第18話
妻のネット通販は、巣籠り効果(?)もあってかどうにか軌道に乗っているらしい。私は素直に嬉しい。いや、安心と云った方が良いかも知れない。好きなことを仕事にすると云うことにはそれだけ客観性とバランスと云うテーマが付き纏う。特に妻のような独特の内向性を持った者に関してはそうだろう。
それでも私は、妻がなんとか自分の世界を広げていくのを嬉しく感じる。そして彼女も最近では商売と云うか販売戦略などについて独自に勉強を進めているらしい。そうだ。低予算で自分なりのビジネスを模索するのにはネット販売は何かと好都合だ。しっかり準備して徐々に販路を広げていけばいい。そしておそらく妻は自分の作家性をも深化させていけるだろう。そう期待できる。
「どんな話が良いと思う?」
私は作業する妻に向かってそれとなく声を掛ける。
「何のアイデアもないの?」
「ない」
「そっか。でも何か書きたい気持ちはあるのね」
「まあね」
「エッセイじゃダメなの?」
「多分。現実に引き摺られそう」
「ふうん。じゃ、昔話でも書いてみたら?」
「昔話?創作の?」
「そう。むかしむかし或るところに、ってところから始めれば何か出てくるんじゃない?」
ああ、意外とイケるかも知れない。私は思う。
「うん。じゃ、早速始めてみるよ」
むかしむかし或るところに…
一匹の鬼がおりました。鬼とは云っても角を生やした鬼ではありません。
角の生えていない鬼?何だ、それは?
鬼は山の奥に一人で暮らしていました。時々里に下りることもありましたが、そんな時は目立たない格好をして、臭いも消すようにしていました。
鬼は特に人を憎んだり、或いは蔑んだりはしませんでした。ただ自分とは違うものと思っていました。そして用が済むとそそくさと山に帰りました。
これじゃ、ただの人見知りか?
鬼は山で炭焼きの仕事をしていました。時々鍛冶の真似事のようなことも。たまに山で人に会うことはありました。そんな時鬼は軽く会釈するだけです。幸いそんな鬼に殊更近づこうとする者もありませんでした。寡黙な日々が静かに流れていきました。
鬼はそんな生活が嫌だと云うことはありませんでしたが、やはり時折淋しいと思うことはありました。しかし一方でそれは仕方ないことだと諦めていました。人恋しさに下手に里に下りて誰かと交わればきっと後悔するのは目に見えている、そう考えていたからです。元々鬼は独り、たとえ鬼同志であっても分かり合えることはない。そう思っていたのです。
何だか、全く救いのない話になりそうだな。私は考える。ただの引きこもりじゃないか。今のところキャラクターとして全く興味を感じない。しかし今はこのまま続けるしかない。それは覚悟の上だ。
毎日一時間、物語を書き続けている。今のところ特に何の気づきも変化もない。いや、一つだけある。それは自分が密かに物語を紡いでいると云う事実が、日常において不思議な感慨と云うか意気を生み出していると云うことだ。
それにしても私は何故「鬼」を主人公にしたのだろう。書き出す前は無意識だったが、やはり物語と云う器を目の前にした時自然とそうなってしまった。角のない鬼。それは一体何者なのだろうか?
