第8話 可能性を探っているということなのか

 隔離区画の廊下は、冷房の効きすぎたサーバールームみたいに、いつ来ても寒い。


 蓮は、腕を組んだまま分厚いガラスの向こうを見つめていた。


 拘束具付きのベッド。その上に、両手両足を軽く固定されて眠る青年――如月迅きさらぎじん


 首筋と腕に浮かんでいた黒い斑紋は、数日前よりだいぶ薄くなっている。それでも、完全には消えていない。


「……ほんとに、助かったんだよね、あの人」


 隣で、佐伯光太さえきこうたが不安そうに呟く。ガラスに映る自分の顔を見ないように、視線だけ泳がせて。


「助かったっていうか」


 もう一人、壁にもたれていた甲斐玲央かいれおが、いつもの低い声で言葉を継いだ。


「死に損ねたって感じだな。どの口でヒーロー候補なんて言うのか」


「お前さあ……」


「事実だろ。あのまま外で暴れてたら、どんだけ巻き添え出てたか分かったもんじゃない」


 甲斐のトゲは、いつもより少しだけ鋭く聞こえる。

 蓮は口をはさもうとして、やめた。


 ガラス越しの如月は、ただ眠っているようにしか見えない。

 あの地下で見た、黒い線に引きずられた“なり損ね”の姿が、重なる。


(あの時、シャドウブリンガーが斬ったのは――人か、外獣エネミーか)


