第6話 俺の方が早い

 迷宮災害ダンジョン・ディザスターの速報テロップは、もう日常のBGMみたいなものだ――はずだった。


 けれど、その日だけは違った。


『本日十六時十二分ごろ、湾岸第三区コンテナターミナル一帯で大規模フラクチャーが発生――』


 ブリーフィングルームの壁面モニタに、ぐにゃりと曲がったコンテナラックと、青白い亀裂の光が映し出される。海風に晒された鉄骨が、まるで巨大な生き物の肋骨みたいに軋んでいた。


 新堂 蓮は、支給スーツの首元を指でいじりながら、乾いた喉を一度鳴らす。


(……なんかこれまでとは違うって感じするな、これ)


 冗談みたいな感想が脳裏をよぎる。言葉に出したら、ウォールあたりに殴られそうだ。


「被害規模は?」


 椅子に腰掛けたまま、神崎司が短く問う。いつもどおりの抑揚の薄い声だが、スクリーンに映る文字列を追う目だけが鋭い。


『コンテナターミナルの約四割が転位。内部に中級外獣エリートエネミー多数、上級の混入可能性あり。海上ルート封鎖の影響で、民間貨物船の退避が遅れているとのことです』


 オペレーションルームからの音声がスピーカー越しに届く。声の主は、水瀬柚希――コールサインOW1。


「スロー第三班は、東側埠頭からの侵入ルート確保と、民間船の避難護衛を担当。現場時間で二十分以内に、港湾側の安全ラインを引く」


 神崎は淡々と言い、隣の蓮たちを見る。


「新堂、甲斐、佐伯。質問は」


「質問というか、愚痴なんすけど隊長」


 甲斐玲央・ウォールが、椅子から背を離さずに手だけ挙げた。相変わらずの眠そうな目つきで、口調だけはやたらトゲがある。


「湾岸のフラクチャー、嫌な予感しかしないんすけど。足場悪いし、海落ちした一般人の回収とか、絶対スローの仕事増えるパターンですよね」


「お前、それ愚痴っていうか現実認識だろ」


 佐伯光太・ダッシュが笑う。短く刈り込んだ髪をぽりぽりかきながら、モニタの地図を覗き込んだ。


「でもまあ、ヒーローも来るんだろ? この規模だと」


 その一言で、部屋の空気がわずかに変わる。


 蓮も思わず、壁際の別モニタに目を向けた。そこにはニュース番組が小さく映し出されている。テロップの端に、白いシルエットアイコンと共に、ある名前が表示された。


『現役トップヒーロー・ファルコン出動予定』


(……マジで来るのかよ)


 第一章の頃、コンビニのバックヤードで見ていたPVの中の存在。ド派手なスピードエフェクトを引きながら、外獣を一撃で切り裂いていく装甲ヒーロー。


 その本人が、今度は同じ現場に立つ。


 胸の奥がざわつく。憧れと、焦りと、よくわからないもやもやがごちゃ混ぜになって、スーツの中で心臓だけがやたらうるさい。


「……質問、無しでいいか?」


 神崎の視線が、蓮の顔を一瞬だけ掠める。


「はい。どうせ現場で全部答え合わせですし」


 蓮は肩をすくめて笑ってみせた。震えが声に乗らないよう、わずかに息を吸う。


「よし。十分後、出動だ」


 神崎が立ち上がり、スーツの袖口を軽く直した。


「トップヒーローがいようと、スローの仕事は変わらない。味方も民間人も守る。それだけだ」


     ◇


 湾岸第三区コンテナターミナル。


 灰色の空と、鈍く濁った海面。その境界に、青白い亀裂の線が縦横に走っていた。崩れたコンテナラックが崖のようにそびえ、その隙間から、黒い獣影が何体も這い出している。


「視覚情報、共有します」


 耳元のイヤーピースから、OW1の落ち着いた声が聞こえる。ヘルメット内のバイザーには、味方部隊とエネミーの反応が色分けされて表示された。


「スロー第三班、減速フィールド展開可能位置まで前進。神崎隊長の合図でスロー発動」


「了解。ウォール、前に出る。船側からの流れ弾、全部まとめて止めてやるよ」


 甲斐がシールド・エミッターを構え、足場の悪いコンテナの間を先行する。その背中に続きながら、蓮は足下を注意深く見た。


 地面は海水で濡れ、ところどころに青い光の膜――ダンジョン境界が滲んでいる。うっかり踏み越えれば、重力が逆さまになって海中に投げ出される、なんて洒落にならないパターンもあり得る。


