第3話

 妻が帰ってきてから僕は早速そのことを報告する。

「いやあ、正直気持ち悪かったよ。外から上がりこもうとしてるんだもん」

「そう。それはちょっと困るよね」

「まあ悪気はないからいいんだけどさ。このままじゃよくないね」

「分かった。今度会ったとき言っとくよ」

 妻は毅然として言った。それからしばらく彼女はバック作りの師匠の話を楽しそうにしていた。ただ僕は彼女が楽しそうに話せば話すほど、彼女との間にそれまでなかった空間を感じていた。

「旅行でも行きたいな」

 僕はまた不意にそう口に出した。それまでも妻は旅行好きだった。

「え?ああ、いいね。でもあとひと月は無理だな。先生のところで発表会があるからね」

 彼女は本当に楽しそうだった。

 

 朝仕事に出かける時、少し離れた駐車場まで歩いていると、そこに猫がたまっていた。洋風屋敷の前辺り。

「お早うございます」

 僕が声をかけたのはもちろん猫ではなく、えさをやっていた大家さんの孫娘。彼女は屈んだ格好のままで「お早うございます」と頭を下げた。歳は二十二、三。声楽家というよりむしろ地道な公務員という印象を受ける。どちらかというと人付き合いが苦手なタイプか?勝手な想像だけがふくらんでいく。

 正直に云えば僕は若い頃から所謂開けっぴろげな娘よりどこかナイーブな娘の方が好みだ。実際そういう子と付き合ったこともある。ただ不思議と上手くはいかなかったが。考えてみれば妻と一緒になったのは不思議としか云いようがない。付き合い始めなどはしばらく実感が湧かなかったほどだ。喜びがないわけではない。もちろんある。しかしそれよりもむしろ、彼女と付き合うことで自分自身が変わっていくことを楽しんでいたような気が今ではする。


 仕事は単調といえば単調、ドラマチックといえばそうと云えなくもない。そもそも業界自体が社会で不思議な立ち位置にいる。まるで動物園で暮らす亜熱帯獣のように。

 先日会社が新人パートを募集することになって求人を出す雑誌の担当者がやってきた。

「お久しぶりです」

 矢野と云うその営業マンは慣れた口調でそう挨拶してきた。「今回は河野さんがご担当なんですか」

「そうなんだよ。現場の補助スタッフが一人急に辞めちゃってね」

「そうなんですか、大変ですね。早速ですけど求人内容はどうされます?」

「そうね、少し変えてみるかな。今度おたくのページ、全カラーになったんでしょ」

「ええ。僕は前の感じもいいと思うんですけど、ま、雑誌には色味も大事ですからね」

「イベントも同じだよ」

 僕よりいくつか年下らしい矢野はうなづきながらカバンから書類を出した。

「この前の女子学生どうでした?」

「ああ、結構よくやってくれてるよ。見かけは小柄だからどうかなって思ったけど、力仕事も嫌がらないしね」

「僕、あのタイプ好きなんですよね」

「そうなの?じゃ、言っといてやろうか?」

「え?ウソウソ。冗談ですよ。そんなことされたら女房に殺されますって」

 僕は笑ったが、彼が結婚していることは知らなかった。

「奥さんはどんなタイプ?」

「『猟奇的な彼女』って韓国映画あったでしょ。まさに、あんな感じですよ」

「じゃ、いいじゃん。結局可愛いんだろ」

「自分の口からは言えないでしょ」

「そりゃそうだ」

 面白い男だ。話しているとこちらまで自然と軽口が出てくる。彼のような人間がまさに営業マン向きと云うのだろう。

「あんた見てるとさ、本当に仕事が面白いんだなって思うよ」

「なんですか、それ?」

「いや、この仕事も好きで入ったんだけど、気がつくとデスクと現場の往復って感じでさ」

「あ、それ分かるなあ」

「そう?」

「僕だって一緒ですよ。仕事って慣れれば慣れるほどそうなっちゃうんじゃないですか。ほら、結局それで仕事辞めて独立起業。終いには借金だけってパターンもありますからね」