 黒い残光が走った一瞬を、蓮の脳は勝手にスロー再生する。

 コアを喰った怪物と、ヒーロー候補。その境目は、どこにあったのか。


 廊下の奥、カードキー付きのドアの前で、神崎司と水瀬柚希みなせゆずきが立ち止まっていた。


「……行くぞ、水瀬」


「はい。どうせ揉めますけどね」


 短いやり取りのあと、二人は会議室へ消える。

 如月の治療の可能性に関する会議が開かれる、とだけ聞かされている。


「隊長たち、なんか言ってた?」


 光太が蓮の肘をつつく。


「いや。終わったらざっくり教えるってさ」


「ざっくりかよ。生きてんのか死んでんのかくらい、はっきりしてほしいんだけど」


「モニタ動いてんだろ。生きてはいる」


 甲斐があごでガラスの向こうのバイタルモニタを示す。規則正しい波形が、心臓のリズムを刻んでいた。


 それが、どっち側のリズムなのか――蓮には、まだ判断がつかなかった。


    ◇


 壁一面がモニタになった会議室は、薄暗いシアタールームみたいだった。


 テーブルを挟んで向かい合うのは、神崎と水瀬、それから白衣の医療主任・藤堂とうどう、スーツ姿の研究主任・二階堂にかいどう、そして事務方の管理職たち。


 テーブル中央には、立体映像のホログラムが浮かんでいる。


 如月の生体グラフ。外獣コア反応の波形。シャドウブリンガー介入の瞬間、ゼロに落ちる赤いライン。

 別レイヤーには、過去の「完全人型エネミー」となったケースのグラフが並べられていた。


「――結論から申し上げますと」


 研究主任・二階堂が、指先でホログラムを撫でてデータを切り替えながら口を開く。


「外獣化初期段階に限り、コア除去と強制抑制で『人』に留める可能性がゼロではない――としか言えません」


 ゼロではない。

 その言い回しに、事務方の一人が眉をひそめる。


「そのゼロではないを、もう少し具体的に」


「条件があります」


 二階堂が指を折っていく。


「まず、コア反応が完全に分離しているタイミングであること。如月君のケースでは、コア群が背後の構造体に寄生していた形でした」


 ホログラムに、如月の背後にまとわりついていた黒いコア群の映像が再生される。シャドウブリンガーの一撃とともに、それが吸い込まれるように消える。


「次に、肉体変異がまだ可逆域であること。骨格や内臓への定着が薄い段階であれば、抑制ギアと薬物で進行を止められる可能性がある」


 別のグラフには、筋肉や内臓の変異度がパーセンテージで示されていた。

 如月の数値は、ギリギリ可逆域とされるラインの手前に引っかかっている。


「最後に――」


 二階堂は、少し言葉を選ぶように間を置いた。


「強制抑制ギアおよび薬物投与で、残存コア片の活動をどこまで抑え込めるか。

 これについては、正直なところ実験段階です。成功例は、まだひとつもありません」


 横で白衣の医療主任・藤堂が口をはさむ。


「肉体的には……ギリギリ人間側に引き戻せるラインです」


 藤堂はホログラムの如月のシルエットを少し拡大し、首筋や腕の斑紋にマーカーを重ねる。


「ただし、精神面ははっきり言って爆弾だ。

 自分が何者か、どこまでが人間でどこからがエネミーか、常に揺れ続ける状態になるでしょう」


 事務方の男が腕を組む。


「つまり、治療できる可能性はあるが、その結果としていつ暴走するか分からない患者が生まれる、と」


「極論すれば、そうなります」


 二階堂は淡々と頷く。


「ただ、我々としては、今回の如月君のケースが境界ラインであると考えています。

 これ以上進行したケース――」


 ホログラムが切り替わる。

 匿名化された「初期装甲ヒーロー候補」の生体ログ。コア反応の波形は、完全に人型シルエットと重なっている。