「ダッシュ、右から回り込め。スロー起点の正面を空けておけ」


「りょーかい! また隊長の爆心地の真横かよ、燃えるなあ!」


 光太が笑いながら、コンテナを飛び移っていく。スピードLv1とは思えないほど軽い身のこなしだが、蓮の目には、そのスピードの限界も見えていた。


 それでも――彼は前に出る。


 蓮は一度、自分の両手を握ってみる。手袋越しに感じるのは、スーツの補助ギアと、自分の心拍。


(俺は……スピードLv2。シールドLv2。トリプル適性。数字だけ見れば、ヒーロー候補)


 けれど。


(――前に出たやつから、死ぬ)


 頭のどこかで、以前の自分の言葉がリフレインする。モールで一度死んだ記憶と共に。


「新堂」


 不意に、神崎の声が背後から飛んだ。


「はい」


「怖いなら怖いでいい。ただし、足は止めるな」


 短く、それだけ言って。神崎はコンテナの影から身を乗り出す。


「ここから先、スロー展開。――減速領域スロー・フィールド、発動」


 世界が、音を失った。


 いや、完全な無音ではない。遠くで鳴るサイレンの音が、テープをゆっくり巻き戻したみたいに間延びして聞こえる。飛びかかってきた中型外獣の跳躍も、ぬるりとしたスローモーションになった。


 蓮の身体だけは、いつも通り動く。スピードスーツが、筋肉の動きを先読みしてくれる。シールド・エミッターを全開にし、飛びかかってきた外獣をすれ違いざまに切り裂いた。


「こっち一帯、クリア! 神崎さん、フィールド維持いけます?」


「まだ余裕はある。だが――」


 神崎の額に、早くも汗がにじんでいるのがバイザー越しに見えた。


「東側からの中級外獣群が接近中。通常部隊とのラインが薄い。――OW1、他戦力の投入予定は」


『現在、上空待機中のヒーロー戦力が接近中。三十秒以内にコンタクトします』


 ヒーロー戦力。その単語と同時に、蓮の心拍が一段上がった。


 次の瞬間だった。


 視界の端で、空気が裂けた。


 白い軌跡が、海風を逆撫でするように走る。次いで、金属の衝突音が、スローの外側から無理やりねじ込まれてきた。


「……なに、今の」


 光太がつぶやく。その言葉を追いかけるように、上空から影が落ちてきた。


 湾岸クレーンのアームを踏み台に、ひとりの男がコンテナの山頂に着地する。純白と紺の流線型スーツ。胸部プレートには、翼を模したエンブレム。


 ヘルメットのバイザーに、金色のラインが光る。


「――俺はファルコン、トップヒーローだ」


 それは、テレビの中と全く同じ決め台詞だった。


 だが、画面越しではない。スローの減速領域と世界の境目に立ち、風を切って高らかに言い放つ、その姿には、あまりにも現実感があった。


(本物だ……)


