『 親愛なる隣人 』

桂英太郎

第1話

 ノックに気がつき玄関へ出た。戸を開けると誰もいなかった。「おかしい」と思いながらもまた家の中に入った。

「最近多いんだよな」僕がそう言うと、奥の部屋で仕事をしていた妻がやおら顔を出す。

「何が?」

「ノッキング・ダッシュ」

「何それ?」

「ピンポン・ダッシュってあるだろ。あれのノック版。きっと通りがかりの小学生だろうけど」

 僕がそう言うと彼女はさして興味も無さそうに頷いた。このところバック作りで深夜まで仕事している。少し疲れているのだろう。いつもはもっと話にのってくるのだが。

「そう云えばさ、あのお婆ちゃん、退院したの?」

「まだみたいよ。もともと血圧が高かったみたいだから養生してるんじゃない?」

「ふーん」今度は僕が黙る。

 妻が会社を辞めて、手作りのバッグ製作を始めて3か月が経つ。今は小物入れ程度のものを拵(こさ)えてはネットオークションで反応を見ている状態だ。僕はしょっちゅうネットより街の小物屋に営業することを薦めているが、彼女としてはとりあえずネット販売に集中したいらしい。

 それは僕にも分らないではない。妻が僕と一緒の会社を辞めたのも一つには彼女なりの自己実現上の悩みがあったから。表向きは円満退社=家庭に入るという形だが、妻の中では「もうしばらくは仕事で葛藤したくない」というのが本音だったのだ。だから僕もあまり彼女の仕事のスタイルに口出しはしない。とにかく妻が家にいて、自分の夢を少しでも追っていてくれることがなによりなのだ。

 それにこのところの妻は、共働きの時にはなかったご近所付き合いで少しずつ本来の明るさを取り戻しているようだ。その中の一人が先ほどの近所に独り住まいしている老女だ。最初のきっかけは妻が回覧板を届けにいった時にお茶を出され、しばし話し込んだこと。それから今度は相手が家に寄るようになり、今では一緒に買い物にも出かけるらしい。休みの日に初めて本人と会った時は、僕にはもう八十にも手が届きそうなのかと思えたが、後で妻に聞くと実はようやく七十を過ぎた年らしかった。

「でも私が言うのもなんなんだけど、あの人普段から閉じこもりがちだから余計老け込んじゃってるんじゃないかな」

「そう」

 僕は妻の言葉を軽く受け流しながらも本当は内心嬉しかった。考えてみれば職場、会社と云うところは、ごく日常的でありながら、その実思いもよらない圧力をその人間の内面に加えているのかも知れない。その会社から離れて妻はどうにか他人のことにも気持ちが向くようになりつつあるようだ。

「でもあのおばさん、ここんところよく家にも遊びに来てたんだろ」

「うん。四、五日前は私の運転で一緒に市役所まで行ったのよ。ほら、おばちゃん一人であの坂上がってくるのは大変でしょ。そしたらとても喜んじゃって」

「へえ、そうなんだ」そんなことまでは知らなかった。

「ま、ご近所だからね。そう、おばちゃんが倒れてたときも一緒に買い物行くはずだったのよ。あのときは驚いたな」

「でも本当に良かったじゃん、大したことなくて。やっぱり独り暮らしは危ないよ」

「まあね」

 僕らがこの集合住宅に越してきてから早や二年になる。それぞれの家にはちいさな庭がついており、それまで狭いごく普通のアパートに住んでいた僕らは古いながらも風情のあるこの家に住むことを決めた。職場にも割りと近かった。ただひとつ難点を言えば、この家一帯が小高い丘の上にあり、歩いて上がってくるにはそれなりに骨が折れることだ。しかしそれも車通勤の僕たちには関係なかったし、まずなにより僕たちは普段ほとんど仕事の合間に寝に帰るほどしか家にいなかった。おかげで越してきた当初回ってきていた回覧板もいつのまにか家には来なくなっていた(まあ無理もない)。

 外から見るとこのあたりはまるで町外れの鎮守の森だ。一年前に電話会社の鉄塔が立ってからはどこからでも目印になる。妻もようやく家のまわりを散策するようになったらしいが、この丘近辺は結構奥深く、少し行くと山の上の小学校まで繋がっているらしい。そういえばたまに遅出の日に家で寝ていると小学生の賑やかな声で起こされることがある。考えてみると人はそこに住んでいるだけではまだ何も知らないのも同じ。その意味で妻は我が家のフロンティアなのだ。

