第16話

 狭いこの街どころではなく世界規模でとんでもない事が起き始めている。しかもウイルスは目に見えない。症状が出始めた時はもう遅いかも知れない。

 …ちょっと待て。何かとても気になる。何だ?


「今度ね、同じ教室の仲間で店を出そうって構想があるの」

 妻が切り出した。

「そうか。どこに?」

「ここよ。新興繁華街に良いテナントが出る予定なんだって」

「…」

 私は軽い衝撃を受ける。「資金はどうするんだ。持ち寄りか?」

「そうなるとは思うけど、手段はいろいろと考えてるわ。先生も出資してくれるし、今はクラウドファンディングって方法もある」

 妻はさらりと応えるが、私は正直不安を覚える。

「良いけど、皆でやるって云うのは意外と難しいぞ。必ずマウントを取ろうとする人間が出てくるからな。そのくせ責任は人任せだ」

「まあね。その辺は先生が人選をしてくれると思うけど」

 妻は応える。危険だな…。私は直感する。

「止めておいた方が良い。結局具体的な仕事は現地住まいのお前に任されることになる。その覚悟はあるのか?」

 すると妻は一瞬考える。表情はあまり変わらないが、彼女の中で何かがめまぐるしく動いているのが分かる。私は続ける。

「君が経営者になる気ならまだ良いさ。しかしモノ作りはほとんどできなくなる。店を持つとはそう云うことだ。分かるだろ?」

「ううん、言ってることは分かるけど、でもそんな深刻なことかしら?」

「どんな事があっても、君が仲間を信じて続ける覚悟があるなら構わないよ。しかし絡んでくるのは仲間だけじゃない。見ず知らずの人間も関わってくる。もし君が本当に店を始めたいなら仲間に頼らず一人でやるべきだ。その方が物事は明確になる」

 私は妻を見て言う。「それでもやるかい?」

 妻は少し俯いて考える。「そうね、そう云うことか」

「それに俺がこんな事を言うのもどうかと思うが、この街の再開発には何かある。今後も何がどう動くかわからないぞ」

「もういいよ、分かった。少し自分で考えてみるよ」

 妻はそう言って自分の作業スペースに戻る。言い過ぎたか?私は少し後悔する。それにしても…。私は一人で考える。再開発、新規事業。どうやら人はやはり新しい動きに引き寄せられるらしい。金も物も動く。となると当然それに絡む運命にも大きく関与していく。それはまるで新しいオモチャだ。見目麗しく誰しもの欲望を駆り立てる。しかしそれに夢中になり過ぎると思わぬところで足元が崩れる。そうだ、私たちの足元はすでに崩れかかっているのかも知れない。


 確かに安川は有能な公務員と云える。いや、実際彼がどう云うキャリアを経て、再開発企画室長などと云う誰もやりたがらないポストに収まったのかは分からない。人は皆目新し好きだ。しかしそれはあくまで眺める立場での話。自分が神輿を作り、担ぐことはこれっぽちも念頭にない。では何故安川は嬉々としてプロジェクトを推し進めるのか。くたびれた地方都市の、先の読めない未来予想図を彼自身はしっかりと描けているとでも云うのか?

 時折開かれる会合でも安川はにこにことしていて、場の雰囲気に切迫感は感じられない。事実土地買収から造成まで今のところ停滞しているところはなく、計画的には順調そのものということらしいが、私としてはその折々に挟み込むイベント企画をどう進言するかのところで戸惑うことも多い。それは単純にこの動きが本当にこのままで進むのかと云う疑念からだ。

「ところで、新型コロナの被害が間もなく県内でも出始めるでしょうから皆さんは今のうちから対策を検討しておいて下さい。一応私の方で資料を作っておきました」

 安川は不意に話題を変えると出席者全員に薄いホチキス留めの紙資料を配る。一読してそれが最新の情報を基にしているのが分かる。

「発生源と云われている某国は今国を挙げて封じ込めを行っています。それでも状況は厳しいようだ。なにせウイルスは目に見えない。人は目に見えないものには油断しますからね。しかしこの波は必ず日本をも席巻します。その時どう動くかということも大事ですが、まず自分たちの構えを崩さぬことが何より。これはその為の資料です」

 構え?出席者の中に僅かな緊張が走る。私を含めてまだそれほど新型コロナウイルスの脅威を我が事に感じていない者がほとんどなのだろう。

「情報は追ってリリースします。私たちの仕事はもしかしたらその先を見据えたメモリアルなものになるかも知れませんね」

 安川はにっこりと微笑む。会合はそれで散開となる。


 騒がしいな。私は街を歩きながら思う。ふと目の前を青いものが過る。みるとそれは目の覚めるような色のシャツの少年だ。中学生くらいか。やせ形で背は高い。きっと親もそうなんだろうと思われる、今時の体型の少年がそよ風のように街を闊歩していく。瞬間私は何か訳の分からない、敢えて云えば「郷愁」のようなものに襲われる。私はじっとその若い背中を追う。心がひんやりとなびく。これから一体何が始まるんだ?私はもう一度市役所のある方向を振り返る。


