たかが拳法、されど拳法 V.1.1

@MasatoHiraguri

第1話 第0話 プリミティブ(原始・粗野・素朴)な世界で知る大学日本拳法の真価

第0話 プリミティブ(原始・粗野・素朴)な世界で知る大学日本拳法の真価


<土工・土方の功徳(善行の結果として生じる、良い報い・ごりやく)>

○ 形而上(精神的)効果

 (70代にして始めた)土工・土方の世界では、殴る・蹴る・投げるの総合格闘技である日本拳法で鍛えた筋力・精神力なんて、大して役に立たない。  

  また、単なる拳法ではなく、大学でやる日本拳法ならでは、ともいうべき哲学性というのも、土工・土方の世界では価値が無い。

  極めてシンプルでプリミティブ(且つガチガチの金銭感覚・真剣勝負)という土工・土方の世界では、禅に於ける「無の境地」なんてものでさえ、遊び・おままごとでしかないのです。


  「格闘する」といい、(私の場合)自分の理性だけを頼りに真剣勝負をする土工・土方の世界とは、単なる殴り合いの大学日本拳法とは比べようもないくらい現実的・実用的な理性が求められる。ここで俗性を廃して正気を維持することができれば、かのカントが行き着いた「ゲルマン人の純粋理性」にさえ行き着くことができるのではないか。その意味で、20代の大学日本拳法という理性鍛錬の場でかじった理性とは、70代という人生の最終過程に於いてその核となり得た、ような気がします。

  また、座禅だの僧堂での修行では不可能な「真の無の世界」に没入することもできるという意味で、これまた僧堂・禅坊主・座禅体験とは予告編のようなものでした。つまり何も知らず、70代にして初めて「無の世界」に接したならば、たまげただけであったかもしれませんが、「無の境地というものがある」ことは知っていたので、それをいま現実に意識して実体験することができました。

  まこと、70代にして体験した土工・土方の世界とは、人生最後のステージに於ける「天国への道」を知らしめてくれたといえるでしょう。


○ 肉体的御利益

  ジョギングだのアスレチック・クラブで筋トレなんてことよりも、ずっと効果的な健康増強効果がある。もちろん、釘の刺さった木材を踏む、なんていう初等危険性から始まり、頭上から鉄パイプが落ちてくる、足場から転落するなんていう、健康維持・増強どころか命まで失うというリスクは常につきものではありますが。


○ げんなま(現金)の喜び

  肉体労働者の皆さん誰でもそうだと思いますが、実質朝5時から始まり17時まで続く土工・土方の世界では、辛い仕事中に「カネがもらえるから頑張る」なんて意識はない。肉体的にも精神的にもどん底と言える環境では、カネも夢もない完全なる無の世界なのです。

  それだけに「戦い済んで日が暮れて」、ヘトヘトになって手にする1万円札とは、ノーベル賞や紫綬褒章をもらうなんてことよりもずっと根源的な喜びを味わえる一瞬といえるかもしれません。

  究極の真剣勝負である大学日本拳法における純粋理性(の追求)にしても僧堂に於ける座禅にしても、「人生最後のステージで見た天国への道」に比べれば、それを知るための入門編でしかありませんが、予告編としては役に立ったということであり、その意味では、大学日本拳法に於ける(殴る・殴られるというシンプルな)理性の鍛錬とは、非宗教体験として、決して無駄ではないと思います。


  一方、禅とは仏教であり、キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教といった、神を意識し天国を目指す宗教とは違うので、聖書とかに興味のない人にとっては没交渉の世界。「すべてが無」という話でいいのでしょう。「本当に信じることのできる者は救われる = それに近似できる」とは、宗教に限らずビジネスに於いても言えることなのです。


第1話 何処にでもある「天国への道」


  私がたまたま見つけた土工・土方の世界という天国への道。

  シンプルでプリミティブ、正直でストレートな人たちが、学問的・宗教的ではなく、あくまでも生きるため(金を稼ぐ)という真剣勝負・超現実感覚で戦っていれば、イエス・キリストの言うように「誰でも天国へ行く資格を手にすることができる」のだろう。


