第9話 俺は、そのラインをすでに踏み越えた
DPA本部・上層会議室は、外より一段暗く、モニターの光だけがやけに鋭かった。
テーブルの中央に浮かぶホログラムには、三つの画面が並んでいる。
一つは、如月迅の生体モニタ。
『コア反応:検出不能』『外獣化進行:停止傾向』――淡い緑のラインは、静かな水平線のままだ。
隣には、心理評価の文字列。
『危険域/要長期観察』『自己否定的発言の増加』『人型外獣への同一視傾向』。
最後の画面には、過去の
「――以上が、現時点での人型外獣に関する最新データだ」
卓の端に座る局長が、眼鏡の奥で目を細める。
ダンジョン対策室の室長、医療・研究主任。壁際には神崎と、白と青のスピードスーツに身を包んだファルコンも立っていた。
局長は、すでに用意されていた結論を読み上げるだけの口調で続ける。
「人型外獣に対する治療研究は、引き続き継続する。
ただし現場方針として――」
ホログラムに、新しい文面が重ねられた。
『シャドウブリンガーの完全排除を最優先とする』
会議室の空気が、わずかに硬くなる。
「
装甲ヒーロー部隊は、その上で確実にトドメを刺す最終戦力として運用する」
淡々とした言葉の中で、「治療」「救済」といった単語は、一行にも満たないスペースで済まされていた。
神崎は、そのバランスの悪さに気づいていた。
如月の安定データ。初期段階なら、少なくとも「人のまま留められる」可能性。
それらは、会議資料の中で端に押しやられ、赤字で囲われた『排除』の文字だけが浮かび上がっている。
(結局、現場で血を流すのは、同じ人間だってのに)
喉の奥に、乾いた何かが張り付く。
それを噛み潰すように、神崎は口を閉じた。
「……以上の方針に、異論は?」
局長の視線が、テーブルを一周する。
ファルコンは、ほとんど表情を動かさずに軽く頷いた。
「命令が出たなら、それに従うだけです。
シャドウブリンガーは、現場の被害を拡大させている要因でもある。排除方針は理解しました」
プロフェッショナルな答え。
彼はヒーローで、ここは上層会議だ。個人の直感より、決定された方針が優先される。
「神崎隊長」
室長が名指しする。
「スロー部隊への作戦内容は、別途ブリーフィングを行う。
今回の任務、貴隊が要になる。準備を頼む」
「了解しました」
神崎は短く答える。
その手の内で、拳が見えないところで静かに握られていた。
◇
ダンジョン対策室・ブリーフィングルーム。
壁一面のスクリーンに、シティ外縁部の立体地図が投影されていた。
夜のビル群から、外縁の空き地・物流倉庫地帯へと、赤いラインが伸びている。
ところどころに、黄色のマーカーが点在していた。
「このマーカーは……?」
第一班の後ろの方で、蓮が小声でつぶやく。
その少し前列には、第二・第三班の隊員たちも肩を並べていた。
室長が、レーザーポインタでマーカーを示す。
「精神的リスクの高い能力者が居住、あるいは勤務しているエリアだ。
長期任務明け、重傷からの復帰直後、家族の喪失……負荷が偏っている者たちだな」
軽く言ったようで、その内容は重かった。
「シャドウブリンガーは、これまでのログから、そうした『限界ギリギリ』の能力者の近くに現れる傾向がある。
外獣だけではなく、人型化の予備軍を狙い撃ちにしている可能性が高い」
スクリーンに、別のレイヤーが重なる。
シャドウブリンガーの過去目撃地点が、赤い点で表示された。
黄色いマーカーと、赤い点がいくつも重なり合う。
「今回、外縁第七ブロックで巨大フラクチャーが発生する確率が、臨界値に近づいている。
奴は、ほぼ確実に姿を見せる」
室長の声が、少しだけ低くなる。
「
一つ、深層へ続く導線を押さえ、民間人の避難経路を確保すること。
二つ、減速フィールドを展開し、通常戦力とヒーロー部隊が戦いやすい舞台を作ること。