「相良さんは再開発についてどうお考えなんですか?」

 私はふと思いつき、問いかけてみる。ここは「うつせみ神社」の敷地内にある相良宮司(禰宜)の自宅。

「個人的には賛成ですよ。放っておいたって地方はさびれていくだけですからね。少子高齢化も留まりそうにないし、人の暮らしだって今更昔には戻れない。都市化の波には抗えませんよ」

「でもこの神社としては立ち退くわけにはいかない」

「それはそうですね。ところが神社の公共性と云うのは実は法的な立証と云うのが難しいらしいんです。決め手は皆さんの日頃の信仰に頼るしかない。でなければ単純に個人の持ち物、敷地です。公共の利益がそれを上回れば収用されても仕方がない」

「なるほど。しかし今のところ強制執行はされていない」

「それはお陰さまでと云うべきか」

 相良は応える。不思議なことに私は自宅での彼の様子に今更ながら彼の宮司としての精神性を感じ始めている。

「まあ、市にもそこまでする権限と云いますか、思い切りがないのかも知れませんが、でも今の担当に代わってからはやはり要求は多々ありますよ。で、私としても対応に頭を悩ましているわけです」相良。

「そうですか」

「でもそれにしても河野さんはイベント屋さんでしょう?どうしてそんなことが気になるんです?」

「ん。まあ、一連の騒動も事もありますし、それにあなたが仰ったことがずっと気になってましてね」

 私は言う。「土の匂いってヤツです」

 すると相良は伏せ目がちに応える。

「怖いんですよ。漠然とした不安がいつも頭の中にある。得体の知れない音や歪み。それに過去に受けた衝撃や痛みに私は身動きが取れなくなっている。もちろんそのほとんどは杞憂でしょう。しかしそれが続いているのは事実だ。人の心と云うものは厄介なものです」

「…」

「渦巻いているのは念です。おそらく人の心から生まれた。それに触れた者は心が空洞になる。生きる意味を見失う。地獄だ。私にはそんな気がするんです」

「相良さん。あなたは…」

「この神社は実は一度移転してるんです。以前はもっと海の近くにあった。おそらく大きな厄災があってこの地に移ってくるしかなかったのでしょう。私がこの神社の移転に踏み出せない理由がそれです」

「どう云うことです?」

「この神社が移転することで何か大きな厄災が始まる」

「つまりこの神社は?」

「そうです。そもそも此処はつっかえ棒なんです。この神社が移転を余儀なくされる時、その地には必ず良くないことが起きる。私はそう考えています」

「何か、言い伝えでも?」

「ええ。私はこの歳になるまでそんなものは迷信だと思ってきました。でも今になって考えれば、そうならないよう私たちの先祖は必死の覚悟で祈りを捧げてきたのではないでしょうか?」

「…」

「祈りなんて私自身自分が口にしようとは思いませんでした。でもね、そうとしか云えない事だってあるんです。河野さん、信じてもらえますか」

 相良は私の顔を見据える。その表情にはこれまで窺えなかった彼の真摯さが溢れている。私は応える。

「私だって同じです。自分の感じていることに確信が持てないんです。ですからこうやって色んな人に聞いて回ってるんです。今はそれしか方法がなくて」

 いや、もしかしたらこの感触は実はすでに多くの人が感じているものかも知れない。私はそのまま相良宅を失礼する。

 それにしてもこのままでは暗鬱とした気持ちに心そのものが絡め取られてしまいそうだ。本当はこんな時こそ「幸福」を見据えた生き方を模索しなければならないのに、今は何故かそんな気持ちになれない。

「仕事で助かってるな」

 私は呟く。この地に来てから私はむしろ日常の仕事をこなすことで、なんとか自分の精神性を保っている気がする。ふと弟の事を考える。もしあいつが今生きていたら世界はどんな風になっていたろうか。だいぶ違っていた気もするが、一方で何も変わらない気もする。それを云うなら自分の事も同じだ。世界なんてちょっとした事が分かれ道になる。しかしそれが大した違いになるかどうかは怪しい。一体、私たちが生きている意味なんてどこにあるのだろう?

 その弟に良く似た少年の顔を思い出す。そして彼が言った言葉。私には一体何が「見えて」いると云うのだろう?

 まるで深夜の明かりが落ちた街を一人で歩いているようなものだ。慣れた道のはずなのに先が、周りが見えない。そこはかとない恐怖だけが私を包む。

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