  その意味で、昨今の「存立危機」を巡る騒動とは、真剣勝負・超現実感覚の中国人と、芸能人感覚で政治のマネごとをしているとしか思えない政治屋たち・芸能記事感覚でそれをニュースにしているマスコミ屋たちとの対比に見える。

そして、それは私にとって「天国と地獄」という、真剣に生きる在来種純粋日本人(縄文人)と、人が困るのを見て面白がる在日韓国人との相剋を描いた黒澤明監督の映画を思い出させるのです。


自分以外の人が天国へ行くのかどうか、なんて誰にもわからない。私自身も「これが天国への道である」と自分独りで信じているだけのこと。ただ、新約聖書に書かれた、真剣・誠実・愛(いわゆる愛するではなく、辛抱強く戦う・人と付き合う)という観点からすれば、私は私なりに、こういう人(たち)が天国へ行けるのかもしれない、なんて思うのです。

  また、中国人に天国という意識は無いかもしれませんが、彼らの(人民網日本語版に見る)様々な事象に対する真摯な取り組み方には、彼らなりの行くべき所へ行くであろう、そして、それが彼ら中国人全体の(形而上に於ける)血の濃さとなっているのでは、と思わざるを得ないのです。


因みに、天国とはイエス・キリストのように「何度でもその人・その民族を繰り返すことができる人の魂が行くところ」というのが私の新約聖書の解釈です。



第2話 「22:14(天国へ)招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(新約聖書)



私の知る、天国への道を確立した人。


 ○ 月下推敲で名を成した唐の詩人賈島

<引用始め>

賈島

閒居少鄰並,

草徑入荒園。

鳥宿池邊樹,

僧敲月下門。

過橋分野色,

移石動雲根。

暫去還來此,

幽期不負言。


李凝(りぎょう)の幽居(ゆうきょ)に題(だい)す   賈島(かとう)


閑居(かんきょ)鄰竝(りんぺい)少(すく)なく

草径(そうけい)荒園(こうえん)に入(い)る

鳥(とり)は宿(やど)る池中(ちちゅう)の樹(き)

僧(そう)は敲(たた)く月下(げっか)の門(もん)

橋(はし)を過(す)ぎて野色(やしょく)を分(わ)かち

石(いし)を移(うつ)して雲根(うんこん)を動(うご)かす

暫(しばら)く去(さ)って還(ま)た此(ここ)に来(き)たる

幽期(ゆうき)言(げん)に負(そむ)かず



詩の大意

隣家も稀な李凝の幽居。草径を通り池畔を過ぎて、

僧は月に照らされた門を敲く。橋を渡れば、一面にあふれる野色。

岩を動かせば、雲が湧くかと思われるほどだ。

今夜はこれでお別れしますが、そのうちにきっとまたお伺いしますよ。

この約束はかならず果たします。

『中国の故事と名言五〇〇選』(平凡社版)

<引用終わり>



○ 曹操


<引用始め>

「曹操の詩の新解釈」

 曹操(そうそう:155~220年)とは、中国後漢末期の武将で三国時代の魏の基礎をつくった人物である。中国の評価としては古来、悪智恵の働く奸雄(かんゆう)とされ、大衆受けをねらい、おもしろおかしく脚色された『三国志演義』の影響により、現代でも極悪人の一人とされている。しかし、私が理解する曹操は、迷信や邪教を禁ずる合理的精神の持ち主である。また、勝利した曹操に対して、敗軍の将が「金銀財宝、食料は国家の持ち物である」として燃やすことなく引き渡したことがあったが、曹操はその「無私の精神」に感じ入り、侯爵位を授けたうえに、その娘を息子の嫁に迎えた。誠に度量が広い人物だと思う。私は、彼の詩作品から民衆や兵士の苦しみを憐れむ気持ちや乱世平定への志をも感じている。