そして三つ――」
スクリーン中央に、赤い円が描かれた。
「その舞台の上に、シャドウブリンガーを引きずり出し、足止めすることだ」
ざわ、と小さな息が漏れる。
誰かが喉を鳴らし、誰かが無意識に腕を組んだ。
「……要するにだ」
隊列の中で、甲斐が小さく肩をすくめる。
「俺らが袖まくって、『ここで暴れてください』って場所を用意する係ってことか」
皮肉っぽい口調。だが、声はよく通った。
「やめろ、ウォール。そう言われるとマジで胃が痛くなる」
隣で光太が頭をかく。
「でも、やること自体はいつもと同じ……なんだよな? 減速フィールド内で守るだけだろ、多分」
多分、という一言が、逆に不安を増幅させる。
神崎は、前列から振り返り、第三班の方を一瞥した。
「任務はいつも通りだ。
スロー部隊はフィールドを展開し、通常部隊と連携して守る。
正面から殴り合うのはヒーロー部隊だ」
言葉だけ聞けば、いつものブリーフィングと変わらない。
ただ――蓮には分かった。
神崎の目の奥に、いつもより強い何かが、静かに灯っていることが。
(隊長……何か、決めてる顔だ)
その「何か」が何なのか、蓮にはまだ言語化できない。
けれど、今日の任務が単なる「いつも通り」では終わらない予感だけは、はっきりとあった。
◇
DPA本部・モニタールーム。
無数の画面が、夜のシティの断面図を映し出している。
その中央にある大型モニタの一つで、グラフがゆっくりとせり上がっていた。
オーバーウォッチ――水瀬 柚希は、モニタに視線を固定したまま、ヘッドセットに指を添える。
「外縁第七ブロック、空間歪曲値、レッドゾーン手前。
小規模フラクチャーの連鎖も増加傾向」
指先でパネルを弾くと、別のウィンドウが開いた。
そこには、歩道橋の階段がねじれ、路地裏の壁がわずかに伸びている映像が映っている。
アナウンスが、天井スピーカーから流れた。
『縁第七ブロック、コア反応がレッドゾーンへ移行中。
関連能力者に待機命令を発令』
別モニタに、各能力者の識別コードが並ぶ。
ファルコン。複数のヒーロー候補名。
(水際で止めないと、一気に深層まで抜けるタイプだな、これは)
水瀬は、数字の並びから癖を嗅ぎ取る。
何度も見てきた「悪いパターン」の一つだ。
「第一班、車両前集合を確認。……神崎さん、こちらOW1。音声通ってる?」
『こちらスロー一班、受信良好だ』
インカム越しの声は、いつも通り落ち着いていた。
『作戦は共有済みだ。現場に着くまでは、通常の前進配置と同じでいいな』
「うん。フラクチャーそのものは、まだ完全には開いてない。
ただ、歪みは深層までつながってる可能性がある。油断しないで」
『了解した』
短い応答。
だが、その背後で、車のドアが次々と閉まる音が聞こえた。
◇
地下駐車場の出入り口に、スローの車列が並んでいた。
蓮は、支給されたスピードスーツのグローブを締めながら、薄暗い天井を見上げる。
頭上の通気口から、夜の空気が微かに流れ込んでいた。
地上はもう、ネオンとサイレンで騒がしいはずだ。
「ビビってるか、新入り」
背後から、甲斐が声をかけてきた。
「そりゃ、まあ。でかいの来るって言われて、喜ぶタイプじゃないし」
「安心しろ。でかいのは、大抵ヒーローと上の連中がなんとかしてくれる。
俺らの仕事は、そいつらが仕事しやすいよう、路盤ならしておくことだ」
「雑な例えすんなよ、ウォール」
光太が苦笑する。
「でもまあ、俺らが止めなきゃ、そのまま街まで突っ込んでくるわけで。
結局、一番怖いのは何もできないパターンなんだよな」
「……だな」
蓮は、胸のバイタル表示を一度だけ確認して、車両の扉を開けた。
運転席には通常戦力の隊員が座り、後部には神崎と第三班のメンバーが乗り込んでいく。
「今回のフラクチャーは、これまでとは桁が違う」
エンジン音に紛れないよう、神崎が低く告げる。