 蓮は、ただ見上げるしかなかった。


 ファルコンは、コンテナの縁に立つと、下にうごめく外獣の群れを一瞥する。


減速支援隊スローだな。助かる。お前たちはフィールド維持と後衛の護りに集中してくれ」


 その声はよく通るが、不思議と軽さはない。命令ではなく、役割の分担を当然のように告げているだけだ。


「こちらはファルコン小隊。俺と――」


 彼の背後、クレーンアームの上に、もうひとつの影が立っていた。


 ファルコンよりも少し細身のシルエット。深緑色のスピードスーツに、左腕だけ黒い補助ユニットが追加されている。ヘルメットのバイザーには、薄い紫のライン。


「ファルコン2、如月迅きさらぎじんです。スピード《Speed》Lv2、アザー系能力・拘束バインド担当」


 軽やかな声。ヘルメット越しでも若さが分かる。


「減速領域の縁を走るのは初めてなんで、いろいろ教えてください」


「ヒーロー候補様が新人ムーブとは、またレアだな」


 甲斐が、ぼそりと皮肉を漏らす。


「……如月迅、か」


 蓮は、その名前に、心のどこかがひっかかるのを感じた。


 神崎から聞かされた、過去の相棒の名。偶然か、悪い冗談か。それとも。


「新堂」


 神崎の声が、今度は少しだけ低くなる。


「名前で引っかかるな。目の前の任務に集中しろ」


「……了解」


 蓮は一度頭を振り、目の前の光景に意識を戻した。


     ◇


「スロー領域、東側に寄せられるか?」


 ファルコンが問う。すでに彼は、減速領域の外側で中級外獣の群れと交錯していた。


 通常の時間の中で動く彼のスピードは、蓮たちの視界から見ても、もはや線でしかない。三歩先にいたと思えば、次の瞬間には外獣の背後に回り込み、白い残光を引きながら斬撃を叩き込んでいる。


「できるが、負荷が跳ね上がる。対象数を絞れ」


 神崎の返答に、ファルコンは短く笑った。


「なら、前衛の外獣だけでいい。残りは――如月」


「はいはい、バインド・セット」


 如月 迅が左腕のユニットに触れる。次の瞬間、コンテナの影から、黒い線のようなものがずるりと伸びた。


 影そのものが立ち上がったかのような拘束線が、外獣の足元から噴き出す。床面だけでなく、コンテナの側面、クレーンの柱。あらゆる面から伸びた黒い線が、外獣の四肢に絡みついた。


「拘束完了、三秒キープ!」


「十分だ」


 その三秒の間に、ファルコンは十体分を斬り抜けていた。


 スロー無しで、中級外獣を相手にしてなお、それだけの殲滅速度。まさしく「時代の象徴」と呼ばれるだけのことはある。


(スローに頼らなくても、外獣くらいなら余裕――ってやつか)


 蓮は苦笑する。自嘲なのか、尊敬なのか、自分でもよく分からない笑いだった。


「こっちも黙って見てるだけってのは性に合わねえな」


 甲斐が、シールドを前面に展開しながら言う。


「神崎さん、フィールドの縁、あと五メートル前に出せます?」


「頭痛が倍になる」


「倍くらいで済むなら安いもんですよ」


 光太が笑い、蓮の肩を叩いた。


「なあレン。スローとファルコン、どっちがカッコいい?」


「状況によるだろ」


「じゃあ今は?」


「……どっちもだよ。どっちもじゃ駄目か?」


「欲張りだなあ、お前」


 軽口を交わしながらも、足は止めない。


 神崎のスロー領域が、じわりと広がる。蓮はその縁に沿って走り、外獣の突進をシールドで受け止めながら、スローの中に押し戻していく。


 減速された外獣は、そのまま通常部隊の銃撃と、ダッシュのヒット&アウェイで削られていく。


「……これが、ヒーローと減速支援隊の分業ってわけか」


 蓮は、小さくつぶやいた。


 前線を切り開く象徴と、その背中を支え、広げた穴を塞ぐ地味な部隊。


 どちらが欠けても、戦線は維持できない。そう頭では分かっているのに、モニタ越しに見てきた「光」の側が、あまりに派手で羨ましいのも事実だった。


     ◇


 戦線が安定し始めた頃、空気の色が変わった。


『上級外獣反応。座標、コンテナブロックE-7、地中から出現』


 OW1の声が、一瞬だけ硬くなる。


 次の瞬間、コンテナの山の下から、鉄骨ごと吹き飛ばすような衝撃が走った。


 巨大な甲殻を持つ外獣が、コンテナの瓦礫を押し上げながら姿を現す。六本の脚、尾の先端には鎌状のブレード。全身を覆う黒い装甲が、海水を弾いて光った。


「……あれは、上級寄りだな」


 ファルコンが、低くつぶやく。


「減速領域、あれに集中させる。通常の中級は一度無視でいい。各班、上級の突進ラインから退避しろ」


 神崎の声に、全チャンネルの「了解」が重なる。


 蓮もシールドを前に、上級外獣の進路から横に飛び退いた――その瞬間。


 視界のすぐ横で、通常部隊の一人が足を滑らせた。崩れたコンテナの角に引っかかり、そのまま上級外獣の突進ラインに転がり込む。


(まずい――!)