「――こうしたパターンでは、コア分離の技術もなく、戻ることはありませんでした」


 神崎は、その古い波形を見て、喉の奥がひりつくのを感じた。


(……お前も、ここに混ざっているのか)


 ファイル名は伏せられていても、あの数字の揺れ方はよく知っている。


「で、我々としてはですね」


 事務方の一人が、話をまとめるように咳払いした。


「人型エネミーとして処分するのが従来方針であったところを、今回に限り医療隔離対象として経過観察に切り替える、ということでよろしいか」


「分類上は、そうなります」


 藤堂が答える。


「『人型エネミー』は討伐対象。

 『人間の異常生体反応』は医療隔離対象。

 如月君は、現時点では後者――患者として扱うべきです」


 短い沈黙が落ちる。


 水瀬が、手元の端末を軽くタップしながら口を開いた。


「ではログ上も、『エネミー化による処分』ではなく、『外獣コア除去および患者生存』として記録を修正します。

 現場指揮官の権限としては、それで問題ありませんか、神崎さん」


「……ああ」


 神崎は小さく頷く。


 処分完了から生存へ。

 文字列を変えただけのはずなのに、喉の奥に刺さっていた何かが、少しだけ動いた気がした。


    ◇


「つまりさ」


 会議室を出たあと、オペレーションルーム前の廊下で、蓮は神崎の説明を聞いていた。


「外獣化しかけても、戻せる可能性はあるってことですよね」


 神崎は、腕に抱えたタブレットを軽く持ち直す。


「今のところの仮説だ。実際に戻せた例は、まだ一人もいない」


「でも――ゼロじゃないなら」


 蓮は思わず身を乗り出した。


「シャドウブリンガーだって、どこかで……」


 黒い外骨格が剥がれて、その中から誰かが出てくる。名前も知らない、“元・人間”が。


 そんなイメージが一瞬だけ脳裏に浮かぶ。


「レン君」


 水瀬が、やや柔らかい声で遮った。


「可能性としてはゼロじゃない。

 ただ、あのスペックと異形化の進行度を考えると、医学的には……かなり厳しい」


「……ですよね」


 蓮は頭をがしがしとかいた。


 分かっている。シャドウブリンガーは、あの地下で見た如月とは比べ物にならない。

 でも――黒いブレードが、コアだけを正確に喰っていった光景が、頭から離れない。


「隊長は、どう思うんですか」


 気づけば、口が勝手に動いていた。


「シャドウブリンガーのこと。

 あいつ、ホントに救えないんですか」


 神崎は少しだけ視線をそらす。


 廊下の先、隔離区画のガラス越しに、眠っている如月が見えた気がした。

 その背中に、昔の誰かが二重写しになる。


「……分からん」


 細い声だった。


「医学的にも、現場の感覚としても、今のところはな」


 それ以上は言わず、神崎はオペレーションルームへ歩き出した。

 水瀬が軽く肩をすくめ、蓮にだけ「後でログ、見せるから」と目配せする。


 蓮はその場に取り残されて、拳を握る。


(ゼロじゃないなら――)


 その曖昧な希望は、まだ言葉にならないまま、胸の奥で渦を巻いていた。


    ◇


 何度も沈んで、何度も浮かび上がる夢だった。


 歪んだ駐車場の深層。ひしゃげた柱。ねじれたスロープ。

 視界の端を、黒い外獣が駆け抜ける。


 如月 迅は、そこで何度も足を取られ、何度も誰かを庇おうとして、何度も失敗する。


 バインドが勝手に伸びる。

 ファルコンの進路を乱す。

 モブ仲間が吹き飛び、壁に叩きつけられる。


 ファルコンが何か叫んでいる。

 自分は「すみません」と繰り返している。

 喉の奥から、ノイズ混じりの声しか出ていない。


(あれ、俺……こんな軌道、出したっけ)


