第15話
思わせぶりな事件か…。全くもってその通りだ。私も仕事上での懸案に限ってと割り切ったつもりが、結局は相良の云うところの「匂い」に引き摺られているのだろう。土の匂い。それも腐った汚泥からの…。それは一体人間の何に根差しているのか?
云われなくても世間では訳のわからない、しかも陰惨な事件に枚挙の暇がない。それらが自分とは全く縁もゆかりもない出来事と頭では分かっていても、その余りな不可解さから事件の闇に心が魅かれてしまう。もちろん仕事は続けていく。しかし心の片隅ではやはり事件の事を気にせずにはいられない。
「あなた、元々芸の世界には魑魅魍魎が巣食ってるってよく言ってたわよね」
妻が食事の時に言う。
「そうだな。以前(まえ)知り合いに劇団の先輩がいて、その人がよくそう言ってたよ。その時はあまり意味がよく分からなかったけどな」
「どうなんだろう。人間の世界ももうあまり変わらなくなってしまったのかも」
今日のおかずは私の好きな魚の白身フライだ。私はそれにソースではなく、しょうゆをかけて食べる。
「どう云うんだ?」
「うーん、私みたいに手作業ばかりしてると、時々世の中の便利さが不思議に思えてくるの。なんだろう、こんな便利さに何の意味があるんだろうって」
「分からなくはないけど、でもそうやって俺たちも暢気に生きてきたんだろ?」
そうねえ…と妻は呟いて、ご飯を一口搔き込む。
「でも人って、ただ便利を追い求めるのは違うと思うの。もちろん便利を作り出すことは大変な知恵と作業よ。でもそれを受け取る側は注意しなければならない。便利になることで見過ごすことだってあるんだから」
それはそうかも知れないと私も思う。それにしてもこの街に巣食っている魑魅魍魎とは一体何だ?私は残ったフライに箸をブスリと立て、ご飯と一緒に搔き込む。
本社で用があり久し振りに元家(もといえ)に寄った。荷物はほとんどそのままだから時々は部屋に風を入れる必要もある。普段は大家さんにお願いしているが、やはり間が空くと気になってくる。なにせ古い集合住宅だから住んでない事でガタが来るのが加速しそうな気になるのだ。
そっと部屋に入り一通り窓を開ける。滞っていた空気がやんわりと入れ替わるのが分かる。外には柔らかい陽光がいつものように降り注いでいる。静かだ。考えてみれば私がこの家にいる時にはほとんど妻もおり、二人の生活音でなにかしらの気配が充満していた。今はそれがなくなり、こうして時折来る闖入者にこの部屋そのものが警戒しているかのようだ。それとなく…。
私はグラスを出して持参したペットボトルの飲料をそれに注ぐ。そして不思議なことに気がつく。この僅かふた月足らずの間に私の意識はすっかりF支社の方に移っていることに。
「ここはもうすっかりモヌケの空だ」
私は一人呟く。そしてゆっくりと畳の床に寝転ぶ。
仕事はとりあえず順調だ。私がキレてから、そして友永が逮捕されてから会社は別の意味で機能的になった。気安さは薄れ、逆に業務だけが淡々と進行していく。雰囲気が悪いわけではないが、一見しても何をしている会社か分かりにくくなった。つまりどこにでもある普通の会社(オフィス)になったと云うこと。
人の暮らし…。まあ、いいさ。こうやって何とか無事に日常が過ぎていけばそれに越したことはない。それでなくても仕事は次から次に入ってくる。次第に人手不足もはっきりしてくる。
「漆原さん、ここは人を雇う時はどうしてるの?」
「ハローワークか、バイトなら近くに大学がありますからそこの学生課にもお願いしてます」
彼女は応える。
「そうか。やっぱり直接出向かないとダメなのかな?」
「求人の内容次第ですね。どう云うんです?」
「いや、このままじゃ皆の休みが無くなっちゃうだろ。そろそろ先見越して人を集めといた方がいいかなってさ」
「だったら電話でも大丈夫ですよ。向こうから条件の確認はありますけど、出向くほどではないでしょう」
漆原は手元の事務作業を続けながら応える。代わりに斎藤と云う社員がこちらに顔を向ける。
「私がやっておきますよ。バイトで良いんですか?それとも社員?」
「正社員でいい。これまでも出したことはあるんだろ?」
「多分」
「じゃあ、任せる」