 今日はほぼひと月ぶりの休日。僕の会社はイベント関連なので、季節によって忙しさがまるで違う。それに最近は上役の意向で新たな分野に手を出し始めていて、僕ら中堅社員でも仕事の中心軸が分からなくなることがよくある。おまけに社長は気分屋、専務は理屈バカ、その脇で実務を一手に握っている主任は自己チューときている。まあ、それでも会社がどうにかここまでもってきたのにはそれなりの理由はあるのだろう。だが、その下で働く人間の忍耐もまた大したものなのだ。

 このところ僕自身仕事に出かけるのが億劫になってきている。理由は「なんとなく虚しい」から。そんな理由が通るわけがないことは自分が一番よく分かっている。しかし他に表現のしようがない。一体何のために働くのか、本当に誰かに問い質したくなる。あるいは全てを投げ出してどこか旅行でも行けたらさぞ気も晴れるだろうと思う。しかしそれは逃げ。そう押される烙印は決まっている。

 妻は今、早朝のバイトだけやっている。牛乳配達だ。いつも4時起きで出かける。僕は半寝の状態で見送るが、みるみる彼女は心身の健康を取り戻しているようだ。朝玄関のドアを開け、外へ小走りで出て行くその姿はむしろ逞しくさえある。

「俺、仕事やめようかな」

 このところぼんやりと考えていたことを口に出してみた。

「いいんじゃない。好きにしたら」

 妻の口ぶりは皮肉でもなんでもなく本心から言っている様に思える。「食べていくことならどうにかなるよ。でもその後どうするつもり?」

「具体的じゃないけど、少し勉強したいことがあるんだ」僕も正直に答える。

「なら、いいじゃない」

 妻は自分の手作業を続けながらそうあっさりと返した。その時、またドアのところでノックの音がした。今度は間違いない。ちゃんと人の気配もする。

「私が出るわよ」妻が立ちあがって、やおら扉を開いた。「あら、こんにちは」彼女は明るい調子で言った。僕は奥から様子を窺う。

「今日はね、旦那さんがいるから遊べないの。ごめんね」

 相手はどうやら幼い子どもらしい。

「じゃ、今度いつ?」

「明日なら大丈夫だよ」

「分かった」

 そしてドアの閉まる音。

「誰?」

「隣りの紫蘇原さんのお孫さん。レイちゃんって云うの」

「へえ、よく遊びに来るの?」

「うん、この前一度だけね。幼稚園に行ってるんだけど近くに友だちがいないんだって」

「いつもお母さんと通(かよ)って来てるんだろ」

「そうみたいね」

「でも、お父さんていうか、ご主人は見たことないよな」

「そう言えばそうね」

 もともと紫蘇原さんは老夫婦ふたりで暮らしている。ご主人はブルドックのような風体で一見怖い印象だが、挨拶すれば「おお」とか「ああ」とか一応返してくれる。要は愛想の苦手な人なのだろう。仕事はこの集合住宅の大家さんの手伝いで、庭木の手入れや雑用を任されているらしい。奥さんは対照的によく喋る人のようだが、とにかく声のトーンが犬のスピッツのようで、ときどき隣りから奥さんの話し声が聞こえてくると、気持ちがざわめき立ってきて思わず両耳を閉じたくなる。その不釣り合いさを考えると全く夫婦とはよくしたものだと思う。

 あの幼子がお孫さんか。多分可愛い盛りに違いない。僕は思う。結構お転婆なのだろう。お婆ちゃんである奥さんから叱られている声がよく家にも聞こえてくるが、なかなかどうして彼女も負けていない。子どもながらにしぶとく反抗しているようだ。

 考えてみれば妻も子どもは嫌いではない。正月や盆に実家に帰ると自分の兄貴の子どもとよく遊んでいる。「精神年齢が一緒って思われてるのかも」と彼女は笑うが、正直僕も子どものことは気にかかっている。彼女も僕もすでに三十を越えている(僕はほぼアラフォー世代だ)。彼女の両親にあからさまに言われるまでもなく、「もうそろそろ」と考えてはいるのだが…。

「明日から出張だよね」

「うん、一泊だけどね」

「どこだっけ?」

「鹿児島」

「夜は遅いの?」

「いや、なるべく早く戻るようにするよ」

 そう言ってはみたものの何か確証があるわけでもない。

「今度温泉でもいくか」

「うん、いいね」

 妻は作業に戻りながら応えた。

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