 以下に私の好きな曹操の詩、「歩出夏門行(ほしゅつかもんこう)」を紹介する。


「歩出夏門行」

神亀雖寿           神亀は寿(いのちながし)と雖(いえど)も

猶有竟時           なお竟(おわ)る時有り

騰蛇乗霧           騰(のぼ)る蛇は霧に乗れども

終為土灰           終(つい)には土灰(どかい)と為る

老驥伏櫪           老驥(ろうき) 櫪(れき)に伏すとも

志在千里           志(こころざし)は千里にあり

烈士暮年           烈(たけ)き士(おとこ)は暮年にいたれど

壮心不已           壮(さか)んなる心を已(とど)めあえず

盈縮之期           盈(なが)きと縮(みじか)きの期(さだめ)は

不但在天           ただ天のみに在らず 

養怡之福           怡(よろこび)を養い之(これ)を福すれば

可得永年           永年を得べきなり

幸甚至哉           幸(さいわい)は甚(なははだ)しくいたれるかな            

歌以詠志           歌いて以って志(こころざし)を詠まん


神亀は長い寿命を持つといっても

それでも命の尽きる時がある

龍は霧に乗って飛び回るも

最後には土と灰に還っていく

しかし駿馬というものは老いて厩(うまや)で横たわっても

志は衰えることなく千里の彼方を目指そうとする

熱い思いをもつ男児は年老いても

若々しく元気な気持ちは失われないものだ

寿命が長いか短いかは

ただ天の命ずるところだけで決まるのではない

平和を維持・拡大し、天すなわち万民に幸福をもたらすこと、

それは限られた命しか持たない私でも実現可能なことであり、

万民に幸福をもたらすことは私にとっては永遠の命を授かったことと

同じ喜びなのだ、

これ以上の幸福があろうか。

歌によせてわが志を詠った。



『歩出夏門行』は曹操が烏桓(うがん:東胡とよばれた遊牧民)を征伐する頃に詠んだ詩であり、五篇作成され、五篇目は『「神亀寿」の詩』と表記される。ちなみに「歩出夏門行」という楽曲にあわせて作成された詩なので、題と詩の内容には関係がない。また「幸甚至哉 歌以詠志」は、はやし言葉であり、五篇の各末尾に添えられている。


 西暦200年、曹操は、冀州(きしゅう:中国北部)から南下してきた袁紹(えんしょう)と戦い、大勝利をおさめた(官渡の戦い)。そして204年には袁氏の本拠地を陥落させた。207年に袁氏の残党とそれを擁護する烏桓を討伐するため出征した。征戦は5月から翌年の1月におよび、結果的に勝利したが大変な困難を伴なった。冬の寒さのうえに日照りのため水不足となり、水を得るために三十余丈(約72メートル)もの地面を掘らなければならなかった。食糧も不足して数千頭もの軍馬を殺して兵糧としたという。


 私は、「神亀寿」の詩を読んで、「老驥(ろうき)櫪(れき)に伏すとも志は千里にあり」という文句に感動した。かの毛沢東氏もこの詩を愛唱したと聞いている。

 この詩のなかの「養怡之福 可得永年」の訳「平和を維持・拡大し、天すなわち万民に幸福をもたらすこと、それは限られた命しか持たない私でも実現可能なことであり、万民に幸福をもたらすことは私にとっては永遠の命を授かったことと同じ喜びなのだ」は、私の解釈である。ほとんどの研究者は「養生に努めれば、長生きできる」という趣旨に訳されており、「之」を「天」と解釈した人はいない。私の新解釈である。

 例えば、東京大学名誉教授の竹田晃氏は著書「曹操 三国志の奸雄(講談社学術文庫)」の中で、「盈縮之期 不但在天 養怡之福 可得永年」を

「長く短く定めなき命の期(かぎり)