 身体が勝手に動いた。


 スローが掛かり始めているせいで、上級外獣の動きはさっきより遅く見える。けれど、倒れた隊員の動きも同じように鈍っている。間に合うかどうかの境界線に、蓮は飛び込んだ。


 シールドを最大出力で展開。突進の牙と前脚のブレードが、透明な壁にぶつかる。


 鈍い衝撃音と共に、膝から上に痺れが走った。


「くそっ……!」


 踏ん張る。スピード2のブーストを足に乗せ、シールドごと外獣の頭部を横に滑らせる。


 その一瞬の隙に、隊員を後方へ突き飛ばした。


『新堂の前で上級外獣の速度がさらに低下。神崎隊長、スロー出力を上げました?』


 OW1の疑問が飛ぶ。


「……いや、今のは俺じゃない」


 神崎が短く答える。


(また、時間が……揺れた?)


 蓮の背筋に、うっすらと冷たい感触が走った。モールでの巻き戻りの感覚が、うっすらとフラッシュバックする。


 だが、それを考える暇はない。


「如月!」


 ファルコンの声が飛ぶ。


「了解、バインド最大出力!」


 如月 迅の左腕から、さっきとは比べ物にならない太さの拘束線が走った。影が裂け、黒い蛇のような線が上級外獣の脚に絡みつく。


「三秒は無理! 二秒!」


「十分だ!」


 ファルコンが、スロー領域の縁を蹴った。


 減速された世界と、通常速度の世界。その境界線を、彼は一瞬で飛び越える。


 白い残光が、上級外獣の甲殻を斜めに切り裂いた。ブレードの隙間から、黒い体液が弾け飛ぶ。


 だが――それでも、外獣は倒れなかった。


 咆哮と共に、尾の鎌が振り下ろされる。ファルコンはそれを紙一重で避けたが、その勢いでコンテナブロックの一部が崩れ落ちる。


 崩壊したコンテナ群が、スロー領域の外側に雪崩れ込む。通常部隊とスロー班のラインが、一気に混乱した。


「隊列崩壊! スロー領域、これ以上維持すると味方も巻き込む!」


 神崎の眉間に深い皺が刻まれる。


「減速を一度解除する。各自、自律回避を優先しろ!」


『待ってください――』


 OW1の声が、そこで途切れた。


 次の瞬間、空気そのものが暗くなった。


     ◇


 黒い影が、海霧の中から現れた。


 コンテナの残骸を、まるで紙くずみたいに踏みつぶしながら現れる、その姿は――何度も映像で見せられてきたシルエットと同じだった。


 全身を覆う黒い外骨格。人間の筋肉を無理やり外側に引き出して装甲にしたみたいな、有機的な線。右腕から伸びた黒いブレードが、海風を切るたびに低い音を立てる。


 人型エネミー・シャドウブリンガー。


 現場の数人が息を呑む音が、蓮のイヤーピース越しに伝わってきた。


「……お出ましかよ」


 ファルコンが、苦笑とも警戒ともつかない声を上げる。


 シャドウブリンガーは、彼のほうを一度だけ見た。バイザーも表情もないはずの顔面部から、無形の視線だけが突き刺さる。


 そして――


 黒いブレードが、上級外獣の首を撫でた。


 一瞬の出来事だった。誰も反応できない速度で、シャドウブリンガーは上級外獣の周囲を駆け抜けていた。


 次の瞬間、上級外獣の甲殻に、細く深い切れ目が十数本走る。内部から黒い体液が噴き出し、そのまま巨体は膝から崩れ落ちた。


 その間、わずか二秒。


(……格が違う)


 蓮の頭が、冷静に数値をはじいていた。いや、数字じゃ測れないのかもしれない。少なくとも、自分の世界線を巻き戻す『何か』とは別の方法で、時間そのものをねじ伏せているように見えた。


