第6話
「どうですか、調子は?」
月一の通院で医者は私に訊く。
「悪くはないです。何でしょうね、自分でもよく分からないんです」
「お仕事の方は?」
「相変わらずですが、以前より無理はしてないと思います」
私はそう言って苦笑する。
「何よりですね」
「ところで先生、ちょっとお聞きしたいんですが」
「はい、何でしょう」
「向学の為に心理学を勉強したいと思うんですが、何か良い教材とか、集まりとかありませんかね?」
「心理学、ですか?まあ、本は書店にもいっぱい出てますし、河野さんは心理学のどう云うところに興味あるんですか?」
「そうですね。あんまり難しい事には興味ないんです。要はどうすれば普段の生活を楽に過ごせるか、ですかね」
「楽に過ごせる?」
「無理をせずにってことです」
「なるほど。だったらストレスコーピングなんてどうですかね」
医者は応える。ストレス…コーピング?
「何ですか、それ?」
「人間生きてると普通にストレスや緊張を感じることがありますよね。それにどう対処していくかの学問です」
「へえ、そう云うのがあるんですか」
私はなるほどと思う。
「今ならネットで検索しても結構ヒットすると思いますよ」
「分かりました。やってみます」
そうか、考えてみれば今や情報発信もネットだ。私はこれまで現場ばかりを回ってきたからそっちの方は若い連中に任せきりだった。それにしても一口に心理学(カウンセリング?)と云っても色んな分野があるんだな…。私は暇を見つけては医者が教えてくれたストレス関連の対処法についてネット検索をする。「知識とは栄養だ」と誰かが言っていた気がするが、今の僕にはそれらは栄養どころか水だ。気になった書籍も何冊か購入して読んでみる。その度に知識が私の中にどんどん吸い込まれていくようだ。
「最近何か調べてるの?」
「ん?ああ、主治医の先生から教えてもらったんだ。ストレス対処法」
「へえ、なるほどね。下手なお薬より、自分で普段から注意してる方が良いに決まってるもんね」
「うん、なにより勉強になる。今までほとんど気にしてなかったからな」
私が応えると妻も興味深そうだ。
「今なら学校で教えても良さそうだけど」
なるほど。その通りかも知れない。
「もしかしたら私は、無意識にこういったものを探していたのかも知れないな」
「カウンセリングの勉強の話?」
「そう。要は生きていく為の水分不足、栄養不足だったんだよ」
「ああ、面白いわね」
私は自分の「認知」と云うものを振り返る。認知、要は物事の捉え方。得てして私たちは自分の限られた実体験を基に本当は合理的ではない考えを後生大事に持ち続けてしまう。その大本の要因としては恐怖・不安があるらしい。つまり慣れ親しんだものを捨てて、新しい考えを持つまでの不安、当然恐怖。分からないではない。人間は苦しい時こそ藁にもすがろうとする。苦しいからこそ藁が石柱のようにさえ見えてしまう。
レジリエンスと云う言葉も学んだ。「しなやかさ」「回復力」と云った意味だ。何だか段々と当初私が考えていた心理学のイメージとは離れていくが、逆に求めていたものに違いないと云う確信は折り重なっていく。考えてみれば、人がたとえ一歩でも自分の幸福に近づいていく為に心理学というものも存在するはずだ。だとしたら心理学はまず普段の生活に根差すものであるべき。
私はもう少し調べてみようと思う。
仕事と心理学の学習を続けていく中で、私には気になることがある。それは人には「誰かを操作しよう」と云う欲望があると云うことだ。仕事では言うまでもなく集客をいかに仕掛けるかに知恵を絞る。巷のニュースでは未だに「振り込め詐欺」が話題だ。そして心理系の本を探してみると「これで相手を思い通り」などと、妙なサブタイトルものが目立つ。まるで人を操ることに長けた者こそが世の中を席巻できると言わんばかりに。私は自分が操られる側として想像してみる。信用していた者から実は都合良く操られている自分。相手の手の内でいいように踊らされている自分。気がついて腹が立つ。そして情けない。「どうして素直に言ってくれないのか?」と思う。「ちゃんと話してくれたら、こちらだって悪いようにはしないのに」と。逆に今度は操る側として考える。初めはきっと痛快だろう。相手を自分の都合で操作できる。まるで道具かロボットのように。おまけに美味しいところは自分のものだ。こんな好都合を人に知られてたまるか。だんだん私は防衛的かつ疑心暗鬼になる。いつも誰かに奪われることを気にし始める。むしろ奪っているのは自分の方なのに。
