。出会う人たちも一様に同じ事を言う。何なんだろうな」
「アオって云う名前は初めて聞きました。多分皆も」
漆原は周りを見る。斎藤が口を開く。
「口をきくのも稀だからな。それに気になるのは…」
「…」
「そいつがなんとなく河野さんに似ている事かな」
「そうなのか」
私は応える。そして自分の小説の中に出てくる鬼のことを思い出す。彷徨える鬼。そしてようやく海に辿り着いた鬼。アオ。これは偶然なのか。それとも何かの暗示なのか。「ちなみにそいつは夢の中で何をしてるんだ?」
「僕の場合はゲームセンターにいますね。僕も好きですから。行き着けのゲームセンターで顔馴染みって感じですね。それでたまに一緒にプレイしたりして」
「普通じゃないか」
「そうですよ。何かお化けみたいに思ってました?」
「何となく」
「私は息子の件があって、最初夢に出てきた時はゾッとしましたね」
再び漆原。「それまではっきりと見たことはありませんでしたから。最初は影しか見えなくて、死んだ夫が迷って出てきたかと思いました」
「なるほど」
「でも、やっぱり様子が違って。ただ向こうは私のことを知ってるようでした」
「漆原さんには何て?」
「特には何も。ただいつも少し淋しそうな横顔でした。そう云えばちゃんと正面から顔を見たことはありませんね」
「じゃあ、皆特にその『アオ』って奴に恐怖を感じてるわけではないんだな?」
私は訊く。
「そうでもないですよ」
藤川。「アオはそもそも人間じゃないんです」
私はその応えに反応する。人間じゃない?じゃ、何だ。
「それはどう云うことだ?」
「あいつの目は人間のものとは違います。真っ黒で、おそろしく深い」
藤川。彼の細い目が大きく見開かれる。
「人間じゃなかったら何だ?やっぱりお化けか?」
私は半分本気で訊く。藤川はそんな私を見返す。
「分かりません。ただ、彼にはケモノの臭いがします。もしかしたら血の臭いかも知れません」
血の臭い。
「何だか物騒だな。そんな奴がどうして私に似てるんだろう?」
「だからすぐに連絡したんです。変な胸騒ぎがして」
漆原。
「心配は要らない。今のところ危険な接触はない」
「河野さんはこの街の失踪事件を追ってるんじゃないですか?」
「まあ、ボチボチとな」
「それそのものが危険です。彼は一切の障りから手を引くことを望んでるんです。彼は監視人です。河野さんとどこか似ているのも警告の意図があるのかも知れません」
「そんなに深刻なことなのかなあ」
すると斎藤が暢気に口を挟む。「たかが夢とまでは言いませんが、あいつがめったな事をするようには思えませんけどね」
「何か起こってからは遅いのよ」
「分かりますよ。でも僕らがやってることの何が問題なんです?結局自分を見失った連中がガチャ起こしてるだけじゃないですか」
斎藤はさらっと言う。
「じゃ、お前はこれからもアオの警告を無視できるのか?」
藤川。
「無視する必要はないですよ。話せばいいじゃないですか。最初から奴を怖がる必要はないと思いますよ。確かに変わった奴ですけどね」
「どうやら君たちの中でもアオの存在は印象が違うみたいだな」
私は言う。「でも一つ方向性は見えた。これから君たちはそれぞれ休業に入ってもらうが、定期的にアオについてのレポートを出して欲しい。まあ、単純に情報交換と思ってもらって良い」
「それは構いませんけど、約束して下さい。河野さんも決して無理はしないと」漆原。
「私もそのアオって奴と会ってみたい気はするけどな」
「そうなったらヤバいですよ」
斎藤。
「何だ、さっきと言ってたのと感じが違うじゃないか」
「ドッペルゲンガーですよ。出会ったら何が起こるか分かりませんよ」
「斎藤、お前面白がってないか?」
「悪いですか?」
そうぬけぬけと云う斎藤が私にはかえって頼もしく思える。
「まあお互い、コロナが収束するまでは自粛するしかない。もちろんここで巨大地震とか来たらそれどころでもなくなるがな」
「確かに」
私たちはそれからお互いに業務の引き継ぎをする。しかしそれもそんなに時間はかからない。
「全く新型コロナと云うのは上手くできてるよな。人同志の繋がりを根こそぎ奪おうとする」
私は言う。「まるで呪いだ」
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