 そんな違和感さえ、すぐに戦場のノイズに押し流された。


 そして――ブレードが振り上げられる。


 上からではない。真正面から。

 トップヒーロー『ファルコン』の刃が、自分に向けられた瞬間。


(あ、ここで終わりなんだ)


 妙に納得して、如月は目を閉じた。


 その横から、黒い残光が割り込んでくるまでは。


 胸を貫かれたような衝撃。

 体の内側から、何か粘つくものが根こそぎ引きはがされていく感覚。


 痛みと共に、世界が白く弾ける――。


    ◇


 目を開けると、真っ白な天井と、直線的なライトがあった。


 視界の端には、何本ものチューブとケーブル。

 手首と足首に、柔らかい拘束具の感触。


 自分の胸も脇腹も、布に覆われている。スーツじゃない。病衣だ。


「……」


 喉がひりついて、声がうまく出ない。


 ガラスの向こうを、防護服を着た医師や職員が横切る。

 視線は一瞬だけこちらをかすめるが、すぐにモニタへ戻っていく。


「気分はどうですか」


 やがて、防護マスク越しの声が聞こえた。

 白衣の男――医療主任の藤堂だ。


「……最高っすよ」


 如月は口角だけ無理やり持ち上げた。


「ヒーロー候補から、一気に危険物ですから」


 自分の声は、思っていたより掠れていた。


「あなたは助かったんです」


 藤堂はマニュアル通りの口調で続ける。


「外獣コアは除去されました。今は経過観察と治療の一環として、ここに――」


「モルモットじゃなくて、ですか」


 一瞬、言葉が詰まる気配がした。


「……治療です」


「はいはい。治療、ですよね」


 如月は視線を天井に戻した。


(生かされたんじゃない。

 殺すほどの価値もないから、様子見に回されたんだ)


 医師が何を説明しようと、耳に残る単語は限られている。

 抑制薬、経過観察、再暴走リスク――。


 ガラスの向こうで、別の白衣が誰かと話している。


「抑制薬の投与量を増やしても良いですが、人格面への影響が――」


「治療例が無い以上、どこまで人間性を維持できるかは……」


 人間性という言葉だけが、やけに鮮明に響いた。


(ヒーローになれると思ってた)


 ファルコンの後継者―—ヒーロー候補。

 ニュースで名前が出る日を、バカみたいに想像したこともある。


(ファルコンの後継だって持ち上げられて、その気になって。結果がこれかよ)


 ドアの向こうで、足音が止まる。


 ガラス越しに立った影を見て、如月は思わず息を飲んだ。


 白と青のスピードスーツ。特徴的なバイザー。

 現役トップヒーロー――ファルコンだ。


「……よう」


 マスク越しでも分かるくらい、気まずそうな声だった。


「悪かった」


「ファルコンさんが謝ることなんて、何もないっすよ」


 如月は、できるだけ軽い調子で笑ってみせる。


「俺が、勝手にライン超えただけですから」


 ファルコンは何か言いかけて、やめた。

 代わりに、ガラス越しに短く手を上げ――そこで、ふと思い直したように、指先をヘルメットのロックにかける。


 小さな解錠音。

 白と青のマスクが持ち上がり、素顔がガラス越しに現れる。


 整った顔立ち。けれど、左側の頬からこめかみにかけて、皮膚の下で何かがうごめいているような、黒い筋と硬質な光沢が浮かんでいた。

 人間の肌と、エネミーの装甲の中間みたいな、いやな質感。


 如月は思わず息を呑む。


「……見えるか」


 ファルコンが、わざとその左側をガラスに近づける。


「多かれ少なかれ、能力者は戦い続ければこういうのが出る」


 淡々とした声だった。自分の顔のことを、もうとっくに他人事みたいに扱っている声音。


「お前のアザーは、その負担がデカかったみたいだな」


 如月は、返す言葉を探して、見つけられない。

 喉の奥がひりつく。

 ヒーローの完成形だと思っていた背中に、最初から刻まれていたはずのひびが、ようやく視界に入り込んでくる。


「……それでも、前に出るやつが必要なんだとよ。上はそう言う」


 ファルコンはそう付け足すと、再びマスクをかぶった。

 いつものトップヒーローの顔が戻る。


 ガラス越しに短く手を上げる。


「また来る」


 その一言を残して、背を向ける。


 残された如月は、笑顔のまま天井を見つめた。


(また来る、ね)


