第5話

 翌朝、家を出て駐車場まで坂を下りる。周囲の緑の木々を眺めながら、自分がこれから場違いなところへ出掛けようとしている感覚になる。今日は社外での打ち合わせが三つも入っている。途端に気持ちが萎えてくるのが分かる。これって、ちょっとした鬱病か?その時目の前を片足が不自由そうな野良猫がそれでも悠然と横切っていく。本当に猫の多い界隈だ。僕は足を止めて猫が消えていった方を眺める。小道がある。その時、僕の中で強烈な誘惑が渦巻き出す。ちょっと行ってみようか。知らない道だし…。

 ダメだ、ダメだ。僕はまた歩き出す。何を考えてるんだ、俺は。散策するヒマなんて無い。おかしいぞ、全く。僕はようやく駐車場に着き、車に乗り込む。しかし今度は俄かに気分が悪くなる。この密閉された空間がとてつもなく息苦しい。そのうち眩暈までしてくる。何なんだ、一体?僕はしばしシートに身を預け、目を閉じる。窓を開け、空気の循環を良くする。息を大きく吸う。そして吐く。しかし何か追いつかない感じがする。これは本当にヤバい。そう思う。僕はとりあえず妻に電話する。

「どうしたの?」

「今、駐車場なんだけど…」

 僕は息を整えつつ応える。

「具合悪いの?」

 妻は異常を察知したようだ。「そこで待ってて。どこにも行っちゃだめよ」

 僕はその押し殺した声を聞きながら、目の前で帳が降りるように一気に意識を失った。


 転勤の話は結局一旦保留となった。何のことはない、F支店の方から「体調の思わしくない者は希望せず」とはっきり断られてしまったからだ。上司の神川からも「希望しないんならつまらん芝居は止せ」と電話で文句を言われたが、僕としては本当に体調がおかしかったわけだし、転勤を自分から断ったつもりもないのでその扱いには憤然となった。

「良かったじゃない。これであなたも会社をどうするか決められるんじゃない?」

 一週間入院した病院から家に戻る時、妻がぬけぬけと言うのを聞いて僕は珍しく声を荒げる。

「会社に勝手な事言うなよ。部長からこれ見よがしに嫌みを言われたんだぞ」

「何よりも健康が第一でしょ。向こうに行ってから倒れたら、それこそ色んな人に迷惑かけることになるのよ。分かってる?」

 そう言われると僕も二の次が継げなかった。

 何だったんだろうなと思う。入院中も病室の天井を眺めながら僕は考えていた。もちろん一番の気がかりは仕事の事だったが、医者から「少なくとも一週間は絶対安静」と言われてからは諦めざるを得なかった。仕方なく僕はベッドに寝転がる。周りは死にかけた老人と、生まれてこの方愛想と云うものを忘れてしまったかのような中年男だけだ。くそ!何なんだ。仕事にウンザリしていたところで、今度はション便臭い病室か。僕は何か目に見えない檻に囚われている気持ちになった。だから妻が退院の朝迎えに来てくれた時は本当に清々しい気持ちになったのだが…。

「一体どうしたのよ?」

 家に帰り着いても浮かない顔の僕に妻は言う。「何なのよ?」

「自分の預かり知らないところで自分の事をとやかく言われるのが嫌なんだよ」

「仕方ないでしょ、急なことだったんだから。当の本人は気を失ってるんだもん」

 分かってる。そんな事は言われる前から了解している。しかし何だ、この不快感は?身体は元に戻ったのに、気持ちはかえって落ち着かなくなっている。

「医者からも何か聞いてるんじゃないのか?」

「何を?」

 妻は返す。「話は一緒に聞いた分だけ。他に何があるの」

 僕は黙る。そうだ、むきになっているのは自分だ。

「ごめん。ちょっと落ち着かないだけだ」

 僕は話を切る。「ちょっと下の店までアイス買いに行ってくる」

 自分でもよく分からない。分からないことを議論することほど虚しいものはない。世の中が掴めない。自分が分からない。何だ、この要領の悪さは?不甲斐なさは?僕は外に出て気を紛らそうとする。この森を歩いているとまるで迷路に迷い込んだようだ。僕は少し足早に坂を下りる。今日は猫もいない。コンクリートとアスファルトの路面だけが今僕を支えてくれている。公道に出てすぐのところの店先にあるアイスボックスを覗く。ここまでくると自分のさっきまでの違和感がまさしく妄想だという気持ちになる。