 されどただ天運とおきらめむな

 身も心も安らかに養えよ

 永久(とわ)なる命得べからん」

と訳され、その解説にも

「・・・人間の寿命は天の定めのみによるのではない。人間の努力如何によっては、不老長寿の道をも会得することができるのだ・・・・・・まことに、曹操の意気盛んなり、というべきであろう。

 曹操という男は、その盛んな意気によって着々とその地歩(ちほ)を固め、野望を達成していったのであろうが、はたして、人生に対して終始このように、あたかも恐れを知らぬごとく強気に走り続けたのであろうか。」

とされている。曹操を奸雄と決めつけての解釈である。


 他に、中村愿(すなお)氏は「三國志逍遥(山川出版社)」の中で「神亀寿」以下を次のようにわかりやすく訳されている。

神亀(かめ)は寿(ながいきする)とは雖(いえ)、

猶(かならず)竟時(しぬとき)が有(やってく)る。

騰蛇(りゅう)は霧と乗(たわむれ)ても、

終(いつか)は土灰(つちくれにかえって)ゆく。

老驥(おいためいば)は櫪(うまや)に伏(ふす)とも、

志(こころざし)は千里(どこまで)も在(たか)く、

烈士(きがいあるじんぶつ)は暮年(おいさきみじかく)とも、

壮心(うつぼつたるきもち)を不已(おさえきれぬ)。

盈縮(ひとのいのちのちょうたん)は

不但在天(てんのおもうがままなのか)、

養怡之福(ようじょうをうまくたもてば)

永年(ながいき)も可得(きっとてにいれられよう)。

幸甚至哉(ああなんとしあわせ)、


歌以(うたって)志(おもいのたけ)を詠(あらわさ)ん。


 中村愿氏は曹操を奸雄とはみなさず、

「献帝と曹操が心から願ったこと・・・それは単に権力や国家を奪う、奪われるという次元ではなく、“天下(よのなか)”を立派に治め“天下(よのなかのひとびと)”に平和と安定をもたらすということに尽きよう。」

と曹操の壮大な志を説明している。しかし、その中村愿氏でさえ「養生に努めれば、長生きはできる」という趣旨に訳している。


 なぜ、竹田晃氏や中村愿氏が「養生すれば長生きできる」という趣旨の訳をほどこしたのか。

「養怡之福」が、他にどのように訳されているのかインターネットで調べてみたが、この詩を訳したほとんどの人は、次のように「養生すれば長生きできる」という趣旨として理解している。

『(自らが)和らぎよろこぶ幸福を培うように心懸ければ。』

『心に喜神を含めば遂には長久せざるなし。』

『生活や活動に調和を心がけ、幸福を目指せば、』

『生きる喜びを知り、幸せに暮らすことができれば長生きできるものだ。』

 さらにインターネットで検索したところ、作者不明だが注目すべき文を発見したので紹介する。

『《歩出夏門行》,黄節はじめ多くの碩學が,曹操の烏桓征伐時の作として異論が無い。とくに四解だが,「盈縮之期,不但在天,養怡之福,可得永年」の部分について,黄節は烏桓征討戰を終えて帰還した軍を還したあと曹操がおのれをいましめたことをいう,としている。曹操が軍旅を起こす前に,ムチャだ,と,曹操を諌めた部下を確かにその通りだったとして厚く褒賞した,という有名なエピソードである。

『樂府正義』(朱乾)を引用すると

 朱秬堂『樂府正義』曰:魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。

 軍還之日,科問前諌者,衆莫知其故,人人皆懼。公皆厚賞之,

 曰:「孤前行,乘危以徼倖,雖得之,天所佐也,顧不可以為常。

 諸君之諫,萬安之計,是以相賞,後勿難言之」(三國志武帝紀)』


 ここで碩学と紹介されている「?節(1873年-1935年)」とは、中国の詩人で、かつ歴史学者である。曹操の詩の解釈書も《魏文帝魏武帝詩注》、《曹子建詩注》等多数著しているので、竹田晃氏も中村愿氏も?節の解釈に従ったのではないかと思われる。

