第17話
「直売店の話は保留になりそう」
妻がそう切り出した。
「どうして?」
「場合によっては立ち消えになるかも。新型コロナの影響で近く政府が経済の部分的自粛を呼びかけるかも知れないって」
「そんな話聞いてないぞ」
私は応える。
「先生の知り合いにその筋の専門家がいるのよ。元々は株式関係の。私たちが想像している以上にこの新型ウイルスは経済的にも脅威らしいわ」
「そうか」
私は呟く。「いや、予想はしてたんだ」
私たちはテレビニュースの画面に見入る。政府は学術者会議を招集し、集団感染を防ぐ取り組みに着手しているが、未だその決め手になる方策には辿り着いていないのが現状。一方で国民生活に対してどのような対策を取るかによっても議論が紛糾し、政府、学者間でも意見が分かれている。更にはその混乱を一部のマスコミやネット住民たちが自分たちの戯(ざ)れ場にしてしまっている。さも自分だけは蚊帳の外とでも云わんばかりに。
妻はこのところ自分の新たなネットショップを立ち上げようと色々勉強しているらしい。私もその方が良いと思う。費用的な負担は最小限で済むし、第一コロナ禍でも自由に活動できる。さてさて私の方はと云うと、本店の方から仕事が減ってきている報告を受けている。当然と云えば当然だろう。我々の仕事は盛り上げ屋だ。こんなご時世においては簡単に切られる宿命(さだめ)にある。まだ私のような会社勤めなどは良い方だろう。少なくとも生活の保障は或る程度望める。
「いよいよウチも再開発と心中することになりそうですね」
斎藤が言う。彼は今年25になったばかりの若手社員だ。大学卒の転職組で、元々はウチでやったキャラクターショーのアルバイトだったらしい。体育学科出身ともあってなかなか身のこなしが軽い。私は応える。
「先のことなんて分かるもんか。転職なり、副業とか考えてた方が良いかも知れないぞ。この騒動はまだまだ続く。命が続く限りはな」
「随分大袈裟な云い方ですね」
「大袈裟なもんか。こんな仕事は世間のあぶくみたいなものだ。社会がシビアになればなるほど消えていく運命なんだよ」
「そんなもんですかね」
「今は素人がネットで馬鹿やって持て囃される時代じゃないか。そもそも割に合わないのさ」
私は浮かない顔の斎藤に言う。社用車の中。
「個人が情報を発信する時代なんですよ。良くないですか?」
「コンプライアンスって奴を振り回してか?」
「まあ、最近はちょっと行き過ぎな感じはしますけどね」
斎藤はハンドルを握り前を向いたままで応える。「本当にこの先どうなるんですかねえ」
「ウイルスにでも聞いてくれ」
「目に見えないものにっすか?」
斎藤は苦笑する。
このところ政府の対策は完全に出遅れ、且つ迷走している。関係者は皆それらしい事を口にはするが、そこからは何の意志も矜持も伝わってこない。ただ有り態のスローガンを振り回して格好をつけているだけ。そうとしか私には思えない。
「…もしそうなったらどうします、河野さんは?」
「あ?」
私は虚を突かれる。「何が?」
「聞いてなかったんですか?もし仕事が無くなっちゃったら、ですよ」
「ああ、そうか」
私は考える。「小説家にでもなるか。こう見えても子どもの頃からの憧れなんだ」
「へえ、そうなんですか」
「憧れだけで全く書いたことはないんだけどね」
「どうして?」
「書く事がないからさ。何を書いたら良いか皆目見当がつかない」
「ええ?そんなの当たり前じゃないですか。最初は皆書いたことなんてないんですから」
「そりゃ、そうだが」
私も苦笑する。
「書いてみて下さいよ。意外だけど河野さんの小説って読んでみたいですよ」
「そうか?まあ、本当に失業しかけたらな」
私は軽く流す。本当のところ今更小説なんて書きたいとは思わない。中学生の頃、小説家の外見と云うか、雰囲気みたいなものにただ一瞬の憧れを感じたまでだ。特に思い入れがあったわけではない。第一、食うに困って小説家なんて最低の選択肢じゃないか。まるで現実味がない。
「エロ小説でも書くか」
「ははは、それも良いっすね」
他愛もない会話は続く。
目に見えないものに訊く。。私は街を歩きながら斎藤に投げた自分の問いかけを反芻する。確かにこの世界には今目に見えない脅威が跋扈している。しかし私にはそれが新型ウイルスだけではない気がする。気の迷い、不安の具現化と人には笑われそうだが、事実そう感じられるのだから仕方がない(相良からの影響も?)。更にはその脅威は変容する。変容して人の心の奥深くまで忍び込む。何故だ?何故そんな事になる?
不安に駆られていてはいけない。私の中で何かがささやく。それこそ奴らが求めているものだ。しかし怖いものは怖い。それに現に守らなければならないものもある。
不安は不安でいい。恐怖することも仕方ないだろう。だからそれから目を離すな。分からないもの。目に見えないものを見据え続けろ。やがて奴らも正体を現す。
正体?そうだ。そしてそれはお前の正体でもある。私の?自分の事が知れないからこそ人は恐怖する。違うか?
そうかも知れない…。
ささやきはそれで沈黙する。私は不思議な感慨を受けている。何か私の中で今まで遠く切り離れていたものが、思いがけなく繋がったかのような。
小説を書いてみようと思うんですが、どうでしょう。
私はコメントを打つ。
「HK」さんからの返信。
え?どう云うことですか?
不意に思いついたんです。現実であれこれ思い巡らすより、いっそ物語として立ち上げたらどうなんだろうと。
ああ、なるほどですね。でも、何かアイデアとかあるんですか?
いえ、全くです。書き出してももしかしたら途中で頓挫してしまうかも知れません。
それで良いんですよ。
不意に「蝙蝠男」が参加する。頓挫したらまた別のところを掘ればいい。何より「猫番人」さんが今の思いを言葉にして外に出すことが大事ですよ。私はそう思います。
私も応答する。
有難うございます。そう言って頂けると心強いです。
きっとあなたには既に何かが見えてらっしゃるのかも知れない。でもそれが自分でも分からない。だから物語と云う器を使ってそれと対峙してみたいと思ってらっしゃる。違いますか?
その通りです。よく分かりますね。
私は驚いている。
私も同じだからですよ。幸福とか、人間の生き方、或いは人類にとっての脅威については皆普段からあまり考えようとはしません。何故なら、それは自分を突きつめることになることを本能的に分かっているからです。
本能的に?「HK」さん。
そうです。できたらそんな類はフィクションの中で済ませたい。自分とは直接関わりの無いこととして。
「蝙蝠男」さんは何が見えてらっしゃるんです?
私は訊く。
難しいですね。今はまだ言えません。
それぞれの人が自分の立ち位置から見えないものが見えているのかも知れませんね。でもそれを他の人に伝えるのは難しい。そう云うことですよね。「HK」さん。
「蝙蝠男」がそれに返す。
私の意気地の無さです。
私。ただお互い伝えられることもあるはずです。そしてそれはいつかお互いの視野を共有する時にも役に立つ。
そうですね。そうあって欲しい。その一番ふさわしい形が物語だと私は思います。
「蝙蝠男」はそう締めくくる。
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