「勝手な真似を」


 ファルコンが、白い残光を引きながらシャドウブリンガーの前に出る。


「ここはDPA管理下のフラクチャーだ。勝手に狩りをするなら、討伐対象として処理させてもらう」


 シャドウブリンガーは、しばし沈黙していた。


 やがて、かすかな声がスピーカー越しに拾われる。ノイズが乗った、低く擦れた声。


「……獣の始末をしてやっただけだ」


 その声を聞いた瞬間、蓮の心臓が跳ねた。


(――東条さん)


 神崎から聞かされた、夜勤警備員時代とは違うだろう合成音めいた声。けれど、その奥にある芯の部分だけは、どこか人間に通じるものがある気がしてしまった。


「シャドウブリンガーはもう人間じゃない。討伐対象だ」


 ファルコンの声には、一片の迷いもない。


「外獣も、ヒーローも、好き勝手に狩る。線を越えた存在は、誰であれ戻ってこない」


「それは、お前たちが勝手に決めたことだ」


 シャドウブリンガーが、わずかに首をかしげる。


「俺は……まだ、守るために走っている」


 その言葉に、ファルコンの眉がわずかに動いた。


「守る? その姿で、か」


「姿で決めるのか。ヒーロー」


 一瞬、場の空気が凍った。


 蓮は、神崎のほうを見る。隊長は、ヘルメットの下で目を細めていた。


「……東条は、まだ戻れるかもしれない」


 神崎の声は、小さく、だがはっきりとした。


「こいつはもう、人間じゃない」


 それに対するファルコンの返答も、また揺るぎない。


「人型外獣・アンノウンカテゴリー。ヒトの一線を越えた失敗例だ」


「DPAがそう言ったから、そうなのか?」


 シャドウブリンガーの黒いバイザーが、ファルコンの胸部プレートに埋め込まれた小型センサーを見やる。


「数字でしか世界を見ないヒーローに、人間の境界線が測れるのか」


「……上等だ」


 ファルコンの足元が、爆ぜた。


 白い残光と黒い残光が、交差した。


 スローの外側――通常の時間の中で行われるその攻防は、蓮たちの目にはほとんど残像にしか見えない。


 だが、ほんの一瞬だけ。


 ファルコンのヘルメット内のHUDに、数値が弾かれるのが、映像リンク越しに共有された。


《展開Speed:3.4》

《対象:推定Speed:3.2/Shield:2.0》


「……同じスピードLv3判定でも、俺のほうが速い」


 ファルコンが、かすかに笑う。


 だが、その言葉は勝利宣言にならなかった。


 シャドウブリンガーの黒いブレードが、ファルコンの肩当てをかすめる。白い装甲片が海風に舞い、海へと落ちていく。


 互角――いや、ほんの少しだけ、黒の影が押しているようにも見えた。


「やめろ!」


 神崎の怒声が、チャンネルを震わせる。


「ここは戦闘データを取り合う場所じゃない! フラクチャーを収束させるのが先だ!」


 その一喝に、わずかに二人の動きが止まる。


 シャドウブリンガーが、ふっと距離を取った。


「……フラクチャーの核は、もう沈めた」


 彼が顎で示した方向には、光を失って崩壊しつつあるダンジョン亀裂の中心部があった。上級外獣が出現した直下、コンテナと地面の隙間にあったはずの核が、いつの間にか破壊されていたのだ。