「だが、任務は変わらない。減速して、守る。それだけだ」
「それだけ、って顔じゃないですよね、隊長」
思わず、蓮の口から出た。
「前から思ってたんですけど、隊長、何かやたら腹括る時の目してますよ」
「……それは職業病だ」
神崎が、わずかに口の端を上げる。
「命懸けの現場で、大したことはないって顔はできない。
本当に大したことがない時ほど、人は勝手に油断するからな」
「名言っぽいこと言ってますけど、安心材料ゼロなんすけど」
光太のツッコミに、車内の空気が少しだけ和らいだ。
車列が動き出す。
地下からスロープを上がり、夜のシティへ。
首都高の高架下を抜け、外縁へ向かうにつれ、街灯の間隔が少しずつ広がっていく。
ビルのガラスに映る星のない空が、じわりと歪んで見えた。
蓮は、その歪みを見上げながら、喉の奥で小さく息を吐いた。
(……本当に、間に合うのかよ)
答えはない。
ただ、車列は外縁第七ブロックへ向けて、黙々と走り続けた。
◇
――数日前。
シティ郊外の立体駐車場は、普段なら通勤客の車で埋まっている時間帯のはずだった。
今は、ほとんど空だ。
コンクリートの柱が歪み、天井と床の距離が場所によって違って見える。
小規模フラクチャー。
通常戦力が外周を封鎖し、スローは別エリアに回されていた。
神崎は、一人でフロアの奥へと歩いていた。
表向きの名目は現場確認。
実際には――もっと個人的な用事だ。
暗がりの先で、黒いシルエットが動いた。
大型の寄生型エネミーが、横倒しになった車両に張り付き、ボディを根ごと蝕んでいる。
その胸部を、一本の黒いブレードが貫いた。
破裂したのは血ではなく、黒い結晶の塊。
コアだけが喰われ、寄生されかけていた金属と肉片は、人間の形になり切る前に崩れ落ちる。
シャドウブリンガー。
全身を黒い外骨格に覆われた人型が、崩れた外獣の上に立っていた。
その姿は、銃火器の照明よりも闇に馴染んで見える。
「……東条」
神崎が、距離を測ったうえで、その名を呼んだ。
シャドウブリンガーは、即座に否定しなかった。
ただ、バイオ・マスクとしか言いようのない頭部を、かすかに傾ける。
「その呼び方は、もう似合わないだろ」
装甲の奥から響く声は、低くかすれていた。
それでも、神崎には聞き覚えがある。
「
「分類上はな」
神崎は、一歩だけ踏み込む。
まだ互いに武器は構えたまま。ギリギリ、殺し合いに移行しない距離。
「如月のことは、聞いているか」
「……ガキの方か? ファルコンの後ろで走ってた」
「コア反応はゼロ。外見も、まだ人間のままだ。
異形化の初期段階なら、『人』に留める仮説が立ち始めている」
立ち並ぶ車両の影の間で、空間がわずかに揺れる。
小さなフラクチャーの波。
その中で、神崎は言葉を続けた。
「今の技術なら、初期段階なら……戻せるかもしれない。
少なくとも、全部を捨てなくていいかもしれない」
シャドウブリンガーは、しばらく黙っていた。
「……俺は、そのラインをすでに踏み越えた」
やがて、ゆっくりとした声が返ってくる。
「装甲の下も、中も、とっくにぐちゃぐちゃだ。
コアも、骨も、どこまでが『人』で、どこからが『外獣』か、自分でも分からない」
それでも、と装甲の奥の視線が言っているように見えた。
「お前が、ここまで来た理由は分かる」
黒いブレードの切っ先が、わずかに下がる。
敵意ではない。諦めとも違う、どこか中途半端な角度。
「俺が喰ってきた『影』を、誰が背負うんだ?」
「影?」
「人型になりかけのやつら。寄生されかけてるやつら。
俺が先回りして切った連中の、その先だ」
シャドウブリンガーの足元には、砕けたコア片とは別に、焦げた床跡がいくつも残っていた。
そこにはかつて、人間だった「何か」が立っていたのかもしれない。
「お前らは数字で見てるだけだろ。
