第2話

 僕たちの家から数十メートル離れた所に大家の一家が新旧分れて住んでいる。古い方の屋敷にはすでに九十を越えているであろう老夫婦。向かいにある洋風屋敷の方には未亡人の奥さんとその娘、そして息子も住んでいるらしい。この家に決めた時、不動産屋の女あるじに「一度大家さんが会いたいらしい」と言われ、面倒臭かったが二人で出かけた。

 周りが鬱蒼とした木で覆われた屋敷は中に入ると意外にも明るかった。そしてそれと調子を合わせるかのように初対面の老夫婦は機嫌良く迎えてくれた。座敷に通され小一時間ほど話をした。ご主人の方はこのところ足腰が弱くなってきたらしいが、なかなかどうして明治男の気骨を感じさせるところがあり、そしてその傍らのご夫人はまさに育ちの良さを陽光のように振りまいていた。

「なんとも住む世界が違うって感じだな」屋敷を出た後で僕がそう言うと、

「まあ、なんとか気に入ってもらえたみたいで良かったじゃない」と妻は応えた。

 それからしばらく妻は月に一度直接その屋敷へ家賃を払いにいったが、その度手に持ちきれないほどの野菜やお菓子を貰ってくるのだった。

「大家さんのお孫さん、娘さんは声楽家で、息子さんは映画監督志望だって」

「へえ、すごいね。きっとお婆ちゃんの血だね」

 それからしばらくしてお爺ちゃんの具合があまりよくないのか、家賃はもう一つの屋敷の方へと持っていくようになった。そこの奥さんは市議会議員を何度かやった人らしいが、人当たりは極めて普通。昼間見かけるときはいつもムームー姿で庭先を元気に闊歩している。それとは好対照に娘さんはまだ二十代半ばだろうがとても落ちついた感じで、いつも玄関先で猫にえさをやっている。そう云えばこの辺りの猫の数は半端ではない。仕事に出かける度に2、3匹の猫に出くわす。種類はみんな日本猫だが毛並みはそれぞれだ。まだ子猫もいるし、すでにお腹の肉を弛ませながら悠々と歩いているやつもいる。

「メゾン・ド・猫屋敷だな」僕が言うと、「そうね。うちも飼いたいね」妻が返すので、僕は慌てて「生き物はしんどいよ」と応えた。

本音を云えば僕も動物は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。でも生半可な気持ちで飼う気にはなれない。当時は仕事でほとんど家にいない状態だったし、飼えば飼ったらで別れはほぼ確実に向こうが先になるのだから。

 それから一年余り。この辺りの猫の数は心なしまた増えた気がする。先日などは家の縁側テラスに猫が入り込んでいた。僕が洗濯機から洗い物を取り出そうとすると傍らからものすごい勢いで外に飛び出していった。そう云えば妻が仕事を辞める話をした時も同じようにオス猫が家に入り込んでいた。

「おわっ!」

「何事?」

「猫だよ、びっくりしたなあ」

「そう?うちの縁側、日向ぼっこにはもってこいだもんね」

「ちょっと狭いだろ」

「猫にとってはよ」妻はそう言ってから、「ちょっといいかな」と僕を中に呼んだ。

「何?」

「仕事、辞めようと思うんだ」

「え。ああ、何で?」僕は少し混乱していた。

「もう良い頃合いかなと思ってさ」

「例の仕事か?」

「まあね。今度は一人でバック作りやってみようかってね」

 考えてみれば妻は元々物づくりが好きだった。専門学校もそれ系だったし、よく手作りのプレゼントも貰った。しかしそれにしてもその道で独立するなんて。

「しばらくプー太郎状態。でも考えてたことだから」

「いいさ。僕も毎日頭によぎるよ。もしそうできたらなあってさ。でもいざ踏み出すとなるとね」

「私と一緒になったから?」

「そうじゃないよ」

「冗談。まだ私達、夫婦らしい暮らしもしてなかったもんね」

 確かにその通りだった。

 妻と初めて会ったとき、僕は不思議と縁を感じた。彼女は会社の新入社員だった。当初営業に配属された彼女は全くといっていいほど役立たずだった。それはあまりにも見事すぎて、顧客との初顔合わせをすっぽ抜かした時などは、さすがのコワモテ部長も呆れて笑ってしまうほどだった。

 彼女がそのミスの後処理をやっている時、僕は同じフロアで一人企画書の下書きをしていた。深夜の会社はひんやりとしていて、僕と彼女のデスクの近辺だけがほのかに明かりに照らされていた。