「ここは、じきに閉じる」


 シャドウブリンガーは、それ以上何も言わず、海側へと跳躍した。


 黒い残光が、湾岸クレーンのアームを駆け上がり、濃い海霧の中に消えていく。


 ファルコンは、しばらくその方向を睨んでいた。


「……シャドウブリンガーは、討伐対象だ」


 誰にともなく、もう一度だけそう言って。


「だが、今は優先順位の問題だな。――各員、被害確認と救助活動に移れ」


 彼はあっさりと切り替えた。


     ◇


 フラクチャーの亀裂は、予告どおりゆっくりと収束し始めた。


 青白い光が薄れ、歪んだ空間が元のコンテナヤードへと戻っていく。残されたのは、崩れた鉄骨と、外獣の残骸、そして疲れ切った人間たちだけだ。


「民間船は全隻避難完了。通常部隊の死者ゼロ、重傷三。スロー側、軽傷多数」


 OW1の報告が、わずかな安堵を含んでいた。


「新堂」


 名前を呼ばれ、蓮は振り返る。


 ファルコンが、ヘルメットを外していた。額に張り付いた汗を手の甲で拭いながら、まっすぐに蓮を見る。


「さっきの上級外獣のブロック。悪くなかった」


「あ、どうも」


 突然のトップヒーローからの評価に、蓮は思わず姿勢を正す。


「スローがあるからこそできる動きだ。俺一人じゃ、ああいう守り方はできない」


 ファルコンは、あくまで事実を述べるように言った。


「だが――」


 そこで言葉を区切り、コンテナの影を一度見やる。


人型外獣ヒューマン・エネミーに、これ以上好き勝手させるわけにはいかない。あれは、もう人間じゃない」


「……そう、ですか」


 蓮は、思わず口に出していた。


「自分の命削ってまで、外獣狩ってて。それでも、人間じゃないって決めつけるんですか」


「命を削るのは、ヒーローも同じだ」


 ファルコンの目は真剣だ。


「問題は、倒したエネミーの数じゃない。一線を越えたかどうかだ」


 彼は自分の胸を軽く叩いた。装甲の下には、まだ人間の骨と筋肉があるはずだ。その確信を、自分自身に言い聞かせているようにも見えた。


「……また会うかもしれないな、新堂」


 そう言い残し、ファルコンは如月のほうへ歩いていった。


     ◇


 救助活動の合間、蓮はふと、如月 迅の姿を探した。


 彼は、コンテナの陰で、補給用のスポーツドリンクを片手に座っていた。ヘルメットを外し、額の汗を拭っている。年齢は蓮とそれほど変わらないだろう。


「さっきは助かった。バインドがなきゃ、上級の脚は止められなかった」


「こちらこそ。減速領域スローの領域で走るの、新鮮でしたよ」


 如月は、柔らかく笑った。


「スローの仕事、カッコいいっすね。派手じゃないけど、現場の空気全部変わる感じで」


「ヒーロー候補に褒められると、くすぐったいな」


 蓮も笑い返す。


「……腕、大丈夫か?」


 何気なくそう聞いた瞬間、如月の表情がわずかに固まった。


「え?」


「さっき、バインドの出力上げてた時。左腕のユニット、かなり負荷かかってただろ」


「ああ、これっすか。まあ、ちょっとピリピリするくらいで」


 如月は、左腕のユニットを軽く叩く。その拍子に、袖口がずれた。


 蓮の視界に、一瞬だけ、素肌が見えた。


 手首から肘にかけて、薄く黒い斑紋が浮かんでいる。血管の上に、墨汁を薄く垂らしたみたいな、不自然な模様。


 それは、外獣の装甲に似ていた。


(……え)


 喉の奥が、ひゅ、と鳴る。


 如月は、すぐに袖を引き戻した。笑顔は崩さないままだ。


「ちょっとしたアレルギーみたいなもんですよ。スーツと相性悪いのかもしれないっすね」


「そう、か」


 蓮は、それ以上何も言えなかった。


 後ろから近づいてきた気配に振り向くと、神崎が立っていた。バイザー越しに、如月の袖口を一瞬だけ見ていた気がした。


「――新堂。港湾側の民間船、最後の確認に行くぞ」


「了解」


 蓮が立ち上がると、如月も軽く手を振った。


「また現場で会いましょう、スロー部隊のトリプルさん」


 その笑顔が、本物なのかどうか。蓮には、もう判別がつかない。


 海風が吹く。


 黒い斑紋の残像が、いつまでも視界の端から消えなかった。


(人型外獣化の――初期症状?)


 頭の中で浮かんだ言葉を、蓮は必死に打ち消す。


 数字でしか世界を見ないヒーローと。数字の裏側で、人間でありたいと足掻く誰かと。


 自分は、そのどちら側に立つのか。


 答えの出ない問いだけが、次のフラクチャー警報よりも早く、胸の中で鳴り続けていた。

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