 医者は「軽いうつかも知れない」と言った。「しかし注意しなければならないのは、貴方自身にその自覚があまりないと云うことです」とも。

「うつなんて初めてなもんで」

 僕は正直に応えた。

「まあ、そうでしょうね。養生して下さい。油断は禁物ですよ」…。

 僕はアイスを妻の分まで買って家まで戻る。養生って云ったってなあ…。妻はテレビを点けて何か作業を始めている。

「アイス?後で食べるわ」

 彼女は言う。僕はアイスを齧りながらようやく落ち着きどころを見つけた気持ちになる。こんな時間帯に家に居てテレビを眺めながら妻の作業姿を見るなんて初めてのことだ。仕切り直しか…。確かにたまにこう云う時間を持つのも悪くないのかも知れない。口の中でアイスの甘い風味が広がる。

「昼ごはん、どうする?」

「そうだな、少し眠ろうかな」

 僕は応える。

「そうね。起きたらまた何か作るわよ」

 妻はこちらを見て言う。さっきまでのイライラと戸惑いがまるで嘘みたいだ。僕は布団を敷いて眠ることにする。せめてほんの少しだけ、今の自分を棚上げできると良い。そうすれば全てが上手くいく。僕は今そんな気がする。


「眠れた?」

 問われて私はぱっちりと目を開ける。

「うん」

 私は起き上がり上体を起こす。頭が幾分軽い。「今、何時?」

「午後二時。遅いけどお昼にしようか?」

「いや、まだ良いよ。あんまりお腹すいてない」

「分かった」

 妻はまた作業に戻る。私は彼女の手元を眺める。どうやらパッチワークを作っているようだ。デザインは秋めいた色彩になっている。

「それをどうするの?」

 私は訊く。

「手提げカバンにするの。一度思いっきり手間暇かけてみようと思ってね」

「そう」

「仕事、どうするの?」

「勿論明日から行くよ」

「大丈夫なの?」

「うん。心配ない」

 私は本当にそう思う。よく眠ったお陰でだいぶ体調も戻ったようだ。「何か、縁側にいないか?」私は外を見る。

「そう?」

 妻は気づいていない。私は立ち上がって窓際に寄ってみる。するとそこには見たことがない灰猫が悠々と日向ぼっこをしている。

「何だ、コイツ。デカいな」

「ああ、最近よく来るのよ。もしかしたら昔この家の人が飼ってたのかも知れないね」

「そうなのか?だとしたら無責任だな」

 私は改めて猫を見る。猫は特に腹が減っているわけではないのか、ただ単純に陽の光を全身に浴びて満足しているようだ。こちらにも気づいているとは思うが、特に意識はしていない様子。要は貫録と云うことか。

「そうか。この辺にはやたらと猫とか犬とか多いけど、要は置き去りにされた連中なんだな」

 私は言う。「いや、逆か」

「?」

「元々この辺の主は動物(けもの)で、そこに新参者の人間が来たってことかな」

 私がそう言うのを知ってか知らずか、猫はこれ見よがしにこれ以上ないほどの大きなあくびをして、そして寝がえりを一つ打った。


 仕事は相変わらず煩雑で、無理難題も容赦なく放り込まれてくる。しかし以前と違うのは、その度に私の中に小さな確信が浮かび上がってくることだ。

「いちいち振り回されてたまるか」

 お陰で私はクライアントにも平気で文句を云う。当然相手は不機嫌になる。それでも構わない。私はお互いの一番良い妥協点を見つけたいだけだ。どうせ半分辞める気持ちでいる。クビになる覚悟もある。そんな調子なので会社では当然「どうしたんだ、アイツ?」の目で見られる。まあ、仕方がない。

 舐められてたまるか。私は全うに仕事するだけだ。もしそれがダメなら、こんな会社いつでも辞めてやる。もちろん露骨に口には出さないが、私は日に日にその意志を強くする。

 家に帰って妻の仕事ぶりを眺めていると、知らぬ間に自分の事を振り返ることが多い。結論としては自分は仕事内容に特に何のこだわりもない事。まあ、どちらかと云うと人に会ったり、外で身体動かす方が取っ付きやすいと云う程度のもの。

「よくもまあ、こんなんで今までやってこれたよな」

 私が呟いていると妻が怪訝そうな顔を向けた。

「それ自体がスゴい事じゃないの」

 言われてみるとそうだ。

「人間なんてハナからその程度のものか」

 私は笑う。「でもまあ、何やかんやで続けちゃうんだよな。さも人生の大事みたいに」

「単純に面白いし、それで人との出会いもあるからね」

 妻は言う。「家族だっておんなじよ」

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