そうだ。私が一番気になっているのは、結果だけが求められ、その結果に行き着くまでのプロセスがややもするとないがしろにされると云うことだ。「効率化」などと云う便利な言葉で結果を手早く出すことだけが重要視される。しかしその結果の中身はカスカスだ。滋養も潤いもなく、その後の成長には何も寄与しない。ファーストフード、スナック菓子の如く、まさにその場の派手さだけだ。
「お前、最近小難しいこと考えてないか?」
上司の神川が言う。
「そうですか?そんなことは無いと思いますが」
「企画書読めば大体のことは分かるんだよ。本読んで色々勉強するのは良いけど、自分のものになってない内はただのカブレだぞ」
「カブレ…ですか?」
私もさすがにムッとする。やれやれ、人の変化が気になって仕方ないタイプがいるとは聞くが「全くだな」と思う。カブレだろうが何だろうが、知識を貪欲に吸収するのに何の躊躇が要るだろう。そしてそれを反映させることに。気に入らなければ職権で却下すれば良い。今までだってそうだったろうが。
「まあ、気をつけますよ」
私は外回りに出る。内心愚痴が出る。たまには自分で企画書を書いてみろ。そうすれば多少は周りのことが見えてくるだろう。私は思う。今度面と向かってそう言ってやろうか。神川は一体どんな顔をするだろう。気の毒なのは周囲の同僚だ。後で神川からとばっちり食らうのは目に見えている。迷惑をかけるのはやはり忍びないが、私としては譲るつもりもさらさらない。
何故だろう。自分を保ちながら生活しているだけなのに、予想外な反感を食らうことがままある。それも決して正面切ってではなく、暗喩/隠喩を使い、間接的、それでいて恣意的に迫ってくる。
「何か?」
そう私が聞き返すと相手は「いや、別にいいんだけどね」と愛想笑いを返す。
「気になることがあるなら聞きますよ。仰って下さい」
私はそう云う時半ばしつこく食い下がる。しかし相手は「ははは」と表情を歪めるだけだ。こう云う人間に限って後でくどくど陰口を流してくる。私は「馬鹿じゃないのか」と心底思う。本人はどうやらそうでもないらしい。場合によっては斜に構えることで自分の方が現実的かつ賢いとでも云わんばかりだ。
アサーションと云う考え方がある。お互いを尊重しながら自己主張していくコミュニケーションスキルだ。この考え方においてはそもそもコミュニケーションは勝ち負けではない。互いの思いの交換と歩み寄りの模索だ。そこに相手を操作して自分の思惑に引き寄せようと云う小癪な態度はない。その意味においてはスキルと云うより哲学に近い気もする。哲学…。そうだ、私たちはもっと自分の生きる哲学を磨いた方が良い。世の中は不思議だ。やたらITをはじめとする科学技術の発展には血眼になりながら、一方で人間の生き方、幸福には無自覚、無頓着だ。これこそ文明がその成果を出せたか否かを評価されうる最たるものではないかと思うのだが。
人間が幸福になる。そのことは生きている以上誰しもが真面目に考えなければならない主題(テーマ)だ。私は思う。本職はどうであれ、私はそのことを今後自分の一生の仕事にしたいと。「こう云う風にすれば、少なくとも今より幸福になれるよ」、そう云う控え目なアドバイスを周囲に伝えていきたいと思う。だとしたら私にこれから必要なのは何か?
私は考える。それはおそらく綴っていくこと、情報発信だ。そして同時に学び合いの場を作ること、発展させていくことだ。しかしどうすればいい?
まずはどこかの勉強会にでも参加した方がいいのか。いや、それよりもまずネットでブログでも(今更?)始めてみるか…。
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