インターネットでは、「?節」が、「朱乾」が著した『樂府正義』の文中の「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」を根拠として、この詩の作成時期は烏桓征伐後であり、「養怡之福,可得永年」の解釈については「殊非怡養之福。」の文章があることをもって「養生すれば長生きができる。」と解釈する根拠としているようなのである。

「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」は「武帝曹操は烏桓征伐の際、非常な危険をおかした。養生するどころではない。」とでも訳するのだろうか。

 しかし、「朱乾」の『樂府正義』では、出典を「三國志武帝紀」としているのだが、私が「正史 三国志(ちくま学芸文庫)」の「武帝紀」調べた限りでは、「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」に該当する訳が記載されていないのである。

『樂府正義』の中の

「軍還之日、科問前諌者,衆莫知其故,人人皆懼。公皆厚賞之,

曰:「孤前行,乘危以徼倖,雖得之,天所佐也,顧不可以為常。

 諸君之諫,萬安之計,是以相賞,後勿難言之」(三國志武帝紀)」

にかかわる内容を「正史 三国志(ちくま学芸文庫)」の「武帝紀」から引用すると次のとおりである。

「『曹瞞伝』にいう。その時、気候は寒いうえにひでりであった。二百里にわたって水はさらになく、軍はそのうえ食糧に欠乏し、数千匹の馬を殺して食にあて、三十余丈も地面を掘ってやっと水を手に入れた。帰還ののち、前に[烏丸征伐を]諫めた者の名を書き並べて報告するように求めた。人々はその理由がわからず、皆、心配した。公は手厚く彼らに恩賞を与えて述べた、「わしの先の遠征は、幸運によって危険をのりきった。うまくいったのは、天が助けてくれたからこそだ。したがってこれを常例とするわけにはいかぬ。諸君の諫言は、万全の計である。そのために恩賞をとらすのだ。今後、発言をひかえたりしないでくれよ。」

「『曹瞞伝』にいう。」以下の文章は「裴松之の注」である。

「裴松之の注」について説明する。陳寿は『三国志』を記述するにあたって信憑性の薄い史料を排除したために、『三国志』は非常に簡潔な内容になっていた。そこで、宋の文帝は裴松之に注釈を作ることを命じ、裴松之は西暦429年に提出した。裴松之の注の特徴は、陳寿の触れなかった異説や詳細な事実関係を収録した点である。陳寿の『三国志』完成後の出来事も補われている。「曹瞞伝」などすでに失われた書物からの引用も多く、貴重な史料である。また、信憑性に欠けるが話としては面白い逸話も数多く収録されていた。


「曹瞞伝」についても説明する。作者不明だが、魏の敵国であった呉の人という。曹操の悪行集といえる内容が多い。そもそも表題からして曹操を卑しめている。曹操の幼名は「阿瞞」といい、ここから「曹瞞伝」と名づけられたというが、この「瞞」の意味は「だます、あざむく、くらます」であり、ようするに彼の幼名は「嘘つき小僧」だったと言っているのである。成人して「曹操」という名に変わったにもかかわらず、幼年時代の「阿瞞」を表題としているのは曹操をおとしめるためとしか考えられないのである。

 武帝紀の注に引かれた「曹瞞伝」の「諫言に対する恩賞」のエピソードは、曹操の評価を高めたエピソードと思える。しかし、見方によっては、「先見の明がないため危うく敗北しそうになり、部下に詫びる情けない将軍であった」というエピソードとして、「曹瞞伝」に取り上げられたのかもしれないのである。いづれにしても「曹瞞伝」は信憑性に欠ける逸話を集めたものと理解しておく必要がある。しかし、その「曹瞞伝」にも「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」の文章は記載されていない。勿論、「ちくま学芸文庫」のみで断定するのは早計とは思うが、インターネットで調べる限り、「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」を記載した「三國志武帝紀」は見当たらない。したがって?節の引用が間違いでなければ、「朱乾」の『樂府正義』のみが記載していたと思われる。