 胸の奥で、黒い何かが、ゆっくりと伸びていく。


(ヒーロー候補ってのは、人型エネミー候補でもあるってことか。

 最初から実験動物扱いなら、ちゃんとそう言えよ)


 視線を横に向けると、自分のバイタルモニタの横に、過去の「人型エネミー」のグラフが並んでいるのが見えた。


 赤と青の波形は、ほとんど同じ形をしている。


(グラフの上じゃ、俺もサンプルのひとつか)


 心の中に、黒い線が一本、静かに走る。


 それはまだ、誰の目にも見えない。

 ただ、如月自身だけが、その冷たさをはっきりと感じていた。


    ◇


 夜のオフィス街の映像は、ノイズまみれだった。


 神崎は、自分のデスクで古いログを再生していた。

 如月のデータと比較するために引っ張り出してきた、迷宮災害最初期の記録だ。


 ファイル名には、いくつかのアルファベットと数字。

 その中に、ひとつだけ見覚えのある文字列が混じっている。


 Case-01_T。


 再生ボタンを押すと、画面は過去の映像を映し出した。


    ◇


 深夜のオフィス街は、コンビニよりも暗くて、コンビニよりも静かだった。

 街灯の下だけが、ぽつぽつと島みたいに浮かんでいる。


 神崎はパトロールルートの端、ガラス張りの複合ビルの前で足を止めた。

 自動ドアの向こう、エントランスの奥に、明るい箱みたいな警備室が見える。


 ノック代わりにドアを軽く押し開けると、蛍光灯の白さと、安いインスタントコーヒーの匂いが押し寄せてきた。


「おつかれさまです、巡回っすか」


 カウンターの内側から顔を出した男が、コンビニ袋をぶら下げている。

 制服の胸には、小さく警備会社のロゴ。


「勤務中の警官に賄賂とは、いい度胸だ」


 若い頃の神崎は、今より少しだけ柔らかい顔をしていた。

 袋から缶コーヒーを一本抜き取りながら、形だけのツッコミを入れる。


「いやいや、これはビル側からのお心づけってことで。眠い顔してたから、こっちの自衛ですよ」


 男――東条迅とうじょうじんは笑った。

 このビルの夜勤警備員。何度か巡回で立ち寄るうちに、顔見知りになっていた。


「今日も酔っ払い、出ました?」


「二件。どっちも自力で帰った」


「いいなあ。うちのビルの酔客、すぐ吐くんで最悪なんすよ。

 でもまあ、無事に寝てくれるなら可愛いもんですけどね。エレベーターシャフトに落ちられるよりマシっす」


「安い給料で、よくやる」


「そうでもないですよ?」


 東条は警備室のガラス越しに、ビルの外――さっき神崎が歩いてきた通りをちらっと見た。


「ここ通る人たちが、ちゃんと朝までたどり着けるなら、悪くない仕事だなって。

 ――交番の灯りも、パトカーのライトも、見えてると安心するんで」


「おだててもなにも出ないぞ」


「おだててるわけじゃないですよ」


 東条は、缶コーヒーを自分の分も開けて、肩をすくめる。


「俺がこのビルで仕事できてるのはさ、

 夜中でもちゃんと巡回してくる神崎さんみたいな人がいるおかげなんすよ」


「こっちは一応、公務だ」


「じゃあ、お勤めごくろうさまですってことで」


 言って、東条はまた笑った。


 その夜は、まだ静かだった。

 少なくとも――あの最初の迷宮災害ダンジョンディザスターが起きるまでは。


    ◇


 ビルが折れる音を、生きているうちに聞くとは思わなかった。


 雷でも爆発でもない。金属とコンクリートが無理やりねじられる、嫌な音。


 無線が一斉に鳴り出し、通報用の電話が点滅する。

 交番の外に飛び出すと、駅前の商業ビルが、まるで粘土みたいに歪んでいた。


 壁にひびが走り、窓ガラスが内側から膨らむ。

 次の瞬間、その割れ目から黒い何かが飛び出してきた。


「――なんだ、あれは」


 まだ外獣エネミーという言葉が存在しなかった頃だ。


 神崎は、とにかく目の前の人間を遠ざけることだけ考えていた。

 怒号と悲鳴の中で、東条がビルから飛び出してくる。


 警備服は血と埃まみれ。肩に誰かを担ぎ、後ろにも数人を引き連れている。


「中、もうメチャクチャです! 上のフロアにまだ――」


「お前、あの中を通ってきたのか」


「俺しかいなかったんで」


 息も絶え絶えに、東条はそれだけ言った。


 ほんの数十分前まで、東条はビルの奥の設備フロアにいた。

 普段ならテナントも立ち入らない配管だらけの通路。その突き当たりで、床が割れ、むき出しになった下層に、脈を打つように明滅する何かがあった。


 金属でもガラスでもない、形容しがたい生物的な塊。

 その周囲で、壁と天井がねじれ、通路が引き延ばされるみたいに歪み始めた。見慣れたビルが、光と影のノイズに飲み込まれて、別の形に変わっていくのを――東条は、ほぼ至近距離で見てしまった。


 それが何なのか、この時点では誰にも分からない。

 ただ、「あそこに近づいたら戻れない」という直感だけを抱えて、東条はフロアの奥から人をかき集め、崩れ始めたビルを全力で駆け抜けてきたのだ。


「……まだ、残ってるんですよ。取り残されてるやつが」


 目を合わせる。

 それだけで、二人は理解し合っていた。


 次の瞬間、神崎と東条は、ほとんど同時にビルの中へ走り出していた。


    ◇


 中は、今で言う「フラクチャー」の原型だった。


 床は斜めに傾き、階段は途中からねじ切れている。

 天井と壁の境目が分からない。奥から、何かが這いずるような気配。


 エネミーたちには、まだ名前すらなかった。


 階段を駆け上がろうとした瞬間、段が崩れ落ちる。

 神崎の足元が一気に消え、体が宙に浮く。


 落ちる――と思った瞬間、腕を掴まれた。


「っと」


 東条だった。信じられない速度で身を乗り出し、ギリギリのタイミングで掴み上げる。


 その動きは、どう考えても普通じゃない速さだった。


(今のは――)