併せてポジティブ心理学の学習も継続している。主に読書だが翻訳本はいま一つピンとこないのが実感だ(やはり国民性の問題なのだろうか)。それよりも私が今面白いを感じているのは「アサーション」と云うコミュニケーションスキルだ。昔は「自己主張訓練」などと云う堅苦しい表現を使っていたらしいが、要はお互いを尊重するものの言い方・伝え方。私のようにメンタルが揺れ動きやすい人間にはちょうど良い学習対象と云える。
このところ自分が学んだことを休みの日にまとめている。それは物語を綴るとは違って単純に楽しい作業だ。そして何より「目に見える」形にすると云うこと自体が自分を励ましてくれているような気がする。
鬼は炭焼きの仕事が好きでした。仕事をしていると他の事を忘れることもできました。山に入って木を切り出し、或る程度の太さに割って一定期間乾かす。そしていよいよ窯入れとなる。作業の本番はむしろこれから。焚口を作り、火入れをし、それからは昼夜を問わず焚火をする。そして煙突から出る煙の色を見ながら窯止めの頃合いを決める。体力も使うし、勿論神経も使う。しかし一人きりの鬼にはこれ以上ないくらい気の置けない仕事。それくらい馴染んでいました。
どうやらこの鬼のキャラクターは私の祖父が反映されているらしい。もちろん性格などはまるで違う。祖父は饒舌だったし、人間関係も豊かな人だった。しかし山で炭焼きをする姿はやはり孤独そのものだった気がする。そんな事はこの物語を書き出す前は思い出しもしなかった。最近はちっとも里帰りしていないし、なによりもう三十年近く前のことだ。当時の私には炭焼きなんてきつくて退屈なだけの作業に思われた。その思い出が何故急に甦ったのか。
私は仕事をしながら物語のことを考えている自分に気がつく。現場から現場、企画と打ち合わせ、人・モノの手配。気の休まらない時間の中で、ふと自分の心が鬼のかまど場に飛んでいることがある。鬼の背中をじっと背後から見つめている。そしていつしか鬼は私自身になっている。
山が騒がしい。いつもより動物の死骸を見掛けるようになった…。
鬼はそんな事を考えていました。このひと月ほどの事です。近くで得体の知れない気配を感じることもあります。不意に山からいつものにぎやかさが消え、別のざわめきが漂うのも感じます。こんなことは初めてでした。
鬼のふる里は遠い別のところにありました。鬼はそこから命からがら逃げてきたのです。鬼は当時のことをもう思い出したくもありません。その途中で酷い戦いもあったからです。思えば鬼はあの時一度死んだのかも知れませんでした。それくらいこの山に辿り着くまでには長い時間と辛苦がありました。
鬼は警戒するようになりました。炭を焼く間も周囲に気を張り続けていなければなりません。夜もあまり眠れなくなりました。そんな或る日、彼の炭焼き小屋を訪れる者がありました。それは初老の男でした。
「悪いことは言わない。此処を立ち退け」
男は口を開くなり鬼に向かってそう言い放ちました。
鬼はしばし男の様子を眺めていました。男は特に怪しい格好ではありませんでしたが、自分に対して明らかに害をもたらす存在であることはすぐに分かりました。
「何故放っておいてくれない?」
鬼は男に尋ねました。すると男はうすら笑いを浮かべました。
「お前の都合など知らない。だが、言うことを聞かなければお前の一番嫌がる形でこちらは対処する事になる」
「つまり問答無用と云うことだな」
「そうなる」
鬼は思案しました。もしかしたら潮時なのかも知れない。一つ所に長く居過ぎた。鬼は応えました。
「分かった。その代わり、もうこの山で悪さはしないでくれ」
すると男はにやりと笑いました。
「無論だ。ここは静かで豊かな山だ。お前にはもったいない」
鬼は早速山を下りました。最後に仕上げていた幾らかの炭を背中に背負って。勿論次の宛てなどありません。しかし以前のように追手はありませんからその分気は楽です。鬼は姿を隠して山から山へ、そして食べ物やお金に困ると里で荷役などをして稼ぎました。里は鬼にとって目新しいことがある半面、いささか騒がしい場所でした。何より人間の吐く息が鬼にとっては周りの空気を薄くさせているように感じられました。鬼にはやはり山の暮らしが向いていたのです。
これは単純に「語り手」としての力不足だな…。私は思う。何より主人公の「鬼」は戦わない。ずっと逃げている。これではキャラクターとしての魅力が浮き出てこない。ただ淡々と「鬼」の暮らしを、それも俯瞰的に表現しているだけだ。
しかしここで物語るのを止めるわけにはいかない。とにかく筆を進める。そうだ。「鬼」は彷徨い続けるのだ。
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