『予備軍が減った』『リスクが下がった』って、グラフが下がればそれでよしだ」
「……全部がそうだとは、言わない」
神崎は、静かに否定する。
「だが、少なくとも俺は、数字より先に顔を思い出す側でいたい」
如月。
あのビルで、血と埃まみれの警備服で走ってきた東条。
交番の夜勤室で、缶コーヒーを差し入れてきた男。
「それでも――俺は、お前を救う側に立つ」
言い切った。
シャドウブリンガーは、乾いた笑いのような音を立てる。
「救う? まだそんなことが言えるのか」
だが、その目は、揺れているように感じられた。
「だったら、俺が守ってきた『影』ごと、全部抱え込む覚悟を持てよ」
黒い指先が、駐車場の奥を示す。
そこには、まだ小さなフラクチャーの亀裂が、蜘蛛の巣のように走っていた。
「人型になりかけのやつら。寄生されかけてるやつら。
俺が『ここで止めた』と思ってる連中の、その先まで背負えるのか?」
問いというより、呪いに近い言葉。
神崎は、それでも目を逸らさない。
「背負えるとは、言い切れない。
だが、背負わないまま見なかったふりをする気もない」
それが、彼の限界であり、精一杯だった。
「上は、きれいな研究テーマとして『治療』を語るだろう。
現場は、被害を減らすために『排除』を選ぶだろう。
そのどちらにも属さない場所で、俺は救うと言う」
シャドウブリンガーは、しばらく無言で神崎を見ていた。
やがて、黒い外骨格の肩が、わずかに上下する。
「近いうちに、大きいのが来る」
ぽつりと落とされた言葉は、予告のようでもあり、警告のようでもあった。
「そこが、お前の賭けの場だ。
外したら、全部まとめて終わりだぞ」
次の瞬間、シャドウブリンガーの姿は、フロアの奥の闇に溶けるように消えた。
神崎は、その残響が消えるまで、その場から動かなかった。
(賭け、か)
握りしめた拳の中で、爪が掌に食い込む。
(だったら――せめて、賭けるのは俺の側だけにしておきたいもんだな)
◇
DPA・作戦立案室。
壁一面のボードには、外縁第七ブロックの立体図が細かい線で描かれていた。
そこに、赤と青と黄色のマーカーが幾重にも重なっている。
赤は、巨大フラクチャー予測地点。
青は、スロー各班の配置ライン。
黄色は、通常戦力とヒーロー部隊の包囲網。
その中央に――一際濃い赤で塗られた楕円があった。
『シャドウブリンガー推定侵入ルート』
横には、簡潔な注釈。
『目的:シャドウブリンガー討伐』
『副次目標:人型化予備軍の制圧』
神崎は、その文字列を黙って見つめていた。
スロー各班のマーカーは、まるで舞台装置の支柱のように、フラクチャー予測地点を囲んでいる。
その中心に、シャドウブリンガーを立たせる――そんな図だった。
(囮、か)
分かりきっていたことだ。
分かっていたはずなのに、今日ほどその言葉が重く響いたことはない。
東条と交わした言葉。
「救う側」に立つと決めた自分。
それを見下ろすように、ボード上の赤字が並んでいる。
「……隊長?」
背後から声がかかる。振り返れば、ドアのところに蓮が立っていた。
「ブリーフィング、終わりました。一班はいつでも動けます」
「ああ」
神崎は、ボードから視線を外した。
「行こうか。
次のフラクチャーが――俺たちにとって、どんな意味を持つのかを確かめに」
蓮は、一瞬だけ言葉を失った。
その雰囲気の重さだけは、はっきりと察する。
(最後の任務、なんて言葉は……まだ口に出してほしくないけど)
それでも、足は勝手に前に出た。
「了解です、隊長」
この次のフラクチャーが、
神崎と東条――そしてスロー部隊にとって、取り返しのつかない分岐点になることを、
その時の彼らは、まだ誰も言葉にできずにいた。
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