私は応える。数は1名ないしは2名程度。話は本社にも通してある。全く不思議なものだ。妙な事件ばかり抱えているこのF支店は今や4店舗の中でも稼ぎ頭になっている。本店からは「稼げる時に稼いでおけ」と云う当たり前すぎる指示しか出されていない。やれやれ、このままでは本当に向こう5年はここに落ち着かされることになる。それはそれで仕方ないと思う一方で、私にはこのままで事が済むとも思えない。
時折鷺谷刑事から連絡が入る。友永の件もあるが要は現状の情報共有だ。支店長の滝藤が正式に退職したこと。病態は順調に回復に向かっていること。友永の方は被害者側の調査が滞っていること…。それでも私たちは要点だけを簡潔に伝え合う。
「まあ、今のところは平穏だ。しかし宮司の言う通り、このままで済みそうがないのも勘で分かる。これはまるであれだ」
そうして鷺谷は言葉を探すが、上手く当てはまるものが見つけられない様子。
「もしかして地震ですか?」
私は代わりに応える。
「そう、正しく地震みたいなものだ。確証はないが必ず来ることは分かる」
「ですが手の打ちようがないですよね」
「そうとも言い切れんさ。あんたも気がついてるだろ」
「何にですか?」
「事の元凶だ。安川だよ」
私は鷺谷の口からその名が出てきたことに少なからず驚く。「あいつが出てきてからこの街はおかしくなってきた」
「刑事さんはあの人の事をどれくらいご存知なんですか?」
「まだ調査中だ。しかし間違いない。あいつが元凶だ。これからもあいつの周りでは何かが起こり続ける。そしてあいつ自身それを分かってる」
「分かってる?自分が何か引き起こしてるかも知れないってことをですか?」
「おそらく」
電話はそれで切れる。
冗談じゃないよなあ。そんな奴とこれからも仕事をしていかなければならないのか。私は先の事を考えて暗澹たる気持ちになる。自分がちょっと前まで鬱病を患っていたことも思い出す。テレビでは新型コロナウイルスが世界各国で猛威をふるっている様子が映し出されている。日本も邦人の帰国を急がせているようだ。ひとまず国内ではまだ感染者は千名程度だが、これが本格化し出したら一体どうなるんだろう?確かだいぶ前に日本でも「スペイン風邪」なるものが大流行したと云う話は聞く。それでなくても日本人はどんな時でもパニックになることが少ないとは云うが実際のところは分からない。生き残るためには恥も外聞もない人間も今は少なくないだろう。
まあ、待て。私は自分に問いかける。私の悪い癖だ。自分を憂うつにさせ、そして苦しめるのは自分のものの感じ方、考え方だ。事実は事実として、それにどう対処するかは冷静に検討しなければならない。そうだ。私には仕事だけではなく、自分の生涯をかけた仕事がある。今こそそれを体現する時ではないのか。
まるで都市伝説ですね。
「NK」さん。
都市伝説、ですか?そんな大袈裟なものではないと思いますが。
私。
渦中にいる人はきっとそう思うんですよ。お話だけ聞いていると「まさに」と感じますけど。
そのコメントを見て、確かにそれはそうかも知れないと思う。だが、逆を云えばそうでも思わないと自分がまともでいられない気もする。日常とはおそらくそんなものだろう。
それにしてもお久しぶりですね。そちらはいかがお過ごしでしたか?
私。
何もないと云えばそうなんですけど、やっぱり今は新型コロナが気になりますよね。私の会社は外資系なので、やっぱりその話でもちきりです。「HK」さん。
そうですか。ニュースでも専らの話題ですもんね。「HK」さんの会社ではどう対処なさってるんです? 私。
とにかく情報収集です。外国籍の人は慌てて休暇を取る人もいます。そのうち日本も空港閉鎖になるんじゃないかって。
空港の閉鎖?
それって事実上の戒厳令じゃないのか?私は考える。
やっぱり罹るとひどいんでしょうね?
すごい呼吸困難になるらしいですよ。肺が真っ白くなって、ガラスの粒を呑み込んだみたいに痛くてたまらないそうです。
それは…。
それに症状が悪化するのがものすごく速いらしくて。
気づいた時にはもう遅い?
私は戦慄する。
検査の方法があるらしいんですが、海外でもようやく軌道に乗ったレベルで。
私たちはひとしきり新型コロナの話をして通信を切る。
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