しかし?節も「正史 三国志」には記載されていないと知っていたはずである。もし「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」が「正史 三国志」に記載されているのなら、「朱乾」の『樂府正義』を引用する必要がないからである。

「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」は「朱乾」の『樂府正義』が曹操の詩「養怡之福 可得永年」を参考にして作成された文章だとすると、?節の「養生すれば長生きができる。」という解釈は、『樂府正義』を出典としていることから、その根拠がなくなるのである。したがって改めて「養怡之福 可得永年」が何を意味しているのかを考える必要が出てくる。


「怡」の意味を辞書(大修館書店 漢語林)で調べると、「よろこぶ(喜)、たのしむ(楽)、やわらぐ(和)」とされている。前述の?節も「怡」を「和」と解釈している。したがって?節は「和を養い、福をめざせば長生できる」、つまりは「養生すれば長生きできる」と解釈したようである。しかし、曹操は、『「神亀」や「騰蛇(龍)」でさえも死をまぬかれない』と嘆いているのである。つまり神獣であっても寿命は永遠ではないと理解しているのである。したがって、曹操がこの詩で唱える「永年」とは「永遠」を意味している。その曹操が、養生することによって得られる年月が、たとえ数十年であろうとも、「永遠」にくらべれば一瞬にすぎない時間であり、「永年」などと思うはずがないのである。したがって「養生すれば長生きできる」とする解釈は間違いである。


 ではどう解釈すべきであろうか。

 私の「盈縮之期,不但在天,養怡之福,可得永年」の解釈は次の通りである。

 まず、「怡」は?節の唱えるように「和」と同義であると解釈するが、「之」は前にある「不但在天」の「天」を指す代名詞と考えた。

 「天」については、中村愿氏は「三國志逍遥」の中で、曹操の意味する「天下」は、「皇帝・群臣・諸将・貴族・民衆」すなわち「よのなかのひとびと」の意味としている。したがって「天」も同様に「世の中の人々をつつみこむもの」というより、「よのなかのひとびと」と同義と考え、訳としては「和を養い、天に福をもたらせば」となるとした。その結果、この文の初めに紹介した以下のようになる。


盈縮之期           盈(なが)きと縮(みじか)きの期(さだめ)は

不但在天           ただ天のみに在らず 

養怡之福           怡(よろこび)を養い之(これ)を福すれば

可得永年           永き年を得べきなり


寿命が長いか短いかは

ただ天の命ずるところだけで決まるのではない

平和を維持・拡大し、天すなわち万民に幸福をもたらすこと、

それは限られた命しか持たない私でも実現可能なことであり、

万民に幸福をもたらすことは私にとっては永遠の命を授かったことと

同じ喜びなのだ、


 私の解釈によればこの詩は、中村愿氏が述べたように、「曹操の願いは、権力や国家を奪う、奪われるという次元ではなく、“天下(よのなか)”を立派に治め“天下(よのなかのひとびと)”に平和と安定をもたらすということに尽きよう。」を表現したものとなるのである。私は曹操の立派な志を多くの人々に知ってもらいたいと願う。

 世の中の常識として、曹操は悪知恵を働かして出世した「奸雄」であり、中国では約1800年の間、極悪人として嫌われている人物である。その人物を擁護するのは学者でもない、作家でもないただの人の私には荷が重い。しかし、孟子のいう「自(みずか)ら反(かえり)みて なおくんば千万人といえども吾往(われゆ)かん」の志だけは持っている。14億の中国人、さらにはそれ以上のアンチ曹操派を相手にして曹操を擁護する覚悟である。

<引用終わり>



日本人

○ 芥川龍之介

○「雨は降れども身は濡れやしまい。さまの情けをかさに着て散りゆく花は根に帰る。再び花が咲くじゃない。」



続く


2025年12月06日(土)

V.1.1

平栗雅人


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