「お疲れ様です」

 彼女が近寄ってそう言ってきたとき、僕は初めて彼女の顔を正面から見た。どこかで見たことがあるな。そう思ってから、「お疲れ」と手を挙げた。

「まだ帰らないんですか?」

「うん、やり出すとキリなくてね」

「働き者なんですね」

「君に言われるとそれっぽく聞こえるね」

「ああ、それって皮肉ですか?」

 僕は笑った。言葉に他意はなかった。彼女も笑っていた。薄暗いオフィスにその声はエコーした。

 それからは普通に挨拶しあうようになり、たまに食事をするようにもなった。ある時、一緒に出掛けた映画館を出ながら彼女が言った。

「私たちって付き合ってるんですかね」

 僕は一瞬緊張したが、

「それも悪くないね」と慎重に応えた。すると彼女も

「うん。ありかも、ですね」と笑った。

 それから二年して結婚した頃、僕は人から馴れ初めを訊かれると「成り行き、引き摺られ、腐れ縁」と即答していた。本心だった。

 彼女は決して家庭的な雰囲気の人ではないが(出身は遠く京都市内)、結婚してからは生真面目なほど家事にこだわった。二、三日出張して戻るといつの間にか僕の部屋に整理ケースが段で増えていた。

 結局、妻は何事も〈 中間 〉が欠落した性格なのだ。それは時に思い込みであったり、時に彼女の世界観であったりした。

 バック作りも元々は物産館イベントでもらったチラシが始まり。彼女は自分も仕事で来ているのもかかわらず、そのバック作りのブースに開期中入り浸って、そのままそのオーナーに弟子入りしてしまった。僕は「仕事に差し障りなければ」とOKしたが、それはしばしば反故にされた。その間は家事もお休み状態となった。

 それでも彼女の作るバックには素人目でもなにかしらを感じさせる、本質的な愛嬌のようなものがあった。

「人柄なのかな」と僕が言うと、

「素材の力よ」と妻は真面目に応えた。

 やはり妻が仕事を辞めることになったのも自然の成り行きだったのだろう。彼女はバック作りと仕事との両立より、バック作りと家庭との両立を模索するようになった。もちろん亭主としては満更ではない気持ちだったが、職場の同僚としては間接的ではあるにせよ風当たりが強かった。その大半は仕事に真面目な女性社員からのやんわりとした苦情だったが、その段階で職場は彼女を持て余していたのだろう。もともと人間関係に煮え切らない職場ではあったので。

 事実、彼女が退職を公言したとき、周りは一様に安堵の表情だった。まあ、それも悪くない。僕はあくまで第三者を装いたかった。お別れ会のときも僕は扁桃腺をはらして欠席した。同僚の女性から「せっかくですから」と電話で誘われたが固辞した。そして部屋で寝転び天井を眺めながら、人は安堵すると優しくなるんだな、と一人納得した。

 それから三ヶ月。仕事から帰ると家に明かりが灯っている。そんな当たり前のことが僕にはなんだかとても面映かった。

「今日も猫が上がりこんでたよ」

「あの、自分で戸を開けてくる奴か。追っ払った?」

「ん。でも人懐っこくて可愛かったよ」

「それがヤバイんだよ。情が移るからさ」

 そんな会話を食卓を囲みながら交わす。今までなかったことだ。

「二軒隣りの早起きおじさん、あの人整体師らしいよ」

「へえ、そうなんだ。じゃ、あの朝の儀式も納得だな」

「最近は慣れたけど、初めのころは驚いたよね」

「驚いた驚いた。まだ暗いうちは正直お化けかと思ったもんな」

 僕が言うと妻は笑った。

「一度整体やってもらったら?」

「ああ、いいね。風呂沸いてる?」

 新しい生活を実感していた。


 ある日曜日、僕は久しぶりに一人だった。妻は師匠のところに出掛けていた。自分の部屋でパソコンのキーを叩いていると、居間のガラス戸が動く音がした。猫にしては落ちついている様子。僕は部屋を出て様子を見に行く。すると縁側テラスに人がいた。例の独り暮らしの老女だった。僕は努めて明るく声をかけた。

「こんにちは。今日は家のヤツはいませんけど」

 相手は一瞬僕を見て困ったように笑った。

「何か用ですか?」

「モチ食わんか?」彼女は言った。

「ああ、いいですね。いただきます」断る理由はない。

 すると彼女は着けていた前掛けのポケットからモチをそのまま三個取り出して、ガラス戸越しに手渡した。そして「有難うございます」と受け取りながらもいささか呆れ顔の僕には構わず、縁側から下に降りて自分の家の方へと歩いていった。僕は戸をそっと閉め、鍵をした。そしてもらったモチをテーブルに置いた。それは老女の年取った肌のようにところどころひび割れていた。

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