「そんな人知ってるの?」

「蛇の道はヘビって言うでしょ。僕らその辞めた人の代わりを探すお手伝い、させてもらってるんですから」

 道理だ。

「まさか、河野さんもですか?」

「え?冗談。俺にそんな根性あるわけないだろ」

 そう言うと彼はハハハと綺麗に笑った。

「そういえば、河野さんの奥さん、仕事の方はどうなんです?」

「うん。今はまだ勉強半分かな。でもパワーはすごいよ。日曜もなくやってるから」

「それスゴイですね。僕なんか月曜に『次の日曜どこに行こうかな』なんて考えちゃいますから」

「そんなもんだよ。だからさ、ここだけの話新人って結構いい気分転換なんだよね」

「ああ、皆さんそう言われますよ。やっぱり新人受け入れるって、そこのカルチャーが試されるじゃないですか。お互い猫かぶったってじきにバレますからね」

「そうなんだよ。ウチの社長、それが分かんなくてさ」

 僕がそこまで言うと矢野は「あ、ここなんですけど」と具体的な記事のレイアウトに話題を変えた。彼なりの営業の節度を感じた。僕は彼のこばっぱりした頭の髪を見ながら、そっちの話の方に入っていく。

 

 その日の帰りは夜の八時過ぎになった。駐車場に車を置き、家までの坂を歩いていると、一組の親子とすれ違った。あまり街灯もないところなので最初はよく分からなかったが、ふたりは隣りの家の娘親子だ。きっと今から自宅に帰るのだろう。僕はそう思いつつ家まで帰り着いた。

「不思議なんだけさ。あの親子っていつもふたりだよな。旦那はどうしてんだろ?」

「そうね。言われてみれば旦那さんって見たことないね」

 妻は食事の用意をしていたが、うしろ姿のまま応える。

「別居中って訳じゃないよな」

「だって自宅には戻るんでしょ」

「うん。さっきも道ですれ違ったよ」

「きっと、夜遅い仕事なのかも」

 なるほど。僕は納得した。

「それにしてもさ、毎日のように実家に遊びにくるって何だ?」

「うん。まあ、人は人だからね」

 妻はテーブルに座る。

「そう言えばあの女の子、あおば保育園に行ってるみたいよ」

 あおば保育園には僕の知り合いが勤めている。

「へえ、そうなんだ。なんで知ってるの?」

「最近あの子よく遊びにくるのよ」

「そうなんだ」

「忙しいときはどうしようもないけど、時間がある時は家に上げてお喋りしたりね」

「ふうん。親さんはいないの?」

「昼間はおじいちゃんおばあちゃんのところに預けられてるみたい。でもこの辺には遊び相手もいないでしょ」

 確かにこの辺は街には割りと近いが年寄りの多い地域だ。木立は鬱蒼としてるし、コンビニはない。坂を下ったところに昔ながらの商店があるくらいだ。

「でも怪我とかさせたら後が大変だから気をつけろよ」

「うん、分かってる」

 自分が世間的なことを言ってると気がつく。煩わしさから逃げたがっている。


 それにしても妻は本当にバッグ作りでプロになるつもりなのだろうか?彼女の才能に疑問があるわけではないが、正直実感は湧かない。特に外に出て営業しているわけでもないし、普段はとにかく蚕が繭を巻くように部屋に閉じこもって作業している。それはバッグ作りというより、むしろ何か個人的な修行のようにも思える。

「あのさ、仕事辞めようと思うんだけど」

 再びそれを口に出した時、どうしてこのタイミングなのか、自分でもよく分からなかった。

「何かあったの?」妻は努めて平静でいる様子。「前にも言ってたよね」

「特に、ということでもないんだけど、何かこのままでもダメかなって思ってさ」

 僕は口から出るままに喋った。

「そうなんだ。分からないでもないけど、でも、ちゃんと考えた結果?」

「そうだよ」僕は実際とは裏腹に即答する。

「なら良いと思うよ。いまの仕事、何年だっけ?」

「十年」

「十年か。いい区切りかもね」

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