第4話

 区切り。考えてもみなかった。就職して気がついたら時間だけが経っていた。それが正直なところだ。

「区切り、か」

「そう、区切り」妻は真顔だ。

 昔、付き合った彼女に別れ際に言われたことがある。

「区切りを付けたほうがいいと思う」

 その時、僕はとっさにものが言えなかった。大体女の子の言葉には男には分からない多次元の意味があるようだ。僕にはその「クギリ」という響きが錆びついたギター弦のように鈍く鳴っていただけだ。

「女の子ってさ、そういう考え方ってよくするのかな?区切りとか」

「そうね、そうかもね。男の子ってないの?」

「うーん、男ってバカだからな。難しい事あんまり考えてないんだよ」

「女の方が現実的ってこと?」

「うーん、男からすればそう見えるかな」

「『女は自分が世界』って言葉、知ってる?」

「へえ、じゃ男は?」

「男は『世界が自分』」

「なるほど。やっぱり男はバカだな」

「そうでもないよ。女の方がわがままなのかもよ」

「とにかく、俺これからちょっと未知数」

「なんか、矛盾してない?」

「確かに」

 ふたりで笑ったが、僕は目の前に逃れられないものを突きつけられたような、やるせない気持ちになった。

 

 妻に思わぬことを言ってから、不思議とあれほどガムシャラにやってきた仕事に身が入らなくなった。とは云え外目には余裕が出てきたかのように思われたりして、逆に驚いている自分がいたりもする。全く人間てものは、まるで違う自分を複数抱えて生きているものなのかも知れない。

 そんな時上司の神川から呼ばれた。

「君さ、転勤大丈夫かな?」

「転勤ですか?急ですね」

「支店のほうで空きが埋まらなくてさ」

「どこですか?」

「F支店だよ」

 F支店は抱えるエリアこそ大きくはないが、近くに大型ショッピングセンターができる予定で、今から飛躍を期待できるところだ。

「県外に出ることになるけど、僕は悪くないと思うけどね」

神川はさして面白くもなさそうな顔で言った。

「分かりました。考えてみます」

とりあえず僕はそう応えた。

「河野さん、気をつけた方がいいですよ」

 デスクに戻ると隣りから同僚の松尾が声を掛けてきた。

「何が?」

「F支店、最近変な噂があって」

「どんな?」

 松尾が珍しく神妙な顔で語り出す。話はこうだ。確かにF支店は駅前再開発の影響で仕事が急増している。しかしその裏では奇妙なトラブルが続いていて辞めていく社員がちらほら、それも中堅から出始めているらしい。

「なんか祟(たた)りじゃないかって云う噂もあって」

「タタリ?何だ、そりゃ」

 僕は呆れて返す。

「案外馬鹿にできないんですよ。今度の開発はそれまで手をつけられていなかった旧市街地が中心で、まだ市民との間に上手く調整が付いていない案件もたくさんあるみたいですよ」

「そりゃそうだろうけど、そもそもウチはイベント屋だからなあ」

「逆ですよ。そう云う連中にとって一番癪なのはウチみたいなガヤですから」

まあ、確かにな。僕も納得する。

「それでタタリってのは?」

「気になるでしょ、やっぱり」

 松尾の鼻の穴が膨らむ。「イタズラ電話と付き纏いですよ。会社に意味不明な電話がかかってくるそうなんです。それに社外にいる時付けられているような気配がするんですけど振り向いても誰もいない。しかもそれに気がついた社員の方に集中してそれが起こり始めるんだそうです」

「警察に届ければいいじゃないか」

「そうなんですけど、これから掻き入れ時でしょ。今の支店長があまり良い顔しないらしいんです」

「…」

 と云う事は、今度の転勤話はあまりもろ手を挙げて喜べるものではないと云うことか。

 イベント会社と云うのはそれでなくても不思議な仕事だ。要は触れ込み屋。昔なら各地方のテキヤ、興行師が抱えていた仕事の一つで、今は様々な媒体への広告も駆使して宣伝する。都会ではタレントや劇団を抱えている大きな会社まである。僕のところはそれこそ中堅だからテレビ局や大型スーパー関係が上得意だが、大きな再開発となるとその範囲は一気に広がることになる。

「さて、どうしようかな」

 帰りの車中で一人呟く。またしてもどうしてこのタイミングなのか自分でも戸惑っている。

「参った。転勤の話が出た」

「あれ、仕事辞めるんじゃないの?」

「うん、全く間が悪い」

 僕は妻が淹れてくれたコーヒーを啜りながら応える。「忙しくなるという話は聞いてたんだけど、別支店の話だから気にもしてなかった」

「それで、どうするの?」

「うん、どうしようかなって思ってさ」

 僕は内心口ごもる。

「県外なんでしょ、F支店なんだから」

「もしそうなったら単身赴任だよな、やっぱり」

 僕はコーヒーを飲み干す。妻は自作のデザイン画に目をやっている。

「そうねえ、確かにタイミングとしては急だけど、別に私は良いわよ。引っ越しても」

「そうなのか。師匠のところに通うのが遠くなるよ」

「今はそんなに通う回数もないし、作業は結局自宅でやるしかないから」

 妻は呆気らかんと応える。

「そっか、君がそう云うんならな」

「受ける?その話」

「そうだなあ…」それでも僕の気持ちはまだ煮え切らない。「変な噂もあるみたいなんだよ」

「変な噂?」

 僕は事のあらましを説明してやる。すると途中から妻の目が輝き出す。

「面白いじゃない。その訳あり感」

「冗談。実際会社辞めちゃった人もいるんだぜ」

「ふ~ん。でも掘ったらもっといろんなものが出てきそう」

 やれやれ、妻は完全にオカルトのツボを突かれた様子。

「今の俺なら、その変なモノまんまと掘り当てちゃうかも」

「そうなったらどうする?」

「完全リタイアだな。下手したら人間止めちゃうかも」

「それはちょっと大袈裟ね。またここに戻ってくれば良いでしょう」

 妻は応える。

「そんなんならまだ単身赴任の方が良いよ」

 僕らはそう軽口を叩きながら微笑む。僕は自分が仕事を辞めたいのかそうでないのか、転勤したいのかしたくないのか、或いは此処を出ていきたいのかどうなのかが、頭の中でぐるぐると駆け巡る。

「それよりも自分のこれからの事、もう少し考えておいた方が良いかもよ」

 妻が言う。

「何で?」

「気づいてないかも知れないけど、あなた最近薄くなってるわよ」

「え」頭髪の事?僕は内心ドキッとする。

「違うわよ」

妻は多少面倒臭そうに応える。「何て云うか、存在、影」

ああ、そう云う事…。

「言われてみるとそうかもな」

「何か、勉強したいことがあるって云うのは?」

「ん」

 最初に仕事辞めたいと云う話をした時に考えていたのは、漠然とカウンセリングの勉強をしてみたいと云う思いだった。その頃読んだ本に影響されてだ。どちらかと云うと自分の鬱積した思いを整理してみたいと云うくらいのもの。本来ならちゃんと然るべきセラピーを受けた方が良いのかも知れないが。

「多分あなた今、仕切り直しの時期なのよ。仕事を辞める辞めないのレベルじゃなくて、個人的にちょっと揺れる時期。そう思わない?」

「うん。まあ、そうだね」

 そう応えつつも僕にはこれと云った実感がない。

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