 考える暇もなく、視界の端から黒い影が飛びかかる。

 東条が背負っていた避難者を庇うように身をひねる。その背後に、もう一体。


「っ――」


 神崎は、とっさに倒れた案内看板を蹴った。

 看板がスライドしてエネミーの脚を絡め取り、突進の軌道がずれる。


 爪が壁を抉り、かろうじて東条の背中は切り裂かれずに済んだ。


「助かりました!」


「貸し借りはナシだ。さっさと行くぞ」


 二人で最後の避難者――震える子どもを抱えて外へ走る。

 ビルを出た瞬間、背後で大きな音がして、上のフロアが崩れ落ちた。


「今の、完全に死んだと思いましたよ」


 外で膝をつきながら、東条が笑う。


「俺もだ」


 神崎は肩で息をしながら、短く応じた。


「……これでチャラだな」


「ですね。今のところ、チャラ」


 少しだけ間を置いて、東条は真顔になる。


「さっき、あの階段で――

 俺、たぶん普通じゃない速さで動きました」


「気のせいで済めばいいがな」


 神崎は、崩れたビルを見上げる。


「もし本当にそうなら……これからもっと、厄介なことになる」


    ◇


 後日。


 スーツ姿の男が、交番の狭い休憩スペースに立っていた。


「先日の件で、お二人の記録を拝見しました」


 男は、丁寧に名刺を差し出してくる。

 名刺には、聞き慣れない部署名が印字されていた。


『異空間対策室』。


 神崎は、一瞬だけ眉を動かす。

 聞いたことのない部署だ。だが、あの夜の異常を思えば、不思議でもない気がした。


「特に東条さん。あの異常空間の内部での動き方、避難誘導……

 我々の異空間対策室への参加を、検討していただけませんか」


 その言葉に、東条は戸惑ったように笑う。


「いやあ……俺なんかでいいんすか」


 説明によれば――


 能力者としての適性。

 装甲をまとい、前線に立つ役割。

 高い危険と、その代わりに用意される補償。


 神崎は、資料を黙って読み込んだ。

 東条は、軽口を挟みながらも、目の奥は真剣だった。


「少し、考えさせてもらっていいですか」


 東条はそう答え、その夜、交番の屋上で神崎と缶コーヒーを飲んでいた。


「……正直、怖いっす」


 風が強かった。街の灯りが、少しだけ滲んで見える。


「今回みたいな異常なのが、これから増えるんでしょ。

 普通の人じゃ、どうやっても勝てないやつ」


「まあ……そうなる可能性は高いな」


 神崎は、缶を指で軽く弾いた。


「だからといって、お前が全部背負う必要はない。

 あの夜だって、たまたま間に合ったから助かっただけだ。

 あと数秒ズレてたら、お前も俺も、ここにはいなかった」


「ですよね」


 東条は、星の見えない夜空を見上げる。


「でもさ。たまたま間に合ったあの子ども、次は間に合わなかったかもしれないって考えると」


 缶コーヒーを握る指に、自然と力が入る。


「誰かが、ああいう場所に先に入っていく役を引き受けないと、この街を守り切れないんじゃないかって」


 言葉を選びながら、それでも口に出さずにはいられない、という話し方だった。



 神崎は、少しだけ声を落とした。


「お前が普通に生きて仕事を続けることだって、十分この街の役に立ってる。

 冗談でも、自分を捨てるみたいな言い方は、あんまり聞きたくない」


「……すみません」


 東条は、ぽりぽりと頬をかいた。


「でも。俺は向こう側に行くから、神崎さんはこっち側を守っててください」


 いつになく真面目な声だった。


 神崎は、しばらく黙っていた。

 それから、缶コーヒーを持っていない方の拳を握る。


「お前の居場所くらい、いくつでも残しておくさ」


 それは、約束だった。


「だから――勝手に向こう側へ行くんじゃない」


 東条は、いたずらっぽく笑う。


「約束ですよ」


    ◇


 モニタに映っているのは、現在のシャドウブリンガーのシルエットと、隔離室の如月のバイタルグラフだ。


 神崎は目を閉じる。


(あの時、俺は約束した。戻る場所を残しておく、と)


 結果は、これだ。


 東条は深層で怪物になり、如月はなり損ねとしてガラスの向こうに横たわっている。


(せめて――如月には、戻る場所を残す)


 その決意だけは、まだ折れていなかった。


    ◇


 街の外縁。誰も近づかない深層ダンジョン。


 重力の向きがあいまいな廊下を、黒い残光が駆け抜ける。

 壁や天井から、腫瘍のようにせり出した外殻が脈打ち、その内部から異形の外獣が次々と生まれては、切り裂かれていく。


 シャドウブリンガー。


 全身を黒い外骨格に覆われた人型が、巨大外獣の群れの中を走る。

 狙いは雑魚ではない。


 通路を塞ぐように根を張った、大型の外獣。

 他のエネミーを喰い、体内にコアを複数抱えこんだ寄生型。

 その胸部や腹部には、まだ形になり切らない何かの輪郭――人型とも、ただの塊ともつかない影が、うごめいていた。


 シャドウブリンガーの黒いブレードが、そうした核の中心だけを正確に貫く。

 血ではなく、黒い結晶の塊が弾ける。

 コアだけが喰われ、巨大な肉塊は、別の何かを生み出す前に崩れ落ちた。


 黒い粉と砕けた装甲片だけが、床に散る。


 シャドウブリンガーはただ、静かにブレードを構え直し、

 深層の奥で、次の大型個体――連鎖の起点になりそうな異常反応だけを探していた。


    ◇


 隔離区画のガラスは、やっぱり冷たかった。


 新堂蓮は、額をつける距離までは近づかず、少し離れた位置から如月を見ていた。


 バイタルモニタは、規則正しく脈を刻んでいる。

 画面の隅には、小さく『外獣コア反応:0』の文字。


「……治せるかもしれない、か」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 背後では、甲斐と光太がひそひそと話している。

 少し離れた場所に、水瀬と神崎の姿もあった。


 蓮は目を閉じ、シャドウブリンガーの一撃のスロー映像を思い出す。


 一撃目――如月そのものではなく、背後のコア群だけを切り裂く軌道。

 二撃目以降――周囲の外獣を素早く処理し、如月から攻撃を引きはがす動き。


(人型になりかけたヒーロー候補。

 コアだけを喰って、ギリギリで人間を残した人型エネミー)


 胸の中で、言葉が形になる。


(シャドウブリンガー――治療の可能性を探っているということなのか)


 ガラスの向こうで眠る如月と、深層で巨大外獣と対峙するシャドウブリンガーの背中が、脳内で重なった。


 どちらも、まだ戻る場所を失い切ってはいない――そんな気がして。


 蓮は、拳をゆっくり握る。


(もしあいつが、ほんの少しでも救うべき側にいるなら――

 俺は、どうすればいい)


 答えは、まだ出ない。


 ただ、その問いだけが、次の戦場まで持ち越されていく。

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